ホテルに泊まった翌朝から、何度も何度も携帯への着信が続いた。
おじさま。
おばさま。
麗。
翼。
彩佳さん。
みんなが心配して何度も電話をくれる。
でも、私は出なかった。
ブブブ ブブブ
今度は陸仁さんからのメール。
『その部屋は1週間ほど借りてあるから、他所には行かずにそこにいなさい。どうせ逃げ切れないんだから。1週間かけて、本当にどうしたいのか、自分の答えを出すといい』
かなり上から目線なのが気に障るけれど、ありがたくそうさせてもらおう。
***
週末が明けても、私はホテルに閉じこもったまま。
無断欠勤。
無断外泊。
これだけのことをすれば、もう元の生活には戻れない。
そう思うと、未練はある。
おじさまもおばさまも、きっと心配しているはず。
分かっていたことなのに、今はおばさまの手料理が懐かしいしおじさまにも会いたい。
それに、部屋を出て行った賢介さんの悲しげな顔がいつまでも頭を離れない。
***
数日後。
時々届く翼からのメールで、異物混入の犯人が捕まったと教えられた。
それをきっかけに、美優さんのDV報道も嘘のようにおさまったらしい。
誰の力が働いたのかは分からないけれど、本当によかった。
これで心残りはないと頭では理解しているのに、心が晴れない。
その後、2日・・3日・・4日・・
誰もいないホテルの部屋で、私は食事が喉を通らない日が続いた。
浮かぶのは賢介さんのこと。
出来る事なら、もう一度会いたい・・・
***
5日目。
ブブー ブブー
麗からの着信。
私は思いきって通話ボタンを押した。
「もしもし」
『・・・』
麗方が黙り込む。
まさか出るとは思わなかったらしい。
「麗、ゴメンね」
『琴子、何やってるのよ』
よかった、いつも口調。
変わらないでいてくれることが、嬉しい。
「ゴメン」
はぁー。
大きな溜息を1つ電話の向こうから聞こえた。
『賢兄が海外に行くわよ。琴子がいなくなったことでおじさまが怒って。2年ほど海外に行って、帰ったらお見合いだって』
「そんな」
『賢兄は、全部自分の責任だって言ったらしいわ』
麗が私を責めている。
何も言えず、私は黙り込んでしまった。
『考えてもみなさい。平石の力があればあなたを見つけるなんて簡単なこと。それをしないのは賢兄が止めたからよ』
確かに。
すでに5日ほどたつのに、こうしていられるのは賢介さんお陰かも知れない。
『琴子は自由になりたいんだからって、おじさまを止めたらしいわ』
「・・・ごめんなさい」
もうそんな言葉しか出てこない。
『謝る相手を間違ってるでしょう』
「うん」
わかっている。
『いつまでも隠れてないで、早く出てきなさい。みんな心配しているんだからね』
麗は言いたいことだけ言って、電話を切った。
***
6日目。
明日で1週間。
そろそろ気持ちを整理しなくてはいけない。
そんな時、麗からメール。
『16時、羽田発。賢兄が行ってしまうよ』
嘘。
賢介さんがいなくなる。
「そんな・・・」
心臓をギュッと掴まれたような気がした。
気がついたら、ホテルを飛び出していた。
急いでタクシー拾い、「羽田空港へ、急いでください」と無意識に言っていた。
このまま別れたくない。
最後にもう一度会いたい。
その思いしかなかった。
空港に着き、タクシーを降りると、全速力で走り出す。
お願い間に合って。
出発ゲートの人混みの中をかき分ける。
賢介さん。
お願い、間に合って。
ああっ、いた。
「賢介さーん」
息を切らしながら駆け寄り、飛びついた。
「琴子?」
賢介さんが、唖然としてる。
一緒にいる三崎さんも苦笑い。
「お願い行かないで。もう嘘はつかないから。言うことはきくから。お願い、1人にしないで」
子供みたいにワンワンと泣いてしまった。
ヨシヨシと背中を撫でる賢介さん。
行き交う人たちも何事かとこちらを見ている。
「どうしたの?琴子。今日は韓国へ2泊の出張だよ」
はあ?
嘘。
麗に・・・騙された。
「キャンセルしますか?」
三崎さんの冷めた声。
「いいのか?」
賢介さんが驚いている。
「ええ。実際ここ数日は仕事になってませんでしたし」
苦い顔。
「すまない」
「ゴメンなさい」
2人で、頭を下げた。
その後、
私は賢介さんと2人ホテルに戻った。
***
2人とも無言のまま、ホテルに着いた。
ここ数日何もせずに過ごしたホテルの部屋は、なんだか生活感がありすぎて恥ずかしい。
全く食べれてないからゴミは少ないけれど、ミネラルウォーターの空きボトルが所々に転がっている。
はあー。
賢介さんのため息。
「何しているんだよ」
やっぱり呆れている。
カーテンを開け、ゴミを片付けて、ルームサービスの注文。
そして、出張用のバックから出されたTシャツを「着ている服をクリーニングに出すから」と渡された。
考えて見れば、ここ1週間は着替えもないままでほぼ下着で過ごしていた。
賢介さんに言われるまま、私は素直にシャワルームへ向かった。
***
シャワーを浴びて着替えをし部屋に出ると、賢介さんに抱きしめられた。
「こんなに小さくなって・・」
言葉に詰まる賢介さん。
私も賢介さんの背中に手を回した。
「素直でいいね」
耳元で言われ、赤くなる。
この一週間の寝不足と鬱積した思いからの解放で、体の力が抜けてフーッと気が遠くなった。
きっと、一瞬の出来事だったと思う。
気がつくとベットの上に寝かされていた。
「食べられる?」
ルームサービスで注文した温かいスープを差し出され、
「うん」
私はスプーンを口に運ぶ。
一口・・・二口・・・
うーん、美味しい。
「何か欲しいものはない?」
いつの優しい賢介さんの顔。
ふふふ。
「何?」
不思議そうに私を見ている。
ふふふ。
それでも答えずに笑っていると、
「今なら何でも用意するよ」
いつも以上に優しい声。
私は、持っていたスープをサイドテーブルに置くと、トントンとベットを叩いた。
「え?」
賢介さんが驚いている。
「側に来て」
「琴子?」
ベットに並び肩に手を回す賢介さんに、私はそっと寄りかかった。
こんなにも、側にいたいと思った人は誰もいなかった。
もう片時も離れたくはない。
「こんな事、誰に教わった?」
意地悪な声に、今度は私が絶句する。
私達はそのまま、ベットへと倒れ込んだ。
***
翌日。
私も賢介さんも、昼過ぎになってやっと起き上がった。
ただでさえ弱った体に賢介さんは容赦がなかった。
『お仕置きだ』と言わんばかりに、私の制止など聞いてはくれなかった。
「痛たっ」
ベットを降り歩き出した途端、つい口を出た。
おかしそうに笑う賢介さん。
その時、
ブブブ ブブブ
メールが来た。
表示された名前は『平石陸仁』
咄嗟に隠そうとして、賢介さんに携帯を奪われた。
ピッキッ。
賢介さんの頬が引きつっている。
うわ、マズッ。
「まだ、たらない?」
と、近づく賢介さん。
後ずさりする私。
「やめてっ、もう、無理」
つい、涙が滲む。
「馬鹿、泣くな」
優しい声で、そっと抱きしめられた。
どうやら、からかわれたらしい。
私は今、いつも優しい賢介さんの本性を見ているのかも知れない。
普段よりちょっと俺様で意地悪だけど、私だけに見せる素顔だと思うとなんだか嬉しい。
そして、私はもう彼から離れられないと気付いた。
***
午後になって、私達は平石の家に戻った。
1週間ぶりの帰宅に、緊張で足が震える。
「大丈夫だから」
キュッと手を握られて、私は歩き出した。
ピンポーン。
ガチャッ。
「ただいま」
賢介さんが声をかけ、
「お帰りなさいませ」
喜代さんが顔を出した。
その途端、
「こ、琴子さん」
絞り出すように言うと、
「奥さまー。旦那さまー」
叫びながら走って行った。
「行こう」
賢介さんが手を引いてくれるけれど、
私は玄関から動かない。
これだけのことをしたんだもの、勝手に上がるわけにはいかない。
***
ドタドタと足音を立てながら、おじさまとおばさまが出てきた。
「琴子」
「琴子ちゃん」
2人とも、笑顔はない。
「心配かけて、ゴメンなさい」
それ以外に言葉がなかった。
しばらく私を見ていたおじさまが、ツカツカと近づいてきて、
パンッ。
私の頬が鳴った。
「無断外泊はダメだとあれだけ言っただろう。何で言うことが聞けないんだ。電話をしても出ないし。どれだけ心配したと思っているんだ」
ちょっと涙ぐみながら、おじさまが叱る。
私は胸を締め付けられるような思いがした。
ボロボロと泣きながら、
「ごめんなさい」
何度も繰り返した。
「もういいから。上がりなさい」
おばさまが助け船を出してくれて、私は家に上がることが出来た。
***
おじさまとおばさまを前に、
「琴子と結婚したい」
と、賢介さんが言った。
おばさまから
「琴子ちゃんの気持ちはどうなの?」
と聞かれ、
「私も、賢介さんと一緒にいたいと思っています」
と答えた。
おじさまも反対はしなかった。
麗も、翼も、祝福してくれた。
会社には退職願を出した。
彩佳さんにも本当のことを話し、「おめでとう」と言ってもらった。
***
1ヶ月後、
「ランチに出ておいで」とおじさまに呼び出された。
場所はホテルの個室。
「失礼します」
中に入ると、おじさまと、初老の男性。
それに・・・美優さん。
随分とやつれて見える。
「座りなさい」
おじさまに促され、席に着いた。
ランチ用に用意された和食を前に、
「この度は娘がとんでもないことをしてしまい申し訳なかった」
初老の男性、美優さんのお父様が頭を下げた。
美優さんはうつむいている。
「谷口さん。もういいですよ。賢介も琴子も済んだことと思っています。なあ?」
「はい。もう、気になさらないでください」
私も答えた。
食事を囲みながら、美優さんはしばらく海外に行くと聞かされた。
なんだかかわいそうな気もするけれど、いい転機になってくれればと心から思う。
食事の最後、
「琴子さん、酷いことをたくさんしてごめんなさい。どうぞ幸せになってください」
美優さんに謝ってもらい、私の中でも気持ちの整理がついた。
***
私が平石の家に来てから9ヶ月が過ぎた。
季節も春から夏、秋から冬、そしてもうすぐ新年を迎える。
ほんの一時の居候のつもりだった生活が、私を変えてしまった。
もう、元には戻れない。
いや、戻りたくない。
春になったら、私は平石琴子になる予定だ。
身寄りのいない私を思って、結婚式は海外で家族だけで挙げることになった。
そして、私のおなかには小さな命が芽生えている。
このことは、賢介さんも、おじさまも、おばさまも知らない。
年が明けたら、賢介さんと一緒に病院へ行こうと思う。
「琴子ちゃん。おせちの準備をするわよ」
台所からおばさまの声。
「はーい」
慌ただしく新年を迎える準備をしながら、来年も、再来年も、この幸せが続いて欲しいと心から願った。
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