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相沢蒼依
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わたしたちは突風のように、広がる草原を駆け抜けていた。
捕った鮎も捨てた。息さえ上がるけど、気に留める余裕もない。
坤鬼舎に、巨大な穢悪の気配を感じる。
亜鐘姉さまが血の気の失せた顔で口にしてから、わたしは心配で破裂しそうな胸をどうにかなだめ、全力で坤鬼舎に向かっていた。
やがて視界にいつもの森が入ってくると、もう亜鐘姉さまでなくとも禍々しい穢悪の空気が肌に伝わってくる。災いのあとは穢悪が出やすいって晴明さまに聞いていたのに。昨日なにもなかったからって油断していた。
「まさかここまで大きな穢悪なんて……」
亜鐘姉さまが駆けながら、緊張した面持ちで言った。
「そんなに、ですか?」
「……少なくとも、わたしがこれまで見たどの穢悪より強いわ」
「なんてこと……。もしかしたらずっと渦巻いてた都の怨とか……」
「……かもしれないわね。とても大きくて、強い……!」
一瞬が長い。速く速く……!
歯を食いしばり、腕を振り回してあらん限りの力で足を回す。
居場所を失うくらいなら死んだ方がいい。どんな穢悪が相手だって、絶対にあそこを失わない!
「あと少し!」
見慣れた場所が近付いてくる。
わたしは速度を緩めず突進し、坤鬼舎へと続く森の小路を前にした。モリの住む小屋を瞥見したけど戸が開きっぱなしで、どうも彼はいない感じ。
「たぶん一緒に戦ってるのよ! 行きましょう!」
亜鐘姉さまが急かしたそのとき。
小路の脇の木々を揺らすほどの大音響が、地響きと共に轟く。鳥たちも羽ばたく、落雷みたいな衝撃は、明らかに坤鬼舎からだ。
「…………!」
駆け出しながら、涙が溢れてくる。
晴明さまは? 姉さまたちは? 坊は?
様々な不安を胸に坤鬼舎に到着すると、まず目に飛び込んできたのは足だけを残して上が吹き飛んだ鳥居だった。斎庭には誰もいないみたいだけど、山の木々がなぎ倒れていて、なにかが山へ入って行った跡がある。音はまだ近い。
わたしは亜鐘姉さまと主殿で金砕棒を手にすると、再び全速力で坤鬼舎の裏手に回る。そして倒木を目印に、隆起する土を飛び跳ねながら突き進んでいくと……。
「なに、これ……」
陽にちかちかと輝く鱗、感情の読めない目、分厚いくちびるみたいな口……。
やがて現れたのは、宙を泳ぐ巨大な魚だった。
鮎みたいな形のそれが、地面すれすれを泳ぐように舞っている。
大きさは……、人よりもだいぶ大きい。まるで巨木のようだ。これが、穢悪? ここまで形をはっきりさせているなんて……!
「よけろ、夜火!」
どこからか晴明さまの声が飛んで来た。考えるよりも早く、声を信じて反射的に地面を蹴る。
その瞬間にこちらを向いた魚の眼は、陽を反射した鏡のように閃いた。
「うわっ!」
放たれた光は避けたわたしの緋袴を貫いて、風を裂く矢のように背後へと飛ぶ。そして着地した瞬間には、うしろで耳を臈ずる爆音が鳴り響いた。
わたしは振り向き、
「ウソでしょ……」
呆然とその有様を見る。
背後の景色が、さっき見たものと違った。
立っていたはずの木々はなぎ倒れ、あったはずの小高い丘が消し飛んで……。いや、小高い丘というか、周辺の地形そのものが変わっている。まるで雷が落ちたあとのように……。
「こっちだ、夜火。魚から離れろ」
声の方に視線を移すと、距離を取った木の陰に晴明さまと陸燈姉さま。そのうしろには、既に亜鐘姉さまもいた。
「ご無事で安心しました。他の姉さまたちは?」
魚を警戒しながら、わたしも合流。すると魚はもうこちらに興味を払わなくなって、ただ悠然と踊るように宙を泳ぎ、どこかへと向かって行く。
「手負いのモリを、命恋が治癒している。霞はお前たちのあとで集落を回りに行って、まだ帰ってきていない。しかし……」
答えて晴明さまは、困った面相で腕を組む。
「あれは一発まともにもらえば死ぬな。離れていれば射てはこないようだが……」
「晴明さま。あれ、穢悪ですよね?」
魚を見ながら尋ねる。
「わたし、あんなに形がはっきりしたやつ、見たことないんですけど……。やっぱり都の水害が原因ですか?」
「だろうね。苦しくて、魚になりたいとでも思ったのかもねえ。都の方へばかり進むから、帰りたいのかもしれない」
「…………」
同情が湧く。だけどあの力を持って都に侵入すれば大騒ぎで済まない。確実に多くの人死にが出る。
こうならないよう、事前に叩くのがわたしたちの役目なのに……。
「今朝がたまで、気配はありませんでした。本当に」
亜鐘姉さまが金砕棒をぎゅっと握って、晴明さまに言った。
責任感が手に力を込めているのかもしれない。察したのか、晴明さまは優しく亜鐘姉さまの肩に手を載せた。
「急に顕現する穢悪もいる。いまはそれより怨魄の場所だ」
「……胸元です。えらの、すぐうしろあたりに感じます。大きな怨魄です」
「本物の鮎なら、心の臓に当たる部分か。生物を模した穢悪だからね、胸の辺りにあるだろうとは思ったが」
晴明さまが魚の胸の辺りを凝視し、ちぇっと舌を鳴らした。わたしも倣って見てみるけど、確かにちょっとした動作で隠しやすい場所だし、まな板の鮎にでもしない限り狙いにくそうだ。
「……陸燈」
晴明さまは魚を見たまま呼ぶ。
「あの魚、お前の呪で止められるか?」
「さっきは破られましたけどねえ。長雨で土が脆くなってどうにも」
「夜火と一緒なら? 向こうの出方も分かったろ」
「やってみませんと、分かりませんねえ。ただあたしの呪も、あと一体で目いっぱいです」
「やってみてくれ」
晴明さまは陸燈姉さまに言ってから、確認するようにわたしを見た。もちろんこくんと頷く。
「なら、動きを止めたときに私が怨魄を斬る。亜鐘は誰かになにかあったとき、助けてやってくれ。金砕棒を放すな」
「仰せの通りに」
「では、魚の気が完全にこちらから逸れた機を狙う。いつでもいけるように……」
晴明さまが説明している、そのときだ。
「よくも! 晴明さまをををを!」
なにかがものすごい勢いで魚に向かって飛び跳ね、金砕棒を振り上げた。涙を浮かべ、砕けんばかりに歯を食いしばるあれは……。
霞姉さま! 帰ってきたんだ!
「まずい」
晴明さまの顔が強張り、わたしと陸燈姉さまに指示する目を送ってきた。もういまから始める。その合図。わたしは答えの代わりに、
「――縛!」
髪が緋色になるまで呪を高めて伸ばし、矢のようにそれを飛ばす。
そしていまにも眼を光らせそうな魚に伸ばして絡め捕ると、霞姉さまの金砕棒がその脳天に振り下ろされた。
瞬間、魚の体勢が少し崩れる。効いてはいる。しかし僅かばかり。
「夜火? 無事だったのっ?」
「みんな無事です! 霞姉さま、離れて!」
髪で魚を引っぱりながら叫ぶと、魚の視線がこっちに移る。
穢悪の攻撃的な圧がわたしを襲うけど、でも!
「女は私の妻たちでね」
ここで晴明さまが太刀の切っ先を向け、稲妻の如き速度で穢悪に襲いかかる。
太刀は穢悪の怨魄を狙う軌道。魚がそこを隠すように動くと、晴明さまもすかさす切っ先を動かし、狙いを改める。魚の眼に、その太刀を突き刺した!
「だから妙な色目を使わないでもらいたいねえ。迷惑だ」
これで眼からのあの閃光は封じた。
大きな戦果だけど、晴明さまは手を緩めない。
彼は太刀を眼から抜くと、次は疾風のような速さで魚の体を切り刻んでいく。太刀筋は鬼女のこの目ですら追えないほどの五月雨で、練り上げた剣技が容赦なく穢悪の体を削っていった。
――強い……!
鬼女が持つ頑健な身体とはまた違う強さ。
わたしはつばを飲み込み、魚と一緒に斬られていく髪を足しながら、抗するように暴れる穢悪を縛り付ける。やがて晴明さまの剣の舞が一息つくと次は――。
「そいつを放すんじゃないよ、夜火」
「はい!」
「――土塊よ!」
いよいよ仕上げ。
出番が回ってきた陸燈姉さまが、呪を発動させる声を上げる。
同時にまるで地面から筍のように現れたのは、魚よりもさらに大きな土偶人。土を固め巨人としたそれが陸燈姉さまの呪。意のまま動く坤鬼舎で一等の力だ。
「さっきはよくも潰してくれたねえ」
陸燈姉さまはその美しい目で冷たく魚を睨み付けると、土偶人の重そうな拳を魚の頭に唸らせた。霞姉さまが金砕棒を命中させたのと同じ場所。轟然とした音が周囲に響いて、魚は地面に叩き付けられる。
「まだだよ」
陸燈姉さまは土偶人の左腕を振り上げ、魚にさらに地響きを伴う重い一発。
魚の頭の辺りは霧と化し、もう動かない。
そして地面に転がって腹を見せたいまが好機だ。魚は恨みがましい眼でこちらを睨んでいるけど、あと一息!
「そのまま動くな」
晴明さまは魚の上に乗っかり、太刀に指を添えた。そのまま目をつぶり滑らかな口調で真言を唱えると、真下に太刀を振り下ろす。魚の胸に太刀を刺せば、怨魄を失った魚がすぐに霧と化す……と、誰もがそう思ったけど、
「あれ?」
わたしは髪で魚を縛り付けながら、不確かななにかに捉われた。
なに? 魚が、さっきと違う?
こっちを睨む魚のなにが……?
睨む? あ。
眼!
晴明さまに刺された眼が治っている!
気付き、わたしの顔が引きつった弾指の間、その眼が閃光のように瞬いた。
よける? でも間に合わない!
目をつぶりかける。だけど、
「危ない!」
と、陸燈姉さまは自分が操る土偶人を、抱き込む形で魚に覆いかぶせる。
「あ」
という間の出来事だった。
土偶人の下敷きになった魚から、鋭く閃光が漏れ輝く。
次の瞬間には瀑布のような大音響が響き、土偶人の体は爆ぜて消し飛んだ。
巨人を象っていた土塊は勢いをもって天高く飛び散り、バラバラと雨のように降ってくる。もう本体は跡形も残っていない。
――陸燈姉さまが助けてくれた。
でもすぐに第二射が来る。どうする? 髪は縛ったままか、戻して逃げるか。
判断に一瞬を要した。
瞬き程度のときの継ぎ目。でも敵は見逃してはくれない。
「夜火!」
吼える晴明さまが勢いよく飛び込んできて、そのまま肩でわたしを押し倒した。
次の刹那。
わたしがいたはずの場所を閃光が貫き、それは背後に存在していた景色を落雷のような轟音と共に消し飛ばす。
一射目から二射目が、想像よりも早い。
あんな破壊力のある攻撃を連射されたら……。
「夜火! 晴明さまを連れて早く退きな!」
陸燈姉さまがあっちの巨木の影から叫ぶ。慌てて起き上がると荷物のように晴明さまを担ぎ、全力でその場を離れて魚と間合いを取った。
「晴明さま! お怪我は!」
岩陰に隠れ、晴明さまの着物を汚す泥を払う。
すると手にぬるりとした触りを覚え、恐る恐る袖をめくり上げると、晴明さまの右腕は残酷に抉り取られ、その骨が露わになっていた。
「せ、せせせ晴明さま……」
目の前が黒くなり、ただ手を濡らす朱だけが鮮やかに映った。
「私はいい、夜火」
たくさんの脂汗を額に光らせ、晴明さまは息荒く言葉を捻り出す。そして強張るわたしの顔を、柔らかい笑みで優しく撫でた。
「だが……。すまないね。もう戦えそうにない。策を練り直さないと」
「どうしたら、どうしたら……」
「他の鬼女たちは」
「あの、みんな無事です。あっちの大木の影に。……けど」
たぶんもう、陸燈姉さまは土偶人を出せない。あれは呪を多く使い、一日に二体までだと聞いたことがある。
間抜けなわたしのせいで、こっちの戦力は大きく削がれた。いや、それどころか……。
「……大変です、晴明さま……」
恐怖で自分の顔から血の気が失せていくのを感じる。
わたしの視線の先にあるのは、動きの自由を取り戻した魚の穢悪。霧と化したはずの頭部は元に戻り、しかも都に向かっていたさっきまでの進路がいまは違う。
魚は姉さまたちの隠れる巨木へ、尾びれを左右に宙を泳いで向かっていた。
さっきまでは間合いを置けば、こっちに構わなかったのに。
きっと襲われて怒っている。しかも姉さまたちは巨木の影に息を潜めたままで、あの魚が迫るいまの状況を分かっていない。
「逃げて、姉さま!」
わたしは晴明さまの御沙汰も仰がず、反射的に叫んだ。
しかしときは既に遅い。
魚の眼からは目も眩む光量が一閃し、姉さまたちが隠れる巨木にぶつけられた。幹はめくれるように砕け、メキメキと音を鳴らして倒れていく。
「姉さまぁ!」
わたしは岩を乗り越え、助けに向かう。
しかし魚の穢悪は手を緩めない。
眼を連続で何度も光らせ、巨木の向こうへ追い打ちをかけた。外敵を排除するように、何度も。姉さまたちなら直撃はしていないと思うけど……。
「やめろってんだ、てめえ!」
わたしは魚の動きを止めようと、緋色に染まる髪を全力で伸ばす。
しかし魚は眼を軽く瞬かせると、それすらも一瞬で灰燼に帰した。
焦げ臭さが鼻をつき、千切れた髪は土飛沫と共に地面にゆっくりと落下していく。
――どうしようもない……。
わたしから始まった最悪の有様にへたり込み、くちびるが震える。
晴明さまは腕をもう動かせない。
向こうには頭から血を流す陸燈姉さまが倒れていた。
折れた腕の骨が皮膚を突き破って苦しむ霞姉さまもいた。
倒木の下敷きになり身動きできない亜鐘姉さまもいた。
全てわたしのせいだ。この場から逃げることすら、既に大海を手で堰くようなもの。それを解したとき、ときが急にゆっくりと流れ出した。
――怖い……!
身を撫でるのは、これまで感じた経験のない恐怖だった。
このままではどうなる? みんな死んでしまうかもしれない。
その様は途方もなく恐ろしい想像だった。世界の消失と同じ意味だ。
体をえぐられるよりも辛く、決して耐えられない。耐えられない……!
絶対に、耐えられない!
「ううううう……!」
心の叫びに応えるように、流れる血が沸騰した。
恐怖を材料にして体中に憎しみが爆発し、体の奥深い場所から次々に力が送られてくる。自分の中で無自覚だったなにかが覚醒していくようだ。
なにか?
そう、これは……。
わたし? いや。
――鬼。
鬼と呼んで差し支えない、恐ろしいなにか。夜火などという人の名は捨ててしまえと、その鬼が嗤う。自分に代われと、鬼がわたしを取り込んでくる。
山で、会ったことがある。この感覚。
あのときのあいつは、いまのお前か。
「あああああ!」
気が付くと再び髪は緋色に染まり、辺り一面を全て覆っていた。
わたしは殺意を背負って立ち上がり、魚に眼差しを送る。
あれだけ苦戦した強大な穢悪が、いまはちっぽけなただの鮎に見えた。
今朝がた桂川で捕った程度の、あの鮎。
こんなときだけど、心は凪いだ水面のように静かだ。
わたしは自分の縄張りを荒らすこいつを、いまから殺す。
そう決めたときに世界は暗転し、その先のことは記憶にない。
魚がこちらを見て明らかに怯んでいたのが、気を失う前の最後の記憶だ。