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春の風が、少し冷たい。
桜の花びらがまだいくつか枝に残っていて、風が吹くたびにひらひらと舞い落ちていた。
入学式の朝、私は寮の窓を開けて、深呼吸をした。
新しい制服のリボンが少し曲がっているのを鏡で直す。
「ねぇ凛、緊張してるでしょ」
後ろから声をかけてきたのは、同室の山川りこ。
彼女は髪をゆるく巻いて、いつものように明るい笑顔を浮かべていた。
「少しだけね。クラス、どんな子がいるんだろう」
「男子も女子もいるけど、絶対楽しくなるよ。あ、イケメンいたら報告ね」
りこはにやっと笑って、私の肩を軽く叩いた。
そんなふうに笑っていたくせに、私は教室の前に立った瞬間、足がすくんだ。
新しい空気。知らない顔。
「橋澤凛」と呼ばれ、返事をする声が少し裏返ってしまった。
席は窓際の後ろから二番目。
隣の席には、短く切った黒髪の男子が座っていた。
無表情で、でもどこか目の奥が鋭い。
「……倉橋龍」
先生が名前を呼ぶと、彼は軽く手を挙げただけで、また窓の外を見た。
なんとなく、冷たい人なのかな、と思った。
でも、授業中に消しゴムを落としたとき。
拾ってくれた彼が、ほんの少し口の端を上げた。
その笑い方が、ずるいくらいに胸に残った。
いたずらっぽくて、少しだけ意地悪そうで。
でも、目が笑っていた。
──何この感じ。
心臓が、跳ねた。
放課後、寮に戻ると、りこがすぐに聞いてきた。
「で? クラスにどう? 誰か気になる人できた?」
「別に……まだそんな……」
「絶対いる顔してる〜!」
りこはベッドに飛び乗って、私の肩をつついた。
私は枕を抱えて、笑ってごまかした。
次の日の体育で、龍が走る姿を見た。
スタートの合図と同時に、風を切る音が聞こえた。
あっという間に他の男子を引き離して、ゴールテープを切る。
太陽の光が、汗にきらめいた。
クールに見えて、でも全力で走る姿がかっこよくて、
気づけば私は拍手をしていた。
「橋澤、けっこう声出てたな」
隣で笑う男子の声。朔山慎。
龍の隣で騒いでいて、いつも明るい子。
「え、あ、そう?!」
「龍、ああ見えて負けず嫌いなんだよ。さっきめっちゃ真顔だったし」
「そうなんだ……」
笑いながら話す慎の横で、龍がこちらをちらりと見た。
一瞬だけ、またあの笑い方をした。
にやって、少しだけ。
胸の奥が、またあったかくなる。
──きっと、これが始まりだった。
私の、小さな恋のはじまり。
中間テストまで、あと一週間。
黒板の隅に書かれたその文字を見て、私は小さくため息をついた。
「凛、またため息? 顔に“ヤバい”って書いてあるよ」
りこが前の席から振り返って、にやっと笑う。
「だって……数学以外、全然わかんないんだもん」
「凛の数学力、他の教科にも分けてあげなよ」
りこはそう言って笑ったけど、私は本気で困っていた。
家に帰れない分、寮では静かに勉強する時間が多い。
でも、ページを開いたまま眠くなる日が続いた。
そんなある日。
放課後に教室でノートを広げていると、龍が向かいの席から声をかけてきた。
「おまえ、社会また寝てただろ」
「……見てたの?」
「先生に当てられたのに、地図逆に持ってたし」
「うわっ、覚えてたんだ……」
私が顔を赤くすると、龍はくくっと笑った。
その笑い方が、いつもより少し優しくて、
教室の空気が一瞬だけ柔らかくなった気がした。
「……勉強、やばいなら教えてやろうか」
「え、龍って得意なの?」
「まあ、平均はある。数学以外」
「数学以外……」
「おまえ、逆だろ?」
ふたりで見つめ合って、笑った。
その瞬間、少しだけ距離が近づいた気がした。
そこへ、後ろから慎の声が飛んできた。
「おーい龍、帰ろーぜ! 今日ゲーセン寄ってこうって!」
「……あとで行く」
「へぇ? 珍しい。誰と話してんのー?」
慎が私の方を見て、にやっと笑った。
「橋澤? あー、頭いいの数学だけの」
「な、なんで知ってるの!」
「龍が言ってた」
「は?」と龍が眉をひそめたけれど、
慎は楽しそうに肩をすくめて出ていった。
その背中を見ながら、私は胸の奥が少しだけざわついた。
──龍が、私の話を……してたの?
その夜、寮の部屋でその話をりこにすると、
彼女はベッドの上でバタバタと跳ねた。
「え、それ絶対脈アリじゃん! 龍くん、気になってるって!」
「そんなわけ……ないよ」
「いや、ないことない! 慎くんが冷やかすくらい仲いいのに、怒るってことは照れてる!」
「りこ、ドラマの見すぎ」
「いいの。恋は妄想から始まるの」
りこの声に、私は笑って枕に顔をうずめた。
でも、心の奥のどこかで──
りこの言葉を、少しだけ信じたかった。
窓の外には、夜風がそっとカーテンを揺らしていた。
寮の廊下を歩く足音が、遠くで響く。
胸の中が、少しだけ痛くて、あたたかい。
──たぶん、これが「恋が始まる」ってことなんだと思う。
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