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実家から帰る途中、千秋さんの運転する車で私たちはしばらく無言だった。
外は雨が降っていて、視界が暗く少し肌寒い。どんよりした気持ちに拍車がかかり、どうにも明るく会話をする気になれなかった。
だけど、どうにか気持ちが落ち着いてきた頃に、私は彼に先ほどのことを謝罪した。
「さっきは、恥ずかしいところを見せてしまって、ごめんなさい」
すると千秋さんは穏やかな口調で返した。
「人間らしくていいと思うよ。感情のぶつけ合いで理解が深まることもあるしね」
「……そう、ですかね」
「俺はそういうやり方ができない人間だからうらやましいよ」
「いや、私はむしろそっちのほうが賢明だと思いますけど」
千秋さんはいつだって動じない。すぐに感情が高まって表に出てしまう私とは違う。だけど、彼は私の言葉に少し困惑の表情をした。
「俺も父親にそうやって言えれば違ったんだろうな」
「え?」
「まあ、今さらどうでもいいけどね」
彼はそう言ってハンドルを右に切って右折した。
向かっている場所はわからない。どこか食事に行こうとしか言われていない。
千秋さんの家庭も複雑なようだ。
うちの両親に少しだけ打ち明けていたけれど、私にはそのことを深く訊ねる勇気がなかった。
私が黙り込むと、千秋さんはおもむろに自分のことを語り始めた。
「さっきの発言に嘘がある。父親のこと」
「……はい?」
「俺は父親が死ぬほど嫌いだから彼のことは人間として見ていないよ。都合のいいATMって感じかな」
ずいぶんと重い内容をさらりと軽い口調で言い放つ千秋さんにぞくっとした。恐る恐る疑問を口にする。
「そんなにひどいことをされたんですか?」
すると彼は表情変えず、さらっと返した。
「父は婚約者だった母を捨てて他の女と結婚した。ただそれだけ。でも俺は一生許さない。だから、利用できるときだけ利用してやっている。便利なATMだからね」
にっこりと笑ってATMを2回も繰り返す千秋さんから、彼の本気の怒りが伝わってきた。
聞けば千秋さんは幼い頃から父は遠い世界の人だと母に教えられてきたらしい。母は彼に父について語ろうとしなかったが、さすがに年頃になると気になって千秋さんは母親の親戚に問い詰めて真実を知ったそうだ。
千秋さんが女性に誠実で優しいのは、母親の過去の苦しみをずっとそばで見てきたからなのかもしれない。
千秋さんが父親と会うことに、母親は反対しなかったという。
子が実親に会う権利を誰も奪うことはできなかった。けれど、千秋さんにとって父親はただ金を与えてくれる人物に過ぎなくて、彼の中では親子の愛情など欠片も存在していない。
「いろいろあるよね。円満な家庭ってなんだろうな」
「そうですね」
私はただ彼の疑問に相槌を打つことしかできない。
片親でもまっすぐ育つ千秋さんみたいな人もいれば、両親揃ってても家庭が崩壊している私の場合もある。
何が正解かなんて誰もわからない。
「でも俺は母子家庭で苦労したことないよ。ATMのおかげでね」
「それ3回目です」
千秋さんはふふっと笑って今度は私に冗談じみたことを言った。
「俺は紗那のATMだけにはなりたくないな。紗那に愛されるATMがいい」
「千秋さんは人間です。お金だけなんていらない。あなたがいないと無理だよ」
私がそう言うと、彼は「ありがと。嬉しい」と軽い口調で答えた。
私も千秋さんも一般的に正常と呼ばれる家庭を知らないけれど、それならそれで、自分たちが幸せになれる家庭を築いていけばいいんだ。
彼とならそれができるだろうと、今の私なら思える。
千秋さんは駐車場に車を停めると、私をとあるホテルのエントランスに連れてきた。そして彼は少し焦ったような口調で言った。
「ここでちょっと待っててくれる? すぐ戻るから」
「はい」
千秋さんが行ってしまったあと、私はバーカウンターが併設されたラウンジスペースのソファ席に座って彼を待った。
見上げると大きなシャンデリア。広いロビーには人がまばらにいる。
さっき聞いた話ではこのホテルの最上階にあるレストランで食事をするらしい。自分の格好を見て少し落胆した。カジュアルなカットソーに無難なフレアスカート。もっとちゃんとしたワンピースを着てくればよかったなと思った。
5分、10分、と経ってそわそわしてきた。
スマホを見たり、周囲を見渡したり、少し落ち着かない。
用事がどれくらいかかるんだろう。そもそも用事って何だろう?
千秋さんはロビーにはいない。ということはホテルの外に出ているということだよね。
ふたたび俯いてスマホに目線を落としたところだった。
私の背後がやけに騒がしくなったのだ。
「ねえ、見て。あれ」
「すっご!」
「わー素敵」
周囲の声に反応し、私が振り返るとそこには真っ赤な薔薇の花束(おそらく100本くらいある)を手に持ってこちらへ歩いてくる千秋さんの姿があった。
「う、うそ……!」
大きな手をした千秋さんでも両手に抱えるくらいの真っ赤な薔薇の花束。
私は驚愕のあまり目を見開いたまま固まっていた。
千秋さんは私の目の前に立つと、花束を私に向けて言った。
「一生俺のそばにいてください」
その瞬間、周囲の人たちから「きゃあ」っと歓声が上がった。
私はもう恥ずかしくて顔が熱くて狼狽えてしまったけれど、それと同時に泣きたくなるくらい嬉しくて、彼の花束を抱えるように受け取った。
「はい、一生そばにいます」
周囲から拍手が沸いて恥ずかしいけど嬉しかった。
千秋さんは花束を抱えた私のとなりに腰を下ろし、このイベントのためにいろいろ準備していたことを話した。
以前、転職の話のついでに出たプロポーズをやり直したかったようだ。
「大切なことは漫画から教わった」
「それ、昭和の少女漫画じゃないですか」
「記念日を大切にしようと思う。君がおばあちゃんになるまで」
「うーん、私は忘れそう」
「君は綺麗なおばあちゃんになるよ」
「微妙に会話がかみ合ってませんね」
出会ったときから不思議な人だった。
だけど私のことを誰より理解して助けてくれた。
だから私も、彼のことを誰よりも理解したい。
花束は食事のあいだホテルのスタッフが預かってくれることになった。どうやら今夜はこのまま宿泊するらしい。
「私、着替え持ってきてないのに」
「いらないよ。着る必要がない」
「そうじゃなくって! いろいろ、女子は物入りなんです!」
「大丈夫、紗那は綺麗だから」
わざわざ私の肩を抱いて耳もとでそんなことを言う。
千秋さんの声とか仕草とか、私にとってはすごく妖艶でたぶん今夜は私が溺れてしまうんだろうなって、今からそんな覚悟をした。
となりで歩く千秋さんの手の甲が私の手に触れた。
もうすぐ店に入らなきゃいけないのに、私はたまらなくなって、彼の手の中に自分の指を滑り込ませて繋いだ。
そうしたら、彼は私の手をぎゅっと握りしめて、ふたりで恋人繋ぎをしたままレストランに入った。
恥ずかしいから、あんまり見えないように、スカートの影に隠れるようにして。
アラサーにもなって何をやってるんだろうって自分でも思うけど、今日だけはいいかなと思った。
だって、今でも泣きたくなるくらい、彼のことが好きだから。
こんなに満たされるくらい幸せな結婚ができるなんて、思いもしなかった。