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一瞬にして距離を縮められ、私の耳元で吐息交じりの声でそう囁く。唇が耳に当たりそうな距離で、答えを確信しているように、ディレンジ殿下は私に問いかけてくる。全身に蛇が這うような気持ち悪さと、おぞましさに体が硬直し、息を吸うのもやっとだった。答えなければ肯定ととらえられる。だが、口を開こうにも張り付いて口を開けなかった。
「近衛騎士団所属の、ベテル・アジェリットは、君の双子の弟でしょ? 超新星と言われて調子に乗っているそうじゃないか。小柄で、とても男とは思えない体つきの騎士……ペチカ・アジェリット公爵令嬢。君はどう思いますか?」
「どう、とは」
「彼が女だったら……」
「ありえません。べテルは男です。私の弟です」
「まあ、そういうだろうね。そして、ゆくゆくはその弟は、わが兄の専属の護衛になる……そういう話が出ていますので」
「……それは、とても騎士の冥利に尽きると思います。弟は」
自分のことを言われたので、べテルの気持ちでこたえようとして、私はとっさに、『弟は』と付け加える。
やっと口が開いたのだが、緊張からのどが渇いて痛い。
(どちらにしても、私も、べテルである私もバカにしている……)
この人は何を聞き出したいのだろうか。すでにわかっているというような口ぶり。なのに、それをはっきりと言わない。揺さぶりをかけたいだけか、バカにしたいだけか。
別にこれが弱みだとは思っていない。バレれば、私の信用が地に落ちるだけの話。だが最も、ここで重要なのは、私が男として近衛騎士団に入団することを皇族……皇帝陛下が容認したことだ。だから、これについて言及しようとすれば、それは容認した皇帝陛下に詰め寄ることになる。ディレンジ殿下としてもそれは望ましくないだろう。
だったら、何がまずいのか。
私がまずいと思っているのは、このことが殿下にばれるということなのだ。近衛騎士団の騎士にばれて信用が落ちることよりも、私は築き上げた殿下との関係を、信頼が壊れることを恐れている。殿下が過去に人に裏切られ、誰も信用できなくなり、ようやく少しずつ昔の殿下を取り戻しつつあるのに、近くにいる私がずっと殿下を欺いていたなんて知ったらきっと殿下は誰も信用できなくなる。これまでのわざとらしい態度も、婚約破棄をしようとした理由も、すべてが明るみになれば、殿下はきっと正気じゃいられないのではないだろうか。実際、そう思うのは私が彼を欺いている、だましていると思っているから。
まったくつかめない会話が進む中、ディレンジ殿下はすっと私に手を出しだした。私はその行動に一瞬目を丸くして彼のほうを見る。自信にあふれた表情に困惑し、私は彼の手を見つめることしかできなかった。
「もしも、君さえよければ俺の婚約者にならない?」
「は?」
「兄にはもったいない女性だと思っているんですよ。君のうわさは聞いているが、あれは誰かが流したデマだろう?」
「そう、ですが……ですが、私には殿下という婚約者がいます。殿下を裏切れというのですか?」
すでに裏切っている口が何を言うと自分でも思う。しかし、ディレンジ殿下の誘いは多分そういうものではなくて、要するに、第二皇子派閥に入れということなのだろう。ディレンジ殿下は積極的に婚約者候補を募っているという。だが、決定打にかけるのか、まだ婚約者がいるといったうわさはない。しかし、皇帝に即位するにあたり伴侶は必要なわけで、それを視野に入れての行動なのだろう。そして、あわよくば殿下の婚約者である私を奪って……と。わかりやすすぎるが、彼がそんなわかりやすいことを考えるだろうか。
「裏切れなんて言っていないですよ。ただ、もったいなすぎると言っている。君の魅力を引き出せるのは僕だと思っています。君に不自由ない生活を保障できるのは僕だ」
「自信にあふれているんですね。まるで私が貴方の手を取るかのような口ぶりですが?」
弱みという弱みではないが、確信している。私が、べテルであることを。ばらされたくないという思いはあるため、彼の手を取らなければならない、という強迫観念に襲われる。しかし、とるはずもなく、私は不快だと彼をにらみ返すことで反抗の意を見せる。
それだけじゃないのかもしれない。私の弱みだけではなく、もっと違うところとつながっているのかもしれない。例えば、公爵家の内情とか。そうだったとしたら、お兄様やお父様にも危害が及ぶ。
「君は、今不自由な思いをしている。僕だったら、そんな思いさせないですよ。悪い話じゃないでしょ?」
「――いや、大ありだ」
パシン、と響いた乾いた音ともに、私に差しだされていたディレンジ殿下の手ははじかれる。そして、次の瞬間にはグイッと肩を引き寄せられ、また彼の胸に背中が当たる。
「ぜ、ゼイン!」
「貴様、人の婚約者を寝取ろうなど最低の極みだな」
「ご無沙汰しています。兄さん。お変わりないようで、血の気が盛んで恐ろしいね。さすがは、恐怖の象徴ですね」
「……」
挑発的な笑み。しかし、殿下はそれになんとも答えず、ディレンジ殿下をにらみつけていた。
彼に抱きしめられた瞬間に意識が飛んでいたが、なぜ彼がここにいるのかと、顔を上げれば彼の瞳とぶつかる。
「ぜ、ゼイン、なんでここに?」
「貴様が、俺を置いていったからだろう。ペチカ。迎えに来てやったんだ。そしたら、貴様が、あいつに絡まれているところを見つけた」
殿下はそう言って、私を睨む。それは、心配からくる瞳で、ディレンジ殿下とは違う美しいルビーが私をとらえていた。
まるでふてくされているような、拗ねているような顔に、この状況と声にあっていないようなアンバランスさを感じ、私は困惑気味に眉を曲げるしかなかった。けれど、彼が来てくれたことで、体に巻き付いていた蛇が逃げたような感覚になって体が軽くなった。安堵に胸をなでおろし、少しだけ気が強くなった気でディレンジ殿下のほうを見た。
相変わらず、読めない表情でこちらを見ており、それでもその奥に邪魔が入ったとそういっているような感情も見て取れ、私は思わず顔をしかめる。手を取ることは絶対になかったけれど、あのまま詰め寄られていたらと考えると恐ろしい。ほかに何か私の弱みとなるものを握っていて、それをさらされたら手を取っていた可能性もあると。
「それは、すみません……あの――」
「近々、僕たちの誕生パーティーがあるのは知っていると思うけど、兄さんは、誕生日プレゼントに何が欲しい?」
「何を企んでいるかは知らないが、ペチカはやらないからな」
「誕生日パーティーの話をしているのに、本当に兄上はペチカ・アジェリット公爵令嬢に夢中なんですね。ペチカ嬢は、そういうふうには見えないけれど。父上が、僕を皇帝にしたくないみたいなんだけどさあ……兄さんも何か言ってくださいよ。かわいい弟のために」
「俺の母親を殺したのは、貴様の母親だろう。証拠がないせいもあって裁けないが、俺は貴様を弟だとは一生思わない。もう二度と俺の前に姿を現すな。もちろんペチカの前にも」
殿下の怒りのこもった声が耳を貫く。
ディレンジ殿下はやれやれと首を横に振る。
仲が悪いのは聞いていたけれど、理由も理由で。そして、何よりもこの二人は腹違いの兄弟でありながら誕生日が同じなのだ。それもあって、殿下は自分の誕生日を嫌っている。また、殿下の母親……前皇后が死んだ日でもあるから。
「ゼイン……」
「何だ、ペチカ」
怒りのこもった表情の中に、寂しさを見た。焦ってきたのがわかるくらい、彼の額には髪が張り付いている。
どうしてそこまで必死になれるのかわからなかった。
でも、きっと、うぬぼれじゃないと信じて、私のためにここに来てくれたんだって思ってしまった。私が彼を守らなければならないはずなのに、守られているという現状にふがいなさを感じつつも、優越感に浸ってしまっていた。そんな自分がどうしようもなく嫌いだけど、それでも――
「ありがとうございます、気にかけてくれて」
「当たり前だろ。貴様は、俺の婚約者なのだから」
そう返してくれた彼の言葉には迷いも、よこしまな考えも何も感じられなかった。