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みら

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静かなバーの中。
誰も、なかなか最初の一言を口にできなかった。
阿部は、向かい合う八人の顔を順番に見た。
みんな、自分を見ている。
心配そうに。
怯えるように。
まるで、これからする話が。
阿部自身よりも先に。
全員の心を傷つけると分かっているみたいに。
「……話して」
阿部は言った。
声は思っていたよりも静かだった。
「全部」
もう一度、今度は逃げ道を塞ぐように、はっきりと言う。
岩本がゆっくり息を吐いた。
その息の音だけが、やけに大きくバーの中へ落ちた。
「じゃあ」
照は阿部をまっすぐ見た。
「最初から話す」
阿部は頷いた。
その瞬間、胸の奥で何かが小さく震えた。
これから、自分の知らない自分の話を聞く。
自分の人生なのに、自分だけが知らない話を。
最初に聞いたのは。
阿部が何者だったのかだった。
「あべちゃんは」
佐久間が口を開く。
いつものように明るくしようとしているのに、声の端が震えていた。
「俺たちと一緒に、アイドルやってた」
「……アイドル?」
阿部は目を瞬いた。
その言葉が、遠い場所から聞こえたように感じた。
康二が頷く。
「九人でな」
「九人……」
阿部は、そこにいる全員を見た。
「俺も?」
「うん」
ラウールが答えた。
その声は、いつもよりずっと幼く聞こえた。
「ずっと一緒だったよ」
頭の中には、何も浮かばなかった。
ステージも。
歌も。
ダンスも。
歓声も。
何一つ。
それなのに、胸の奥だけが、知っていると告げていた。
康二の歌を聞いた時に感じた懐かしさ。
人に見られることへの、身体に染みついた慣れ。
それらが、ばらばらだった記憶の欠片が、少しずつ形を持ち始める。
「じゃあ」
阿部は小さく聞いた。
「みんな、昔から俺のこと知ってたの?」
「うん」
佐久間が答える。
「最初から」
「俺が何も覚えてなくても?」
「知ってた」
その言葉は、優しかった。
だからこそ、痛かった。
阿部は俯いた。
やっぱり。
知らなかったのは。
自分だけだった。
しばらくして、渡辺が口を開いた。
「あと」
阿部が顔を上げる。
渡辺は、言葉を選ぶように何度も唇を動かした。
「今のあべちゃんは女だけど」
「うん」
「元は男だった」
時間が、一瞬止まった。
「……え?」
深澤が静かに続ける。
「俺と翔太も」
「……」
「昔は男」
阿部は二人の顔を見た。
それから、自分の身体へ視線を落とす。
細い指。
長い髪。
見慣れたはずの身体。
「俺が?」
「うん」
「男だった?」
「そう」
信じられなかった。
けれど、一人称がずっと「俺」だったこと。
それを誰にも不思議がられなかったこと。
自分自身も、そこに違和感を抱かなかったこと。
その理由だけは、妙にすんなりと胸へ落ちてきた。
「……だから俺、俺って言うの?」
深澤が、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔には、懐かしさと寂しさが混ざっていた。
「多分ね」
阿部も笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
まだ、何も思い出していない。
聞かされているだけだった。
自分のことなのに、誰か別の人の話を聞いているみたいだった。
そして。
最後に残ったのは。
誰も話そうとしなかったことだった。
阿部は目黒を見る。
「めめ」
「うん」
「俺とめめは?」
目黒の表情が、わずかに揺れた。
その変化を見て、阿部はもう分かってしまった。
聞かなくても。
答えは、そこにあった。
「恋人だったんでしょ」
目黒は、ゆっくり頷いた。
「うん」
胸の奥で、心臓が一度だけ強く鳴った。
「どのくらい?」
「長いよ」
「今の俺が、めめを好きになる前から?」
目黒は少し笑った。
けれど、その目は泣きそうだった。
「ずっと前から」
「……そっか」
不思議だった。
驚きはした。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
今の自分が、もう一度同じ人を好きになったこと。
それが、なぜか嬉しかった。
「じゃあ」
阿部は、かすかに笑った。
「俺、二回めめのこと好きになったんだ」
目黒は、すぐには答えなかった。
その言葉を、壊さないように受け止めているようだった。
やがて、掠れた声で言う。
「うん」
そして、少しだけ俯いた。
「もう一回、好きになってもらった」
阿部は目黒の顔を見つめた。
また、知っている気がした。
この目。
この声。
自分を見る時の、優しい表情。
けれど、記憶は戻らない。
「……ごめん」
「何が?」
「聞いても」
阿部は胸元を押さえた。
「まだ、分かんない」
目黒は、すぐに首を横に振った。
「謝らなくていい」
「でも」
「いいんだよ」
目黒は笑った。
その笑顔は、あまりにも優しくて。
阿部は、余計に苦しくなった。
「知ってもらえただけで」
その言葉の意味を、阿部はまだ理解できなかった。
けれど、目黒がどれだけ長い時間、自分を待っていたのかだけは、少し分かった気がした。
しばらく、誰も話さなかった。
その沈黙の中で、目黒が静かに立ち上がる。
「あべちゃん」
「何?」
「見せたいものがある」
目黒はポケットへ手を入れた。
取り出したのは、小さなケースだった。
阿部は、それを見つめる。
目黒がゆっくりと蓋を開けた。
中に入っていたのは、指輪だった。
「……」
息が止まる。
知らない指輪。
見たことのないはずのもの。
それなのに。
見た瞬間、胸の奥が鋭く痛んだ。
「これ」
目黒が言う。
「俺たちの」
阿部は、指輪から目を離せなかった。
「……俺の?」
「うん」
目黒は、もう一つ何かを取り出した。
大切なものを扱うように、丁寧に包まれていた。
細いチェーン。
その先で、小さな飾りが光っている。
アンクレット。
それを見た瞬間。
バーの音が、すべて遠ざかった。
誰かの息遣いも。
椅子の軋む音も。
自分の心臓の音さえも。
何も聞こえなくなった。
「……っ」
視界が揺れる。
星空。
暗いドーム。
隣にいる目黒。
『ずっと家にいてほしい』
『誰にも見られないように』
『足を鎖で繋いで、俺だけが見ていたい』
冗談みたいに笑いながら。
けれど、その目だけは真剣だった。
目黒が膝をつく。
左足に触れる手。
カチッ、と小さな音がする。
『似合う』
「……めめ」
目黒が息を呑んだ。
阿部の中で、何かが崩れていく。
沖縄の青い海。
飛行機の窓から見た雲。
握られた手。
『前よりはちゃんと頼る』
映画の撮影。
苦しかった日々。
熱に浮かされた自分。
目黒が作ってくれたお粥。
合鍵。
日記。
『毎日来る』
『毎日は来ないで』
笑っている二人。
泣いている二人。
何度も離れて。
何度も戻って。
それでも隣にいた二人。
記憶が、止まらなかった。
幸せだった時間も。
苦しかった時間も。
全部が一度に押し寄せてくる。
阿部は頭を押さえた。
「あべちゃん!」
目黒がすぐに駆け寄る。
けれど、阿部は首を横に振った。
止めないでほしかった。
怖かった。
それでも、もう一度失う方が怖かった。
「まだ……」
声が震える。
「まだ、ある」
ライブの光。
九人の姿。
眩しいステージ。
歓声。
歌。
佐久間。
康二。
深澤と岩本。
渡辺と宮舘。
ラウール。
そして、目黒。
全部。
自分のものだった。
全部。
自分が愛してきたものだった。
「……思い出した」
声が、ひどく小さくこぼれた。
誰も動かなかった。
阿部は、もう一度指輪を見る。
アンクレットを見る。
そして、目黒を見る。
涙が、頬を伝って落ちた。
「めめ」
目黒の顔が歪む。
「あべちゃん……?」
「思い出した」
今度は、はっきりと言った。
「全部」
目黒の目からも、涙が落ちた。
阿部は考えるより先に、目黒へ手を伸ばした。
目黒はその手を取る。
そして、壊れものを抱くように、阿部を抱きしめた。
強く。
けれど、少しでも力を間違えれば消えてしまうものを扱うように。
「あべちゃん」
何度も名前を呼ぶ。
阿部も、目黒の服を掴んだ。
「めめ」
「うん」
「めめ」
「うん」
呼ぶたびに。
失っていた時間が、少しずつ戻ってくる。
知らない隣人だった目黒。
カレーを持ってきてくれた目黒。
何度もご飯を作ってくれた目黒。
夢の国で手を繋いだ目黒。
そして。
ずっと昔から、自分の隣にいた目黒。
全部、同じ人だった。
「俺」
阿部は泣きながら笑った。
「また、めめのこと好きになったんだ」
目黒も、泣きながら笑った。
「うん」
「何も覚えてなかったのに」
「うん」
「また好きになった」
「……うん」
目黒は、阿部をもう一度抱きしめた。
「嬉しかった」
その声が、あまりにも切なくて。
阿部の胸が痛んだ。
「ずっと?」
「ずっと」
「俺が何も覚えてなくても?」
「うん」
「知らない人みたいにしてても?」
目黒は、阿部の背中をゆっくり撫でた。
「それでも」
声が震えている。
「もう一回、会えたから」
阿部は目を閉じた。
思い出した。
幸せだったことも。
苦しかったことも。
目黒を好きだったことも。
九人でいたことも。
そして。
全部を忘れたいと思ったことも。
記憶が戻ったからこそ。
その最後の記憶が、遠くからこちらへ近づいてくるのが分かった。
まだ、完全には見えない。
けれど。
確かにそこにある。
阿部の表情が、ほんの少しだけ曇った。
目黒は、それに気づいた。
「あべちゃん」
阿部は目を開ける。
「……うん」
思い出した。
だからこそ。
まだ、聞かなければならないことがあった。
どうして自分が。
全部を忘れたいと思うところまで、追い詰められたのか。
どうして、目黒も、みんなも。
こんなにも怯えた顔をしているのか。
その記憶だけが。
まだ、胸の奥で。
冷たい影のように残っていた。
コメント
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うわあ……このエピソード、すごかったです。自分の知らない自分の話を聞くって、それだけで胸が締め付けられるのに、アンクレットの記憶がフラッシュバックするところは鳥肌が立ちました。特に「二回めめのこと好きになった」って台詞が、記憶を失っても変わらず惹かれる運命みたいで、切なくて温かくて……。めめもずっと待ってたんですよね。「もう一回、好きになってもらった」って言葉に、どれだけの時間と想いが詰まってるんだろう。それでいて、まだ「冷たい影」が残ってる伏線も気になります。続きが待ち遠しいです。