テラーノベル
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朝のオフィスに、まだコーヒーの香りが濃く残っている。
自動ドアが開くたびに冷たい外気が流れ込み、その度みことは肩をすくめた。
――今日も、すち先輩はいるのかな。
誰にも聞こえないよう小さくつぶやいて、デスクに荷物を置く。
みことが入社して一年。まだまだ慣れたとはいえないが、困ったことがあれば必ず手を差し伸べてくれる先輩がいる。
部署のエース、“完璧人間”と呼ばれる男――すち。
みことにとっては、ただの頼れる先輩なんかじゃなかった。
視界の端にいるだけで、胸がきゅっと苦しくなる。目が合えば鼓動が跳ねる。名前を呼ばれれば顔が熱くなる。
でも、それは絶対に口にできない感情だった。
「みこと、おはよう」
聞き慣れた声に顔を上げた。
スーツ姿のすちは、相変わらず整った髪型と涼しげな目元。言うことのすべてが落ち着いていて、歩くだけで周囲が安心したように道を開ける。
「……おはようございます、すち先輩」
みことは慌てて挨拶する。
すちは柔らかく笑って、みことのネクタイの曲がりにふと視線を落とした。
「ちょっと曲がってるよ」
「えっ……! す、すみません!」
「いいよ、じっとして」
すちはすっと手を伸ばし、みことのネクタイを整えた。
指先が喉元をかすめただけで、心臓が大きく跳ねる。
すちの指はあたたかくて、動きはとても丁寧で――
触れてほしいと願ってしまう自分が嫌になる。
「はい、これでよし。……今日の資料、昼までに見せてね」
「はいっ」
すちは軽く頭を撫でて自席へ向かった。
撫でられた場所が熱い。
胸の奥がぽうっと温かくなって、みことは視線を落とした。
こんなの、好きにならないわけがない。
「みこと〜また朝から赤い顔してる〜」
ひまなつがデスクに頬杖をついてニヤニヤしている。
「どうせすち先輩と何かあったんでしょ?」
「こ、こさめちゃんまで……!」
「いいじゃん〜、早く付き合っちゃえば」
「ど、どういう意味!?」
「だって、あのすち先輩がみこちゃんだけには甘いでしょ?」
こさめはケラケラ笑う。
「……甘くなんてないよ」
みことは慌てて否定した。でも否定しながら、胸がぎゅっと縮む。
甘い。
優しい。
いつも助けてくれる。
でも、それは後輩だからで、仕事仲間だからで、同期のこさめが言うような意味ではないと、自分に言い聞かせていた。
昼休み、給湯室。
コーヒーを淹れるすちの隣に、同期のいるまが立った。
「すち、お前さぁ……また後輩のネクタイ直してたろ」
「見てたの?」
「見るわ。ていうか周囲も全員見てる。……気づいてないのお前だけだよ」
すちはカップを置き、少し目を伏せた。
「俺は後輩の面倒をみてるだけだよ」
「お前、それ本気で言ってる?」
いるまは呆れ半分、苦笑半分で肩を叩いた。
「らんにも言われたんだけどさ。……みことを見る時だけ、表情が違うんだよ」
すちは返事をしなかった。
――違う。
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そんなはずはない。
みことは大切な後輩で、頑張り屋で、放っておけなくて……
気づけば目で追っていて、笑っているだけで安心して、落ち込んでいると胸がざわついて。
けれどその正体に名前をつけることを、すちはずっと避けていた。
完璧だと言われる自分が、誰か一人に心を乱されるなんて認められなかった。
「……俺は先輩らしくしたいだけだよ」
「そうかよ。ま、好きにしろ。沉んだ恋してるとらんが泣くぞ」
いるまは笑いながら出て行く。
すちはひとり残され、静かな給湯室にため息を落とす。
――先輩らしく。
そうありたいはずなのに。
みことの笑顔ひとつで、どうしてこんなに心が動いてしまうんだろう。
夕方、帰りのエレベーター。
すちとみことは偶然隣同士になった。
「今日は助かりました、資料……」
「ううん。みことが作る資料、最近すごくわかりやすいよ。努力してるの、知ってる」
「……っ」
褒められただけなのに、胸の奥がじんとした。
エレベーターの狭い空間で、すちの声がやけに近い。
「これからも困ったことがあったら言ってね。……俺は、みことの力になりたい」
「はい……」
本当は、もっと言いたかった。
もっと近づきたかった。
だけど、言葉は喉で止まってしまう。
――だって、先輩は完璧だから。
自分とは釣り合わないから。
エレベーターが1階につく音がして、二人は歩き出した。
すちもまた、横を歩くみことをちらりと横目で見て、心の中で同じ言葉を噛みしめていた。
――好きだなんて、言えるわけがない。
すれ違う視線。誰より近くて、誰より遠い。
両片想いの二人の距離は、この日もほんの数センチだけ縮まらないまま終わった。
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