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18
その日。
阿部は部屋で一人、小説を読んでいた。
佐久間からもらった本。
読んだことはない。
そのはずだった。
けれど、ページをめくるたびに、時々不思議な感覚があった。
この先。
なんとなく知っている。
登場人物が何を言うかまでは分からない。
でも。
このあと何かが起きる。
そんな予感だけが、先に胸の奥へ浮かんでくる。
実際に読み進めると、その通りになることもあった。
「……やっぱり、読んだことあるのかな」
小さく呟く。
でも。
記憶にはない。
最近は、こういう感覚にも少し慣れてきた。
康二の歌を聞いた時。
プラネタリウムという言葉を聞いた時。
沖縄の話をされた時。
めめの言葉や表情を見た時。
知っているような。
知らないような。
最初の頃は、そのたびに必死で思い出そうとしていた。
今は。
「またか」
と思うだけで済むことも増えた。
無理に思い出さなくてもいい。
最近は本気で。
そう思っていたから。
阿部は栞を挟み、本を閉じる。
部屋が静かだった。
隣からも。
今日は物音がしない。
阿部は壁の向こうを見る。
「めめ、いないのかな」
仕事を辞めてからは家にいることも多かった。
それでも。
ずっと部屋にいるわけではない。
買い物にでも出ているのかもしれない。
時計を見る。
昼前。
「ランチ食べに行こうかな」
館さんの今日のランチも気になる。
佐久間とラウールも働いているかもしれない。
阿部は立ち上がって、ゆっくり支度を始めた。
いつもの道を歩く。
天気は良くて。
風も穏やかだった。
カフェまで、もう少し。
その時。
少し先に。
見慣れた姿が見えた。
「あ」
目黒だった。
声をかけようとする。
けれど。
目黒の前には。
一人の女性がいた。
阿部の足が止まる。
知らない人。
見たこともない。
多分。
めめの知り合いなのだろう。
そう思った。
それだけなら。
何もおかしくない。
でも。
なぜか。
身体が先に反応した。
阿部は反射的に、近くの建物の陰へ身を隠した。
「……何してんだろ、俺」
自分でも分からない。
目の前の女性は。
知らない。
本当に知らない。
なのに。
目黒が女性と向き合って話している。
ただその光景だけで。
胸の奥がざわつく。
そして。
突然。
違う顔が浮かんだ。
「……っ」
知らない女の人。
いや。
違う。
知っている。
すごく。
嫌な顔。
目黒の隣に立って。
笑っている。
自分を見て。
何かを言っている。
冷たい声。
刺さるような言葉。
――似合わない。
――邪魔。
――目黒くんのためにならない。
そんな断片だけが。
一気に浮かぶ。
阿部は息を呑んだ。
「……誰」
頭が痛い。
胸が苦しい。
今、目黒と話している女性じゃない。
全然違う人。
でも。
確かに。
誰かがいた。
目黒の近くに。
自分が。
ものすごく嫌だと思っていた女の人。
「……やだ」
呼吸が速くなる。
息を吸っているのに。
足りない。
心臓がうるさい。
どんどん速くなる。
指先が冷たい。
何かを思い出しかけている。
分かる。
でも。
その先へ行くのが怖い。
「……は、っ」
うまく息が続かない。
壁に手をつく。
視界が少し狭くなる。
その時だった。
「あべちゃん?」
聞き慣れた声。
阿部がゆっくり顔を上げる。
そこにいたのは。
深澤と渡辺だった。
二人とも、阿部の顔を見た瞬間に表情を変えた。
「ちょっと」
渡辺がすぐ近くまで来る。
「あべちゃん、大丈夫?」
「……翔太」
「ふっか、こっち」
深澤もすぐ横に来た。
「どうした?」
「……分かんない」
声が震える。
「めめが」
そこまで言って。
阿部は目黒のいる方向を見る。
深澤と渡辺も一度だけそちらを見る。
目黒はまだ女性と話している。
「女の人と話してて」
「うん」
「でも、あの人じゃない」
阿部は必死に言葉を探す。
「別の人」
「……」
「別の女の人が、頭に浮かんだ」
二人の表情が。
ほんの一瞬だけ固まった。
阿部はそれに気づく余裕がない。
「嫌な人だった」
息を整えながら続ける。
「めめの近くにいて」
「俺に、すごい嫌なこと言ってて」
「……」
「俺、その人知ってる」
深澤が阿部の前へ回る。
「あべちゃん」
「何」
「今は思い出さなくていい」
その言葉に。
阿部は少しだけ眉を寄せた。
「でも」
渡辺もすぐ言う。
「ほんとに。今ここで無理に思い出す必要ないから」
「……」
二人とも。
同じ。
思い出さなくていい。
それを。
迷わず言う。
阿部は何度かゆっくり息を吐く。
少しずつ。
心臓の速さが戻ってくる。
震えていた手も。
少しずつ落ち着いていく。
二人は急かさなかった。
深澤は近くにいて。
渡辺は背中を軽く撫でてくれている。
しばらくして。
阿部は小さく息を吐いた。
「……もう大丈夫」
「ほんと?」
渡辺が聞く。
「うん。まだちょっと変だけど」
「座る?」
「大丈夫」
阿部は壁から手を離す。
そして。
二人を見る。
さっきまでなら。
ここで終わっていたかもしれない。
思い出さなくていい。
そう言われて。
自分もそれでいいと思っていた。
でも。
今日は違った。
少しだけ。
思い出してしまった。
誰かがいた。
自分を苦しめていた人。
それを。
みんなは知っている。
そんな気がした。
「ふっか」
「ん?」
「翔太」
「何?」
阿部は少し迷う。
それから。
はっきり聞いた。
「昔の俺、何があったの?」
二人とも。
何も言わなかった。
その沈黙だけで。
胸が少し苦しくなる。
「やっぱり」
阿部は二人の顔を見る。
「何かあったんでしょ」
「……あべちゃん」
深澤が困ったように名前を呼ぶ。
「思い出さなくていいよ」
「なんで?」
「今、ちゃんと楽しいでしょ」
「うん」
「だったら」
「でも」
阿部は遮る。
「俺のことだよ」
深澤が黙る。
「俺に何があったのか、俺だけ知らない」
「……」
「さっきみたいに、急に何か思い出して苦しくなるなら」
阿部は胸元を押さえる。
「何も知らない方が怖い」
渡辺が目を伏せる。
「でも知ったら、もっと苦しくなるかもしれないよ」
「それでも」
阿部は少し考えて。
ゆっくり言う。
「知りたい」
その言葉に。
二人の表情が変わった。
阿部自身も。
少し驚いていた。
少し前まで。
もう思い出さなくてもいいと思っていた。
今の自分が幸せなら。
それでいいと思っていた。
でも。
今は。
知りたい。
全部ではなくても。
何があったのか。
どうして自分が。
あんなふうに身体だけで怖がったのか。
「めめも」
阿部が言う。
「みんなも知ってるんでしょ」
深澤と渡辺が目を合わせる。
「俺だけ知らないんだよね?」
「……」
「そうなんでしょ?」
長い沈黙。
やがて。
渡辺が小さく息を吐いた。
「ここでは話せない」
阿部が見る。
深澤も頷く。
「夜」
「夜?」
「バーで話そう」
「みんなで?」
「……うん」
渡辺が答える。
「めめもいるところで」
阿部は少しだけ目を見開いた。
やっぱり。
目黒も知っている。
その事実が。
急に現実味を持った。
「分かった」
阿部はゆっくり頷く。
「夜、行く」
深澤が少し心配そうに見る。
「あべちゃん」
「何?」
「途中で嫌になったら」
一度言葉を切る。
「聞かなくていいからね」
渡辺も続ける。
「知らないままでいるって選んでもいい」
阿部は二人を見る。
そして。
少しだけ笑った。
「うん」
「でも今は」
もう一度。
はっきり言う。
「知りたい」
二人は。
それ以上止めなかった。
その日の夜。
阿部がバーの扉を開けると。
いつもより、店の中が妙に静かだった。
「……こんばんは」
声をかける。
阿部以外の八人が。
全員そろっていた。
「……ほんとに全員いる」
阿部が少し驚いて言う。
でも。
誰もいつものようには返してこなかった。
全員、少し緊張した顔をしている。
目黒だけは。
阿部を見つけるとすぐに立ち上がった。
「あべちゃん」
「うん」
「大丈夫?」
「今は大丈夫」
目黒が近くまで来る。
阿部はその顔を見る。
昼間。
知らない女性と話していた目黒。
その姿を見た瞬間。
突然浮かんだ、別の女の人。
嫌な声。
嫌な言葉。
その記憶を思い出すだけで、まだ胸の奥が少しざわつく。
でも。
今は。
逃げたくなかった。
「話してくれるんでしょ?」
阿部が聞く。
目黒はすぐには答えなかった。
代わりに。
少し離れたところから、佐久間が口を開いた。
「俺は話した方がいいと思う」
その言葉に。
渡辺がすぐ反応する。
「全部?」
「うん」
「無理でしょ」
「なんで?」
「今日あんな状態になったんだよ?」
空気が変わる。
阿部が入ってきたばかりなのに。
話し合いは。
まだ途中だったらしい。
深澤も渡辺の隣で言う。
「俺も全部は反対」
「でも」
康二が低い声で言う。
「いつまでも隠し続けるんもちゃうやろ」
「隠してるんじゃない」
ラウールが言う。
「今のあべちゃんに必要ないことまで戻す必要ないって言ってるの」
「必要かどうか決めるの、ラウじゃないじゃん」
佐久間が返す。
「佐久間くんだって決めることじゃない」
「だから本人に話して決めてもらえばいいって言ってんの!」
少しずつ。
声が大きくなる。
阿部は入口近くに立ったまま。
みんなを見る。
何を話しているのか。
分かる。
自分のこと。
自分の過去のこと。
なのに。
自分だけが知らない。
「思い出したらまた苦しくなるかもしれないじゃん」
渡辺が言う。
「今笑えてるのに」
深澤も続ける。
「そうだよ。昔のこと知らなくても、今ちゃんと生きてるじゃん」
「でもな」
康二が言う。
「あべちゃんの人生やで」
「なくなったことにしてええん?」
「なくなったことになんてしてない」
ラウールの声も少し強くなる。
「ただ、思い出さなくていいことだってあるって言ってる」
「それを勝手に決めるなって」
佐久間が言う。
「昔のあべちゃんだって、あべちゃんなんだよ」
その言葉に。
阿部の胸が少しだけ動く。
昔の俺。
自分の知らない自分。
目黒は。
何も言わない。
ただ。
阿部を見ていた。
宮舘も。
岩本も。
黙っている。
そして。
しばらく黙っていた岩本が、低い声で言った。
「一回落ち着こう」
でも。
その言葉でも。
すぐには止まらなかった。
渡辺が佐久間を見る。
「佐久間は簡単に言うけど、あべちゃんがどこまで追い詰められてたか」
「俺だって知ってるよ!」
佐久間が珍しく強い声を出す。
「知ってるから、戻ってきてほしいんじゃん!」
「戻るって何?」
ラウールが聞く。
「今のあべちゃんは違うの?」
佐久間が黙る。
その一瞬。
今度は康二が口を開く。
「そういう意味ちゃうやろ」
「じゃあどういう意味?」
「昔も今も両方あべちゃんやってことや」
「だったら今のあべちゃんだけでもいいじゃん!」
「ラウール」
宮舘が静かに制する。
ラウールは。
そこで口を閉じた。
でも。
表情は納得していなかった。
阿部は。
その全部を聞いていた。
胸の奥が。
少しずつ苦しくなる。
怖い。
でも。
それ以上に。
嫌だった。
自分のことなのに。
みんなが知っている。
自分だけが知らない。
その状態が。
もう。
嫌だった。
「あのさ」
阿部が声を出す。
誰も気づかない。
まだ空気が張りつめている。
「ねえ」
もう一度。
少し大きな声。
全員が。
阿部を見る。
静かになる。
阿部は。
みんなの顔を順番に見た。
佐久間。
康二。
ラウール。
翔太。
ふっか。
館さん。
照。
そして。
めめ。
全員。
自分の知らない自分を知っている。
「俺さ」
少しだけ声が震える。
「もう嫌だ」
「俺だけ知らないの」
誰も言葉を挟まない。
「みんなが俺のこと知ってて」
「俺が昔何してたかも」
「誰が嫌だったのかも」
「何であんなふうになったのかも」
阿部は胸元を押さえる。
「全部知ってるのに」
一度。
息を吸う。
「俺だけ分かってない」
その言葉に。
誰も何も言えなかった。
「思い出さなくていいって言ってくれるのも分かる」
阿部は渡辺と深澤を見る。
「俺が苦しくならないようにしてくれてるんでしょ」
二人とも。
黙っている。
「思い出した方がいいって思ってるのも分かる」
今度は佐久間と康二を見る。
「俺の人生だからって思ってるんでしょ」
二人も。
何も言わない。
「館さんと照は」
少しだけ笑う。
「俺に決めさせようとしてるんでしょ」
宮舘が。
ほんの少し目を伏せる。
岩本も。
否定しなかった。
最後に。
目黒を見る。
「めめは」
そこで。
言葉が止まる。
目黒だけは。
何を思っているのか。
分からない。
ずっと。
自分のそばにいてくれた。
思い出さなくてもいいと言った。
でも。
本当は。
何を望んでいるのか。
「……めめも知ってるんでしょ」
目黒は。
ゆっくり頷いた。
「うん」
その一言で。
胸が苦しくなる。
やっぱり。
全員。
知っている。
阿部は。
少しだけ俯いた。
それから。
顔を上げた。
「もう」
はっきりと言う。
「全部話して」
誰も動かなかった。
阿部は続ける。
「途中で苦しくなったら止める」
「聞きたくなくなったら言う」
「でも」
手を握る。
「何も知らないままなのは、もう嫌」
目黒の顔が。
明らかに不安そうになる。
全員。
阿部がそう言うことを。
完全には望んでいなかったような顔をした。
「あべちゃん」
目黒が静かに呼ぶ。
「全部聞いたら」
一度。
言葉を選ぶ。
「戻れないかもしれないよ」
「何が?」
「今みたいに」
目黒は少し苦しそうに笑う。
「何も知らずに笑ってる状態には」
阿部は。
その言葉を聞いて。
少し怖くなった。
でも。
逃げなかった。
「それでも」
目黒を見る。
「知りたい」
静かな声。
でも。
迷いはなかった。
「俺のことだから」
全員が。
不安そうな顔をしている。
誰も。
すぐに話し始めなかった。
それでも。
もう。
阿部は決めていた。
昔の自分に。
何があったのか。
今度は。
自分から知ろうとしていた。
#❤️💙
みら

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コメント
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おはようございます☀ うー 何があったの 自分のことを自分が知らない みんな知ってる好きな人も 全部最後まで聞けるのかな 不安だよね。 取り戻せるのか…
ああ、もう胸がぎゅっとなりました……。阿部くんが「みんなが知ってるのに俺だけ知らない」って言ったところ、すごく響きました。みんながそれぞれの立場で守ろうとしてて、それもまた切なくて。でも最後の「俺のことだから」っていう決意、すごくかっこよかったです。次どうなるんだろう……ちゃんと知ることができるのか、見守りたいです🌷