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三月の風は、まだ鋭いナイフのように冷たかった。
宮野愛梨は、ガタガタと頼りない音を立てる路面バスの窓から、流れていく灰色の景色を眺めていた。都会の洗練されたビル群はもうどこにもない。視界を占めるのは、冬の眠りから覚めきらない裸の山々と、錆びついたトタン屋根の民家だけだ。
手元のスマートフォンには、通知ひとつ届かない。
一ヶ月前まで、鳴り止まない着信音に怯えていたのが嘘のようだった。
――「不倫女」。
――「清純派を気取って、裏ではこれか」。
身に覚えのない誹謗中傷と、事実を歪めて拡散された写真。それらすべてを仕組んだのは、かつて「愛している」と囁いたはずの男、佐藤佑真だった。
「次は、緑風高校前。緑風高校前です」
鼻声の車内アナウンスに弾かれたように、愛梨は立ち上がった。
重いキャリーケースを引いてバスを降りると、そこには校門へと続く長い坂道があった。
ここは、不倫疑惑というスキャンダルを抱えた二十五歳の女性教師が、キャリアを断絶させられないために提示された唯一の「逃げ場」だ。
都会から飛ばされた、誰も私を知らない場所。
男子校という、今の自分にとっては最も遠い場所にあるはずの聖域。
愛梨はコートの襟を立て、深く息を吐き出した。吐息は白く濁り、風に流されて消えていく。
今日から、ここで死んだように生きるのだ。余計な感情は持たず、誰とも深く関わらず、ただの「数学教師」という記号になって。
校門をくぐると、部活動に励む男子生徒たちの野太い声が響いてきた。数分前までの静寂が嘘のように、剥き出しの熱気が肌を刺す。愛梨は視線を伏せ、職員室を目指して早足に歩き出した。