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“ついこの間”
“初めて”
その相手が脳裏を過ぎる。
顔が引きつっているのか、口元がうまく動かない。
心に舞い戻ってきた、あの手の感触を。
今の、この不自然な沈黙を。
どうやり過ごそうかと思案する真衣香の手から、八木の手が離れていった。
不安になり隣を見上げると、頭を包むように抱き寄せて、その広い胸に真衣香を密着させた。
「や、八木さん!?」
「……なんだよ、こんなもんじゃ足りねぇぞ。 他の男となんか噂されやがって」
突如聞いたこともない甘い声で囁く。
八木は、こんなふうに特別な女性に接するのだろうか……と。
想像したなら、カッと体温が上がっていくのを感じた。
(こんなだから子供扱い……ってか、犬扱いされるんだよ!)
突然の八木の行動にフリーズしていると、近くで足音が複数響く。
見れば更衣室を出て、こちらに向かっていただろう数人の女子社員が、真衣香と八木をジッと見つめている。
そう、抱き合うようにして密着する姿を。
そのタイミングで到着したエレベーター。
引きずられるようにしてすぐに乗り込んだなら、扉が閉まる直前。
「見たーー!?」
「ってゆうか聞いた!?」
「八木さんヤバいー! 彼女に甘いー!」
……などと、絶叫が響く。
もちろんそれは八木の耳にも、真衣香の耳にもバッチリ届いた。
ぶは!っと吹き出した八木をキッと睨みつける。
「…………八木さん」
「ぶっ、何だ、お前が睨んだとこで怖くねぇぞ」
真衣香の睨む攻撃は八木に効果はなく、笑いながら軽くあしらわれてしまった。
「てかインパクトあったろが。 さすがにお前が尻軽扱いはなぁ……、杉田さんの耳に入ったら卒倒するわ」
ククッと口元に手を当てて、杉田を思い浮かべたのだろうか。八木が小さく笑い声を上げている。
その間にエレベーターは一階に到着し、扉が開かれた。
真っ直ぐ廊下を歩くと営業部からは、まだたくさんの人の声が聞こえているし、社員通用口から帰ろうとする真衣香たちとは逆に会社へと戻ってきた……恐らく営業部の数人と鉢合わせた。
(忙しそう……。 時期もあるかもだけど営業部ってやっぱり大変だな)
そう思って呑気に眺めていた真衣香の瞳は、最後に通用口から中に入ってきた人物により大きく見開かれた。
そして、その人物と目が合ってしまう。
なんで坪井くんが……、と。微かに真衣香の唇が動いた。
(……なんで、会いたくないと思うと、こんなに偶然会えちゃうの)
会いたくてたまらなかった時には、用事を無理やり作って何とか会えていたくらいなのに。
坪井と共に戻った営業部の男性たちは、ひそひそと耳打ちしながら真衣香と八木を見る。
「だから違うって何回も言ってるじゃないですか」と、笑顔を決め込んで……恐らく噂を否定する坪井。
その顔からは表情通りの感情も、また逆に怒りなどの感情も。
そのどれをも読み取ることができなかった。
ガヤガヤとからかうような声を残して、坪井以外が営業部のフロアへと入って行く。
彼は、それを見届けた後、真衣香に視線を戻した。
「お疲れ、今から帰るの?」
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