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第82話:シロのゴロゴロ音が奏でる「魂のヒーリング」〜神獣のASMRと、論破できない浄化作用〜
限界集落の古民家に、穏やかな春の午後が訪れていた。
「……はい、左様でございますね。非常に困難な状況に置かれていること、お察しいたします」
俺は居間のローデスクに正座し、黒いヘッドセットを装着したまま、静かなトーンで相槌を打っていた。
フルリモートで請け負っている『お悩み相談室』の受電業務。
ジンバルに固定されたスマホの向こうでは、三百万人のリスナーが固唾を飲んで俺の「仕事風景」を見守っている。
もちろん相談者の声は配信には乗らないよう設定しているが、俺のプロフェッショナルな応対態度は、リスナーたちに新鮮な驚きを与えていた。
ただ、今回の相談内容は、元・社畜の俺から見てもかなりヘビーなものだった。
『もう、限界なんです……。上司からは毎日理不尽なノルマを詰められ、部下からは不満をぶつけられ……板挟みで、夜も眠れなくて……』
電話の向こうから聞こえるのは、おそらく四十代の、中間管理職と思われる男性のひどく掠れた声だ。
『昨日も終電まで残業したのに、今朝は「お前のマネジメント不足だ」と皆の前で怒鳴られて……。もう、自分が何のために生きているのか、わからないんです。消えてしまいたい……』
その声には、深い絶望と、すり減りきった魂の悲鳴が混じっていた。
かつてブラック企業で心身を破壊されかけた俺には、彼の辛さが痛いほどよくわかる。
だからこそ、生半可な慰めなど通用しないことも理解していた。
俺は需品科仕込みの戦術的思考をフル回転させ、彼の置かれた状況を「戦場」に見立てて、どうやって安全に「撤退(休職や退職)」させるかのロジックを構築し始めた。
「……お辛いですね。ですが、ご自身を責める必要はありません。現在のあなたの職場環境は、補給線が絶たれた状態で前線に取り残されているのと同じです。まずは、心身の安全を確保するための戦略的撤退を――」
俺が論理的な解決策を提示しようとした、その時だった。
『ミャウ』
それまで縁側でコン吉たちと昼寝をしていた神獣シロが、音もなく俺の横へと歩いてきた。
そして、事もあろうに俺の膝の上へと飛び乗り、ヘッドセットの高性能コンデンサーマイクの真下で、くるんと丸くなったのだ。
「あ、こらシロ。今は仕事中――」
俺がマイクを手で覆って小声で注意しようとした瞬間。
『……ゴロゴロ……ゴルルルルル……』
シロの喉の奥から、低く、深く、そして圧倒的な心地よさを伴った『ゴロゴロ音』が鳴り始めた。
「あっ」
それはただの猫の喉鳴りではなかった。
大自然の息吹と、限界集落の春の陽気、そして神獣の放つ極上の神聖力が、音波という物理現象に変換された『奇跡の周波数』だった。
高性能マイクは、その神聖なるゴロゴロ音を一切の劣化なく拾い上げ、電話の向こうの相談者の耳へ、そして配信を見ている三百万人のリスナーの鼓膜へと、ダイレクトに叩き込んだ。
『……えっ?』
電話の向こうの男性の、悲痛な声がピタリと止まった。
「も、申し訳ありません! 飼い猫が急に膝に乗ってきてしまって……すぐに退かしますので!」
俺は平謝りしながらシロを退かそうとしたが、男性は慌てたように言った。
『い、いえ……! 退かさないでください……! な、なんですか、この音は……?』
男性の声のトーンが、明らかに変わっていた。
張り詰めていた糸が切れ、ガチガチに強張っていた心の鎧が、春の雪解けのようにドロドロと溶け出していくような声。
『……ゴロゴロ……グルルル……』
シロは目を細め、さらに音量を上げて極上のヒーリング波を放ち続ける。
『あぁ……。なんだか……頭の奥が、ジンジンして……すごく、温かい……』
電話の向こうで、男性が鼻をすする音が聞こえた。
『……不思議ですね。あんなに死にたいくらい悩んでいたのに……。理不尽な上司のことも、終わらない仕事のことも……この音を聞いていたら……なんだか、全部どうでもよくなってきました』
「……どうでもよく、ですか?」
『はい……。俺、バカみたいですね。こんな温かい音がある世界で、エクセルの数字やパワハラ上司の顔色ばかり気にして、命を削っていたなんて……』
男性の声は、もう泣いていた。
だがそれは、絶望の涙ではなく、長年の呪縛から解き放たれた『浄化の涙』だった。
『……決めました。俺、明日会社に退職届を出します。そして、しばらくゆっくり休みます。……相談員さん、それに、猫ちゃん。俺の命を救ってくれて、本当にありがとうございました!』
晴れやかな、まるで憑き物が落ちたような明るい声。
それだけを言い残し、通話は静かに切れた。
俺はポカンとしたまま、膝の上で喉を鳴らし続ける純白の神獣を見つめた。
俺の用意した論理的な解決策(ロジスティクス)など、一秒も必要なかった。
神獣のゴロゴロ音は、複雑に絡み合った人間の悩みを、たった数十秒で『物理的に浄化』してしまったのだ。
ふと配信用のモニターに目をやると、チャット欄がとんでもないことになっていた。
『あああああああああ(昇天)』
『ダメだ……このゴロゴロ音、イヤホンで聞いてたら脳みそ溶ける……』
『悩みが……俺のローン返済の悩みがどうでもよくなってきた……』
『魂が洗われる……世界が輝いて見えるぞ……』
『神獣のASMR(致死量)』
三百万人のリスナーもまた、シロのゴロゴロ音の直撃を受け、画面の向こうで集団解脱(げだつ)を果たしていた。
『(ドバイの石油王からの¥50,000MeTubeギフト)=”Master! This sound is a world heritage! My stress from oil price fluctuations has completely vanished!“(主よ! この音は世界遺産だ! 原油価格の変動による私のストレスが完全に消え去った!)』
『(スイスの銀行家からの¥50,000MeTubeギフト)=”I am crying! This frequency is the ultimate medicine for the modern soul!“(私は泣いている! この周波数こそ、現代人の魂の究極の特効薬だ!)』
『(ハリウッド女優シャーロットからの$500MeTubeギフト×10連発)=”Please release a 10-hour loop track of this! I will buy a million copies!“(この音の10時間ループ音源を出して! 私が100万枚買うわ!)』
世界中のVIPたちが、圧倒的な浄化作用に涙を流しながら極彩色のMeTubeギフトを乱れ撃ちしている。
「お兄さん……! シロちゃん、電話の人をたった数秒で救っちゃいましたね……!」
縁側で一部始終を見ていた小春ちゃんが、感動のあまり両手を胸の前で組んで祈るようなポーズを取っている。
だが。
俺はヘッドセットを外し、元・社畜としての『どんな奇跡にも屈しない鋼のポーカーフェイス』でカメラに向き直った。
「……世界中の皆さま。感動して涙を流しているところ大変申し訳ありませんが、冷静になってください」
『出たァァァァァ!!!』
『三百万人が浄化されてるのに、一人だけブレない男!!』
『主の限界言い訳タイム・魂のヒーリング編ww』
『さあ、この神聖なる魂の救済をどう論破する気だww』
俺は、キリッとした真顔で、膝の上でとろけるシロを撫でながら淀みない口調で言い放った。
「これは魂の浄化でも奇跡でもありません。猫のゴロゴロ音は、およそ25ヘルツから150ヘルツの低周波音です。これは医療分野でも、骨密度の増加や、副交感神経を優位にしてストレスを軽減する効果があると実証されています。そこに、YAMAHAルーターのロスレスな超高音質伝送が加わったことで、極めて質の高い『ASMR(自律感覚絶頂反応)』が引き起こされただけです。ええ、ただの『音響療法(サウンドセラピー)』の物理的効果ですね」
「あるわけないじゃないですかぁぁぁ!!!」
小春ちゃんが、縁側から駆け寄ってきて俺の背中に渾身のツッコミ・チョップを見舞った。
「音響療法で、死にたがってたサラリーマンが数十秒で退職決意して生まれ変わるわけないでしょ!! どう聞いたってシロちゃんのゴロゴロ音に神聖な浄化魔法がかかってたんでしょうが!! 自分の猫の奇跡くらい素直に認めなさいよ!!」
『小春ちゃんのキレキレ正論チョップ!!』
『音響療法(人生観がひっくり返る)』
『適応力バグおじさん、ついに奇跡を医療データとルーターの性能になすりつけるww』
『ロジックで魔法をねじ伏せようとする男ww』
『言い訳が苦しすぎて今日も最高だww』
俺の理不尽極まりない音響工学的な言い訳と、小春ちゃんの鋭すぎるツッコミに、三百万人の視聴者たちは浄化の涙を引っ込め、腹がよじれるほどの大爆笑の渦へと叩き落とされた。
『ミャウ(これで一件落着ね)』
シロが満足げに一度だけ大きく鳴き、再び俺の膝の上でスヤスヤと眠り始めた。
「……まぁ、理由はどうあれ。あのお客さんがゆっくり眠れるようになったのなら、それが一番だ」
俺は苦笑いしながら、シロの背中を優しく撫でた。
俺の生活費を稼ぎ、社会との繋がりを保つために始めた『お悩み相談室』。
それは図らずも、神獣の物理的なヒーリング能力によって、世界中の疲れ切った大人たちの魂を救済する、伝説の窓口となっていくのだった。
コメント
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わあ、シロのゴロゴロ音で悩めるサラリーマンが数十秒で退職を決意するとか、さすが神獣パワー……! しかも主人公がそれを「音響療法で説明できる」って必死にロジックでねじ伏せようとするのがもうツボでした。小春ちゃんのツッコミもキレッキレで、チャット欄の「集団解脱」も含めて最高のエピソードでしたね。この世界の理屈、本当に面白いです。
ゆうき あきや
3,596
259
#心理描写重視