テラーノベル
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部屋の時計は二十一時を回っていたが、この部屋は電気が通っており、明るかった。そのおかげで私は机に向かい、紙の上で万年筆を走らせていた。
東堂家の部屋では明かりはもっぱら、アルコールランプや蝋燭。私が居た離れは電気が通っていなかった。だから夜に作業するときは目が疲れてしまった。
蒼波様のおかげでここに来て移住し、何も問題ない。それを紙の上にカリカリと綴る。
『蒼波様のおかげで何も不自由がありません。ありがとうございます。家の方も皆、お優しいです。喉によい薬やハチミツのおかげで、痛みはかなり引きました』
『差し入れのりんごに、珍しいパイナップルもとても美味しかったです』
ふっと口元を緩める。
蒼波様が部屋を出て行かれたあと、女中の方が着物や食事、喉の薬などを持って来てくださった。その後、丁寧に御屋敷の案内をしてくれたのだ。
ここの家の人達は東堂家とは違い、ずっと笑顔で対応してくださり、屋敷の広さや装飾、お庭の美しさに驚く私に、嫌な顔一つせずに蒼波家のことを教えて下さった。
東堂家での私への扱いは雲泥の差。微笑み掛けて下さるだけで嬉しくなった。
その間のやり取りは女中の方にお願いして、立派なノートと万年筆を頂き、筆談だったが皆様と交流出来て嬉しかった。その思いを綴っていく。
『皆様のおかげで本日は快く過ごせました。夕食には食べやすい、おうどんを頂きました。とても美味しかったです。しかもお風呂は洋式の猫足の浴槽で、ハイカラでびっくりしました。使わせて頂くと、まるで異国へと旅をした気持ちにもなり、とても心地よかったです』
蒼波様は夕食の時間になっても帰ってはこなかった。
女中の方が『蒼波様はとてもお忙しい方で、帰って来ない日もあるから気を落とされないように』と言っていた。それは仕方ないことで私も「大丈夫です」と、頷いた。
そのうち一緒に食事する機会もあるだろう。
その時はどんな、会話をしたらいいのだろうと万年筆を持つ手を止めて想像する。
……私と蒼波様。果たしてちゃんと会話が出来るだろうか。
私は今の流行りのものなど、何も知らない。軍のことなどサッパリだ。
胸を張って喋れるのは海のことや、薬や医療のことばかり。
殿方はそんなこと興味ないだろう。
ましてや蒼波様は地位ある方。
もっと世間を賑わす華やかな話題、時流、国内外の経済とかに興味があるのではと思った。
私にそのような弁が立つ会話が出来るだろうかと、考えてしまうと頭が下がってしまった。
ふうっと一息はくと、胸元の淡い水色の|夜着《ナイトドレス》のレースが電灯の光を受けて淡く、きらりと輝いた。
その輝きを見て顔を上げる。
蒼波様は私にこのような上等なものを沢山、用意してくださった。
ぱっと前を向いて、万年筆をきゅっと握る。
会話ぐらいやって見せなくては。
蒼波様にがっかりされたくない。明日からは新聞や雑誌を沢山読もうと心に決めた。
そしてまた手を動かす。
『本日。蒼波家の皆様のおかげで、私の見立てではございますが、明日、明後日には声が出ると思います』
『その時はご迷惑でなければ、蒼波様とお話ししたいと思っています』
『全ては蒼波千尋様のおかげです。ときに……』
ここで万年筆をふと止めて、またカリカリと走らせる。
すると頭に結わえていた二つの髪紐もさらりと揺れる。二つの髪紐が戻ってきて、とても心強い。
『お体のお加減いかがですか。本当に何も問題ありませんか』
稀人の血が人に、どんな影響を与えるかは私にはよく分からない。
奇跡は起こった。
何も不安なことはない。信じたいとは思う。そんな気持ちがない混ぜだった。
他に蒼波様が誰に傷を負わされたのかは、気にはなったが私が聞いたところで何になる。
今は余計な詮索をすべきでは無いと頭を振った。
あとは、そうだ。
『私を妻にすると言うのは本当ですか。私は──稀人です。ご迷惑をお掛けしませんか? ですので見せかけの妻でも良いのです。東堂家から連れ出してくれて、それだけで言うことはありません。今後、お掃除や家事、私に出来ることがあれば、なんなりとお申し付け下さい』
カリッと、紙に文字をしたためる。
力を入れ過ぎたのか、文末は白い紙に青のインクが少し滲んでしまった。
今、書いた文章を蒼波様に見せるべきかどうか迷う。
紙に書いたものは全て偽りのない気持ちだが、朝に蒼波様は私の目を見てしっかりと私を『妻』だと言ってくれた。しかも──
『我が妻として、命尽きるまで真那を守り抜くことを誓おう』
輝くような美貌と黒瑪瑙の美しい瞳で、私などに胸が熱くなるような言葉をくれた。
その言葉と気持ちを疑うようなことは、失礼なことではないか。
口付けもした仲ではあるが、恋愛感情からではない。
でも、私のなどに──と、万年筆の先が紙の上でくるくると周り、難破船のように迷う。
「うぅん……」
くぐもった声を出したとき、バンっと部屋の扉が開いた。
驚いて万年筆を落としそうになったが、訪れた主を見て体が固まった。
「今帰った。お、遅くなってすまない……!」
そこには息を切らして、マントを片手にした蒼波様が居た。
何故慌てているのかと一瞬疑問に思ったが、そうだ。一緒に食事をすると言うのを、蒼波様はちゃんと覚えてて下さった。だから、慌てて来てくれたと思った。
でもご多忙の身。
そんなこと気にしなくてもいいと、席を立って首をブンブン振る。
『おかえりなさいませ。どうぞ、お気になさらないでください』
咄嗟に言葉を言おうとすると、ケホッと軽く咽せてしまった。
「あぁ、無茶はしなくていい。まだ喉は辛いのだろう。とりあえず、風呂と飯を十五分で済まして来る」
今、蒼波様はご飯とお風呂と十五分で済ますと言った?
えぇと。軍の方はそれそれそれは、毎日の鍛錬で素早く行動することを義務付けられていると言うことらしいが──聞き間違えかと首を傾けると、蒼波様はさらに言葉を続けた。
「真那、共に食事は出来なかったが、せめて一緒に寝よう。少し待っていてくれ。じゃ」
一緒に寝る?
誰が誰と?
今度こそ蒼波様の言葉の意味を理解出来ないでいると、蒼波様は風のように部屋をパタンと出て行かれた。
部屋に残されたのは私と疑問だけ。
しんとした静けさは、何やら嵐の前の静家さのようだ。
「……」
どうしようかと思った。
それでもこのまま、ぼうっとしている訳には行かない。
蒼波様はまたこの部屋に戻って来る様子。
だったらお茶の用意ぐらいするのが礼儀ではないかと思った。
せめてそれぐらいのことをしなくてはと、私も慌てて部屋を出て行ってお台所に行くのだった。
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コメント
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蒼波家での温かい日常にほっとしました。東堂家での扱いとの差にじんと来ます。真那さんが「会話ぐらいやってみせなくては」と新聞を読もうと決意する健気さに胸がきゅっとなりました。文末でインクが滲む描写も心情が伝わってきて素敵。最後の「一緒に寝よう」には勢いに笑いました。慌ててお茶を用意しに行く姿が愛おしいです。