テラーノベル
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「ひぃっ――! 助けてくれ!」
深夜午前二時。悲鳴が轟音を突き破って響いた。神代寺はベッドから飛び起き、懐中電灯を手に取ると、庭へと走る。背後からは恐怖に青ざめた麗子や美奈、執事たちがついてくる。足音が、古い廊下に響き渡る。
雪は既に膝の高さまで積もっていた。足を取られながら、声のした方へ進む。吹雪が顔を叩きつける。視界は悪く、懐中電灯の光だけが頼りだ。
庭の奥にある使われていない古井戸。周囲には膝丈まで雪が積もっているのに、井戸の周囲だけが高熱に晒されたかのように雪が溶け、激しい湯気が立ち上っていた。地面が露出し、そこだけ異様な熱気が漂っている。まるで、地獄の釜が開いたかのようだ。
「慎吾様! 慎吾様ですか!?」
神代寺は井戸の底へ光を向けた。
冷たい石の底に転がっていたのは慎吾だった。しかしその姿は異様だった。全身からぎっしりと「密生した黒い毛」が生え出しているように見えたのだ。服を突き破り、皮膚の内側から湧き出したかのような毛並み。顔は恐怖に硬直し、白目を剥いていた。まるで人間が熊に変異している途中のような、悍ましい姿だった。口は大きく開かれ、最後の悲鳴を叫んだまま固まっている。
井戸の内壁には、赤黒い塗料でこう書かれていた。
『一匹目』
「事故よ! すぐに警察を!」と叫ぶ麗子に、老執事は静かに答えた。
「電話線が切られております。おそらく、昨夜の吹雪で」
「何ですって!? じゃあ、どうやって連絡を取るのよ!」
「落ち着いてください。朝になれば、何とか手段を考えましょう」
麗子はヒステリックに叫び続けたが、老執事の冷静な対応に、次第に沈黙した。しかし、その目は依然として恐怖に満ちていた。
神代寺は手袋をはめ、井戸の周囲と慎吾の遺体に付着した「毛」を観察した。指先で摘むと、強烈な化学糊の匂いと、微かな熱反応、そして白濁した粉末の付着が確認された。
(毛が体から生えているのではない。剥製の毛だ。そしてこの湯気と不自然な熱……化学反応の熱だ。生石灰を使ったのか?)
神代寺は顔を上げ、ホールの剥製を思い出した。あの不自然に薄くなった毛並み。まさか、あれが使われたのか。そして、生石灰。あれは建築現場や、一部の化学実験で使われるものだ。この館のどこかに、保管されているはずだ。
「皆さん、部屋に戻ってください。これ以上、現場を荒らさないでいただきたい」
神代寺の冷静な声に、麗子は何か言いかけたが、老執事に促されて渋々引き返した。美奈だけは、井戸をじっと見つめたまま、動こうとしなかった。その瞳には、恐怖ではなく、むしろ何か別の感情が浮かんでいるように見える。
「美奈さん、あなたも戻りなさい」
「……はい」
彼女は小さく頷き、ゆっくりと歩き出した。その背中が、雪の中に消えていく。彼女の足跡は、すぐに吹雪でかき消された。
07;翌朝。吹雪は少し弱まったが、依然として外は白い世界だった。神代寺は生前宗玄が使っていた書斎の鍵を解錠し、内部を調べ始めた。机の引き出し、本棚の裏、床の隙間。丹念に探っていくと、一冊の傷んだ革表紙の日記を見つけた。表紙には「稲神家の記録」と書かれている。それは、長い間、誰にも見つからずに隠されていたようだ。
ページをめくると、三十年前の惨劇が記されていた。
――三十年前。
稲神家は土地を手に入れるため、長年仕えていた「使用人一家」を強盗の仕業に見せかけて殺害し、古井戸の底へ遺棄した。夫婦と二人の子供。四人の命が、一族の欲望のために奪われた。遺体は井戸の底に積み重ねられ、石灰で覆われたという。
『私、麗子、慎吾で一家を手にかけた。だが、幼い娘一人だけが行方不明となった。あの生き残りが、いつか復讐に来るかもしれない……』
手記を閉じた時、扉の隙間から喪服の美奈が覗いていた。その瞳は、昨日までとは違う、冷たい光を宿していた。まるで、すべてを知っているかのような目だ。
「探偵さん……何て書いてあったの?」
「三十年前の出来事だ。君は何か知っているのか?」
「知っているわ。だって……ずっと、井戸の底で語り継がれてきたことだもの」
美奈はくすりと笑い、廊下の奥へと消えていった。その笑顔には、少女らしさとはかけ離れた、底知れない暗さがあった。彼女の足音が、遠ざかっていく。
神代寺は日記を鞄にしまい、書斎を後にした。廊下を歩きながら、彼は考える。
(美奈は何かを知っている。いや、知っているだけではない。彼女はこの事件の鍵を握っている。そして、あの笑顔は――復讐を誓う者の笑顔だ)
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