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特に何かをする訳でもなく、ただ時計の針を見つめていた。真夜中聞こえるのは、秒針が時を刻む音と蝉の鳴き声だけだ。
五十五、五十六、五十七、五十八、五十九、六十。
十二時になった瞬間、蝉の声が消える。僕は無音と化した世界へ踏み出した。いつも通り、家の中を静かに進み、外へ出る。
何も異変は無いが、僕は違和感を覚えた。
言葉で表すのが少し難しいが、何も感じなかったのだ。今までであれば蝉の鳴き声が消える時、彼女に誘われているような感覚があった。
だが、蝉が鳴き止み、家の中を進み、外に出る。ここまでの中で一切、彼女の存在を感じなかった。
こんな事は今まで一度も無かった。当然、焦る。僕は走った。
公園まで大して距離は無い。それでも、走らずにはいられなかった。
僕の額を汗が流れる。ただそれは、走ったからでは無い。緊張によるものだ。身体はどんどん温まっているというのに、全身から鳥肌が立ち、冷や汗が止まらない。
僕は神を信じてはいない。ただこの時だけは、心の中で祈った。
彼女の存在を。彼女が消えていない事を。
遂に公園に着き、ベンチが見える位置まで来た。だが、走った事により息が切れていて、顔を上げられない。
いや、嘘である。本当は現実を見たくなくて、何か適当に理由を付けた。それだけだ。
それでも、少なくとも僕の中だけでは、それが本当の事のように思えた。
息は整っていくどころか、焦りと恐怖からどんどん増していく。このままではならぬと思い。 薄いままの呼吸の間隔を無理やり、ゆっくり、少しずつ広げていく。
顔を上げると、誰もいないベンチがあった。
それを見た途端、身体が感情を追い越し、吐き気が止まらなくなる。呼吸はより辛くなり、どこかで休む必要がある。僕はとりあえず、いつも通りベンチに座った。
ただそれは、失敗だったかもしれない。
息は整い、感情も徐々に落ち着いてきた。だがそれと同時に、より明白に現実も見えてきた。
彼女は待っていなかった。
何故だ、何故彼女はいない。
その問いに対し、まず浮かんだ答えは、単純に体調を崩したという事だ。昨日の雨で風邪を引き、ここまで来れなかった。全然あり得る事ではある。ただ怖いのはそうでは無かった時だ。
次に浮かんだ答えは、彼女がそもそも存在しなかったというものだ。秋風月夜は俺の孤独を埋めたいという想いが創り上げた幻想で、今までの事は全て嘘だった。
現実味はまったく無いし、そんなの物語の世界の話だろとも思う。ただ、これが真実なら、彼女が来なかった理由だけは説明できる。
そして、最後に浮かんだ答え。それは彼女に遊ばれていたというもの。
こんな事を考えてしまった僕は最低だ。そんなはずがない。そんなはずはない。彼女の笑顔も、涙も、何も否定したく無い。
それでも、つい考えてしまうのだ。だってもしそうだったら、僕は死ぬまで答えに辿り着けず、ここで一生立ち止まる事になる。
僕はそう思ったところで、自然と自分自身を鼻で笑った。
一生立ち止まったまま? 僕は何を言っているのだ。今まで、それっぽく生きてきて、受験生の実感を未だに持てず、何も努力せず、何も無く、何も変わらないままここまで来た僕が、今更そんな事を気にしているのか?
そうだ。これで良いのだ。
本来、心の穴を埋めてくれる存在なんていない方が良いんだ。それが普通だし、そうやって生きなきゃいけない。
それに安寧は成長を生まない。
だから、これで良い。良いんだ。
それなのに、僕はここから動きたくなかった。彼女をここで待っていたかった。
五月蝿い。五月蝿い。五月蝿い。
ずっと前から、わかっていた。わかっていたんだ。五月蝿いのは、蝉でも、雨でも無い。
僕自身だと。
僕だけいつまで、変わらずにいるのだろう。
独り、公園のベンチにて、天を仰いだ。
曇り……、いや違う。
僕の頬に水滴が落ちた。
雨だ。