「ところで怪我の具合はもう大丈夫なのか? 手紙にはすっかり治ったと書かれていたが心配で……」
「それはこちらの台詞です。殿下こそこんな風に出歩いて大丈夫なのですか? あんなに酷い怪我だったのに」
「俺は本当に大丈夫だ。まだ多少傷跡は残っているが、痛みはもうほとんど引いたし……」
「でもまだ傷跡も痛みも残っているのでしょう? 無理なさらずゆっくり休まれてください。そうでないと私も安心できません」
よく見れば、アンドレアスの首元から包帯のようなものが覗いている。きっと服で隠れてはいるが、まだ身体中に怪我の跡が残っているのだろう。
「……本当に心配です」
ルツィエがぽつりと呟くと、アンドレアスがくすぐったそうに頬をかいた。
「そんなに心配してくれていたんだな……ありがとう」
その声がひどく嬉しそうで照れくさそうだったから、ルツィエはどきりとしてしまった。
皇太子である彼ならもっと多くの人に心配されただろうに、ルツィエひとりの言葉にこれほど喜んでくれるなんて。
(この人は祖国を滅ぼした国の皇族なのに、どうしてこんなに優しいのかしら……。それに、この人の笑顔を見るとどうしてこんなにも胸が安らぐの……?)
自分の気持ちに戸惑っていると、アンドレアスの表情がふいに真剣なものに変わった。そしてルツィエの手を取り、そっと握りしめる。
「そなたにお願いがある。あのときのことは、誰にも言わないでほしいんだ」
「あのときのこととは……」
「……そなたを押し倒してしまったときのことだ」
アンドレアスが辛そうに眉根を寄せる。
後悔と絶望が混じったような彼の表情に、ルツィエの胸も締めつけられる。
アンドレアスにとって、あの変化は既知のことであり、きっと自分の力ではどうにもできないことなのだろう。以前、自ら木に頭を打ちつけていたのは、これを苦に思ってのことだったのかもしれない。
ルツィエはアンドレアスの手を握り返し、神妙な顔でうなずいた。
「分かりました。あのときのことは秘密にします」
「……ありがとう」
アンドレアスは儚げな笑みを浮かべると、ルツィエの手を離した。
「そろそろ行くよ。ヨーランが来ないうちに帰らないと」
「ええ。くれぐれもお大事になさってください」
アンドレアスと別れたあと、ルツィエは彼の温もりを確かめるように、ついさっき握られたばかりの手に触れた。
崖から落ちたときも、アンドレアスの手がルツィエの手を掴んで助けてくれた。彼の手は大きくて温かくて、触れられても嫌ではない。それどころか、離れるのが名残惜しいとさえ思ってしまった。こんな風に思うのは、家族への裏切りだろうか。
「私、どうしてしまったのかしら……」
「ああルツィエ、お前がどうしたのか僕に教えてくれ」
突然背後からヨーランが現れ、ルツィエは心臓が止まりそうになった。
(まだヨーランが来る時間じゃないのにどうして……)
アンドレアスの訪問は、わざわざヨーランが来ない時間を伝えて来てもらったのに、なぜここにいるのだろうか。
まさかさっきの会話を聞かれていたのだろうか。
「あの、皇太子殿下は私のお見舞いに来てくださって……」
「見舞い? 逢瀬の間違いじゃないのか!?」
「そんなわけ──」
「あいつがルツィエを押し倒したというのはどういうことだ!?」
「……っ」
ヨーランが怒りで顔を赤く染め、血走った目でルツィエを睨みつける。
「洞窟で奴と何かあったのか!?」
「何もありません」
「嘘だ! 僕がいない間に奴と抱き合っていたんだろう! お前まで僕よりあいつを選ぶなんて……!」
ヨーランがルツィエの腕を掴み、憎しみを込めるように力一杯握りしめた。
「うっ……」
あまりの力に振りほどくこともできない。
このままでは腕が折れてしまいそうだ。
「い、痛いです……おやめください、ヨーラン殿下……」
ルツィエが必死の思いで懇願すると、名前を呼ばれたヨーランが我に返り、ルツィエの腕から手を離した。
「あ……僕は何を……」
放心したように自身の両手を見つめるヨーランから距離を取りながら、ルツィエが恐るおそる弁明する。
「皇太子殿下とは何もありません。押し倒したというのは、洞窟で足もとが悪くて転んでしまっただけです。今日いらっしゃったのも本当にただのお見舞いで……ヨーラン殿下には誤解されたくありません」
「──本当に奴とは何もないのか?」
「はい、誓って何もございません」
「お前は僕だけのものか?」
「……はい」
何の意味もない相槌を返すと、ヨーランは震える口もとで弧を描き、赤い髪をかき上げて乾いた笑い声をあげた。
「そうだな、お前が僕を裏切るはずがなかった。お前を最初に救ったのは僕なんだ。僕が先にお前を見初めたんだ」
ヨーランはルツィエをじっと見つめたあと、「また来る」と言って背中を向けた。
「あいつに分からせてやらないとな」
遠ざかっていくヨーランの背中を眺めながら、ルツィエは嫌な予感に冷や汗がにじむのを感じた。