「あっ、いま動いた!」
興味深々の様子で沙羅のお腹に手を当てていた美幸が、目を丸くしている。
只今38週の沙羅のお腹は、はちきれそうなぐらいに大きい。
「本当に赤ちゃんがいるんだね。なんか不思議」
「そう不思議よね。赤ちゃんって、お腹の中で細胞分裂を繰り返して、280日かけて育っていくの。学校でも習ったでしょう」
「でも、教科書で見るのと、実際に目にするのだと違うんだよねー。やっぱり、赤ちゃん産むのって大変なの?」
中学2年になった美幸は、少女から女性へと体の変化がある時期。
沙羅の大きくなったお腹を見て、「いつか自分が出産する時」を想像したのだろう。
「うーん、大変と言えば大変ね。人間をひとり産み出すんですもの。でもね。どんなに大変でも赤ちゃんに会える喜びの方が大きいのよ。赤ちゃんの産声を聞いたら、産んで良かった。会えて良かった。としか、考えられなくなるの」
「そうなんだ。ちょっと想像つかないなぁ」
「美幸の産声を聞いた時は,
すっごく幸せな気持ちになれたのを覚えているわ。それが、もう一度経験できるなんて、夢みたい」
そう言って、目を細めた沙羅は大きくなったお腹を愛おしそうに撫でた。
「そうかー。幸せな気持ちになるのかー。早く会いたいなぁ」
「ふふっ、お腹に居る時があと少しだと思うと、嬉しいような寂しような複雑な気持ちだわ。産まれたら忙しくなって、落ち着いてお茶も飲めないから、のんびりできるのも後わずかね」
窓の外は、梅雨明け青空が広がり、太陽が熱く照り付けている。
沙羅は、長く尾を引く飛行機雲を目で追いながら、エアコンの効いた部屋でノンカフェインのほうじ茶に口を付けた。
「ねえ、お兄さん、今日来るんだよね」
「そうね。そろそろ着く時間ね」
「そういえば、お兄さんとお母さんの結婚式、豪華ですごかったよね」
美幸は、慶太の事をいまだにお兄さんと呼んでいる。
この呼び方だと、誰と誰が結婚したのか……。なんかヤバい感じがして、沙羅は苦笑しながら答えた。
「あれは、慶太のお家がすごいから、特別だよ」
昨年の秋に沙羅は慶太と入籍をし、金沢で結婚式を挙げたのだ。
TAKARAグループの後継ぎの挙式が、ホテルの面子を掛けて行われ、その内容と招待客が豪華であったのは言うまでもない。
緊張で何も食べれない中、沙羅は着せ替え人形のようにお色直しをして、クラクラしたのは今では良い思い出だ。
それでも、高校の頃の懐かしい仲間が多く訪れ、みんなに祝福されて、最高のしあわせを味わった。
新婚旅行は、慶太の仕事の都合で3泊の短い日程。
ふたりは、思い出のあるTAKARAリゾート彩都里に行き、紅葉を楽しみながらのんびり過ごした。
沙羅のお腹の中に居るのは、その時に出来たハネムーンベイビーだ。
ガチャガチャと玄関から音が聞こえて来る。
美幸は、パッと立ち上がり、足早に玄関へと向かう。
「お母さん、お兄さんが帰って来たよ! お兄さん、おかえりー」
藤井と同じマンションのふたつ下の階に、ちょうど部屋の空きがでたので、今はそこで暮らしている。ちなみに間取りは3LDK。
慶太は、金沢へ単身赴任の状態だ。
「ただいま。これ、おみやげだよ」
「わあ、ありがとう。ポテトシフォンだ!これ、美味しいんだよね」
加賀野菜の五郎島金時を使用したプチシフォンケーキは、美幸のお気に入りの一品。
美幸は、喜び勇んでリビングに居る沙羅に、慶太からもらったお土産を見せる。
「お母さん、お兄さんがポテトシフォン買って来てくれたよ」
美幸の後から、慶太が部屋に入って来た。
慶太の顔を見ると、沙羅は安心感から自然と笑みがこぼれてしまう。
「おかえりなさい」
慶太が沙羅の横に立ち、そっと頬にキスを落とした。
ふたりのイチャイチャには、すでに美幸は慣れっコになっていて、生温かい目で見守っている。
「ん、ただいま。沙羅のお土産は頼まれていた、あぶら取り紙を買ってきたよ」
「ありがとう。お仕事お疲れ様でした」
「お腹の赤ちゃんは順調?」
「さっきまで、暴れていたけど、いまは静かになっちゃった。眠ったのかな?」
「元気なら安心だ。沙羅の具合は?」
「んー、腰が少し痛いぐらいかしら、まあ、このお腹だとしょうがないわよね」
「じゃあ、後でマッサージしよう」
2度目の出産とはいえ、前の出産から14年も経っている。その上、37歳の高年齢出産は、体力的にもキツいだろう。
不安が無いと言えばウソになる。
でも、大きなお腹には幸せが詰まって居るのだ。
3人掛けのソファーに沙羅を横座りにして、ふくらはぎのマッサージをしながら、慶太は柔らかな声で語り掛けた。
「もうすぐ、赤ちゃんに会えるかと思うと楽しみだよ。沙羅に似た子がいいな」
「ふふっ、私は慶太に似た子がいいなぁ。産まれたら、その後、3か月は大騒ぎよ。赤ちゃんに付き切りで家の事もあんまり出来ないかも。帰って来た時、散らかっていたらごめんね」
「産後の女性の体は交通事故にあったぐらいのダメージだって聞いたよ。無理しないでシッターさんでも家政婦さんでも、頼めるなら頼んで、自分の体を大事にしてくれ」
慶太の過保護っぷりは、妊娠を知ってから加熱の一途。
沙羅自身も甘やかされているなぁと思うが、変に意地を張らずに甘える事も大事なんだと、最近の経験で知った。
「うん、ありがとう」
「わたしも、学校から帰ってきたら、お手伝いできるから大丈夫よ」
美幸も中学に入ってから急にお姉さんらしくなった。最近では、休みの日に晩御飯を作ってくれる事もある。
「頼りにしてるね」
「お姉さんになるだもん。まかせて!」
「ん、美幸ちゃんが居ると思うと安心して仕事に行けるよ」
慶太の言葉に、美幸は嬉しそうに微笑んだ。
そして、もじもじしながら、何が言いたげに口を開きかけては、ためらい口を閉じる。
それを何回繰り返し、やっとの思いで話しだした。焦っているのか、ちょっと早口だ。
「でも、お、お父さんが居てくれた方が、お母さんだって、赤ちゃんだって安心だと思う」
言い終わると耳を真っ赤にして、自分の部屋へ一目散に逃げていく。
慶太は目を見開いたまま固まっている。
初めて会った時から慶太の事をお兄さんと呼んでいた美幸。
沙羅と慶太が結婚してからもそのまま「お兄さん」と慶太を呼び続けていた。慶太も無理やり「お父さん」と呼ばせるようなマネはせず、良き理解者として美幸の成長を見守ってきた。
「お父さん……か」
慶太は噛みしめるようにつぶやいた。
「お兄さん呼びから卒業ね」
「ああ……」
忍耐強く見守ってくれる慶太の優しさが、沙羅の胸に沁みる。
あせらずに、ゆっくりと信頼関係を築いてきたのだ。
私たちは、信頼で結ばれた家族だ。
「慶太、ありがとう。愛してる」
「ん、俺も、愛してるよ」
【番外編・家族になろうよ 終わり】
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!