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マンションを退去する日、川喜多さんと奥さんが訪れた。奥さんは私の部屋を格安で貸してくれた人だ。彼女は美春さんと言って、千秋さんの母親の姉の娘だそうだ。
「お久しぶりです、紗那さん。お元気そうで何よりです」
「川喜多さん、本当にお世話になりました」
「千秋くんと紗那さんにご縁があって僕としても大変嬉しく思います」
「ありがとうございます」
「これからは親戚ですね」
「はい」
川喜多さんは以前とは少し違って今日は笑顔が多い。前に会ったときは仕事モードだったからだろう。今日はとても穏やかに見える。
奥さんの美春さんもとても感じのいい人だ。
「はじめまして、紗那ちゃん。こんな素敵な人が千秋と結婚してくれて、私もすごく嬉しいです」
「ありがとうございます」
なんだか照れくさくなった。
以前、千秋さんが話してくれたことを思い出す。
美春さんも私と同じ被害に遭って苦しんでいたということ。彼女の場合は離婚するまでに相当な労力が必要だったと。
だけど今、川喜多さんと笑顔で話す彼女を見たら、幸せそうでよかったと思う。
「ねえ、千秋。向こうに行ったら千夏ちゃんと暮らすの?」
美春さんの質問に出てきた名前を聞いて、千秋さんのお母さんの話だとわかった。たしかにアメリカに行ってどこで暮らすか、まだ千秋さんに訊いていない。
すると彼は迷うことなく返答した。
「まさか。マイケルが可哀想だろ」
マイケル……!?
「そっか。同棲してるんだっけ。邪魔しちゃ悪いよね」
あ、千秋さんのお母さん、彼氏がいるんだ。
「お互いの人生に口出ししない。それが俺と母親のあいだのルールだからね」
千秋さんはわざと私に目を向けて、笑顔で言った。
これはきっと私に気をつかってくれたんだろう。散々、優斗母に苦しめられてきたから、そんな心配はいらないという彼の意思表示だ。
「大丈夫だよ、紗那ちゃん。千夏ちゃんはとっても明るくて優しい人だから、何かあれば相談するといいよ」
美春さんの励ましに私は安堵とともに「ありがとうございます」と答えた。
こうして、私は少しのあいだ借りたマンションの部屋を美春さんに返すことになった。
そして、その足で、私は千秋さんと空港へ向かった。
空港に到着して、搭乗開始時刻になるまで、空港デッキで滑走路を眺めた。たくさんの飛行機がそれぞれの目的地へ向かって飛んでいく中、私はこれまでのいろいろな出来事を思い返していた。
会社を辞めるとき、社内の人たちから花束をもらった。形だけなのかもしれないけれど、お疲れさまと声をかけてもらって嬉しかったし、今まで自分が成し遂げてきた仕事を自分で褒めてあげたかった。
兄は転職先を見つけて、実家と少し離れたアパートに引っ越した。以前勤めていた会社よりずいぶん給料は下がるみたいだったけど、それでも兄は前より顔つきが明るくなっていた。
私が出発前に兄に挨拶をしに行ったとき、父と母のことを訊ねた。
母は父からずっと離婚を考えていたことを告げられ、急に焦っておとなしくなったみたいだ。父はあんな性格だから母を捨てることなどできないだろうけど、それでも今までずっと我慢してきたのだから、少しくらい自分の主張をしてもいいと私は思う。
彼らがこれからどうなるのか、やはり私は気になってしまうけど、それでも私は私の道を進んでいこうと思う。
帰国したら帰省はするし、おじいちゃんの家にも遊びに行く。
結局、私は実家を捨てることなんてできなかった。
それでもいいよ、と千秋さんは言ってくれた。
ただ、私の中には気持ちの変化があった。
結婚や家族が増えることに不安しかなかったあの頃とは違って、今はとても心が穏やかで、明るく前向きな未来が見える。
千秋さんと出会えたからだ。
私がとなりに立つ彼を見上げると、彼は穏やかな表情で訊いた。
「もしかして寂しくなった?」
「あなたがいるからちっとも寂しくないよ。それに、千秋さんのまわりの人たちもいい人ばかりだし」
「そうか。よかった」
彼はそう言って微笑んで、私の手をそっと握った。
だから、私も握り返して少し彼にもたれかかるようにくっついた。
「フライト時間長いけど、映画を3本くらい観れば着くから。近いだろ?」
「遠いですよ。私は寝てるんで」
「そっか。じゃあ、いたずらしてもいいのかな?」
「絶対やめて。ていうか、やりそう」
私が半眼で睨みつけたら、千秋さんはにこにこしながら私の手を引いた。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
私たちは手を繋いだまま飛び立つ飛行機を背後にして、チェックインカウンターに向かって歩き出した。
ここから、私の新しい人生が始まる。
< 完 >