夜の匂いが、部屋に沈んでいた。湿ったシーツと、開け放たれた窓から入る夜気。蛍光灯はつけられていない。
蓮司は、いつも通りだった。乱れもなく、笑っていた。
遥の体に触れる指は、もはや探るものではなかった。確信のある動き。欲望ではない。ただ、観察と制圧。
それがどれだけ自分を嫌悪させても、遥はもう拒否の仕方を忘れていた。
どうやって声をあげたら止められるのか、それすら、わからない。
――けれど。
「……やめろ」
その言葉が、喉から漏れた瞬間、自分でも驚いた。
声はかすれていた。でも確かに「言葉」だった。
「やめろ……っ、もう、触んな……」
蓮司が、眉をひそめた。
それは怒りでも、戸惑いでもない。ただ、珍しいものを見たという顔だった。
「……なに? 珍しいね。怒った?」
遥は、返せなかった。
胸の奥が、ひゅう、と音を立ててすぼまる。吐く息の先に、蓮司の目があった。
あの目だ。何も映していないようで、すべてを見ている。飽きたもの、壊れたもの、面白いもの。
「そうじゃ、ねぇよ……」
「じゃあ、なに? 泣いてるの? 怒ってるの? ……それとも、感じてる?」
その一言に、遥の胃が裏返ったように疼いた。
ふざけてる。ずっとふざけてる。壊れた身体を笑って、傷口に指を入れて、泣けば喜ぶくせに。
「ふざけんなって言ってんだろ……!」
低く唸るような声だった。怒鳴れなかった。怒鳴れば、壊れるのは自分のほうだと分かっていた。
でももう、黙って耐えることはできなかった。
「ふざけてなんかないよ。真面目に、見てるだけ。おまえが、どんなふうに壊れるのか」
蓮司の声は、穏やかだった。
その優しさに似た抑揚が、遥の奥底に火をつける。
「日下部に、抱かれたかった?」
「――っちが……!」
「じゃあ、俺じゃダメ? おまえのこと、誰より知ってるのに?」
「おまえなんかに、何も知られたくない……っ」
息が苦しい。喉が焼けるようだった。
でも、それ以上に自分自身が怖かった。
言ってはいけないはずのことが、次々に口からこぼれていく。
「……殺すぞ……」
それは、呪いのように吐いた言葉だった。
自分でも本気かどうかはわからない。ただ、何かを終わらせたくて、言葉を選ぶ余裕がなかった。
蓮司は、笑った。いつものように、軽やかに。
「いいね、それ。もっと言ってよ。怒って、泣いて、暴れて……。そうじゃなきゃ、もう飽きるところだった」
遥の視界がぐにゃりと歪んだ。
涙ではなかった。頭の奥で、何かがぶつんと切れた。
もう無理だと思った。
怒りのかたちをした絶望が、自分の中で喉元まで膨れ上がっていた。
――こんな夜が、まだ続くなら。
どこかで、すべて終わらせなきゃいけない。
そうじゃなきゃ、自分が自分じゃなくなる。
でも、声に出す勇気は、まだなかった。
ただ、ぎゅっと目を閉じることしか、できなかった。