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「私が離婚したの、もう知ってるかな?」
小さく吐息を落とすと、タンポポの綿毛に向かって話しかけているみたいな静かな声音で言って、稀更が美千花を見詰めてきた。
まるで知られたくない事を打ち明ける時の内緒話みたいな雰囲気に、一瞬知っていると答えるのはどうだろうと思った美千花だ。
けれど、蝶子から聞かされて知っていた手前、下手に知らないふりをするのもおかしいかな?と考え直して素直に頷く。
「そっか。公言してる訳じゃないけどやっぱみんな知ってるよね」
美千花の反応にほぅっと吐息を落とした稀更が、寂しそうに眉根を寄せて微笑んでから続けた。
「西園はね、旧姓なの。仕事では面倒だから旧姓のままでいたんだけど……結局今となってはそれで良かったのかなって思ってる」
離婚すると届出をしない限り、姓が変わった側は男女の別なく旧姓に戻るらしい。
稀更の婚姻後の姓は〝野田〟だったのだが、会社では便宜上結婚前と変わらず〝西園〟のままにしていたと稀更が言って。
美千花は、稀更の結婚後の姓が〝西園〟なんだとずっと思っていたから正直驚いてしまった。
稀更の告白に「えっ」と驚きの声を上げたら、「美千花さんが入社した時には私、もう既婚者だったからね。苗字の事なんて気にしないよね」と微笑まれた。
でも考えてみれば美千花が入社した時だって。もっと言えば稀更が第二子出産の為の産休に入った時だって、彼女はずっと変わらず西園だったわけで。
美千花は、どうしてその事に思い至れなかったんだろうと恥ずかしくなった。
恐らく美千花にとって稀更は、単純に〝西園先輩〟以外の何者でもなかったのだ。
それは美千花が稀更を個人として見ようとしていなかった現れな気がして申し訳なく思ってしまう。
今思えばまったくもって馬鹿な話だが、律顕が美千花に告白してくれた時だって、稀更は既に有夫だったわけだ。
だからこそ美千花が稀更との恋人関係を疑った時、律顕は「有り得ない」と一蹴したのだと、今なら実感を伴って思える。
でもあの当時の美千花は――と言うよりもしかしたらつい今し方に至るまで、同期とはいえ課も違うはずなのに仲の良い二人に、〝あの二人は怪しい〟と言う下卑た噂を、心のどこかで信じてしまっていた。
それこそ、稀更の結婚の事実も知らなかった頃などは、独身者同士だと決めつけてさえいた。
「永田君と私と元旦那、大学で同じサークルでね、一つ先輩の旦那とは学生の頃からの付き合いだったんだけど」
稀更は元々結婚は強く望んでいなかったらしい。
でも稀更が二十四の年。製品開発課で後に大ヒット商品となる化粧水、『涼風の潤水』を世に送り出したのとほぼ時を同じくして第一子の妊娠が発覚。それを機に一線を退いて結婚に至ったらしい。
「気付いてた? 貴女が入社してきた時、私のお腹には二人目の赤ちゃんがいたの」
言われて、美千花は「え?」と思う。
でも、美千花と蝶子が受付嬢として先輩らの手を煩わせる事がなくなってきた頃、お腹の目立ち始めた稀更が産休に入ったのを思えば、期間的にもそうなのだと思えた。
仕事を辞めて家に引きこもっていてでさえ、つわりで死にそうになった美千花だ。
仕事をしながらつわりの時期を乗り越えた稀更は、本当に凄いなと思って。
「美千花さんたちが入社してきた頃には五ヶ月目に入ってつわりも落ち着いてたけど……ピークの頃はしょっちゅうお休みさせてもらったわ」
まるで美千花の心を読んだみたいに稀更が言って。
「一人目の時にはつわりなんて全然なかったから大丈夫だとタカを括ってたら何の事はない。二人目はガラッと体質が変わったみたいにしんどくて参っちゃった」
そこで稀更は美千花を慈愛に満ちた目で見詰めると、
「とにかくニオイに過敏になったのが辛かった」
稀更の言葉に、美千花は「分かります」と実感を込めて頷いた。
「永田君が私に美千花さんのつわりの相談をしてきたのもきっと、私が当時しょっちゅう休んでいたのを覚えていたからだと思う」
身近な女性で、聞けそうな相手が稀更しかいなかったから、自分が相談先に選ばれただけだと言外に含めるようにして、「最終的には奥さん本人にどうして欲しいか聞きなさいよ?って言ったんだけどね」と吐息を落とした。
「そういえば西園先輩……律顕に何てアドバイスをなさったんですか?」
さっき聞けなかった事を聞くチャンスだと思った美千花だ。
じっと稀更を見つめて真剣な顔をしたら、
「あくまでも私の場合はだよ?って前置きして言ったの。『旦那のニオイが堪らなく嫌だったからそっとしておいて欲しかった。自分から極力離れていて欲しいって思ってた』って」
言ってから、「ごめんね。もっと別の言い方をすれば良かったって反省してる」と稀更が頭を下げてきた。
先程も、稀更から「ごめんなさい」とその事で謝られたのを思い出した美千花だ。
フルフルと首を横に振って、「私と律顕に会話が足りていなかったのが全ての元凶です」と、ずっと心の奥底に引っかかっていた事を告白した。
実際、今稀更が告げた言葉はあながち間違ってはいない。
寧ろ、美千花自身が律顕に対して抱いていた不満とピッタリ合致しているくらいだ。
ただ、問題があるとすれば――。
「私からちゃんと言えていたら……つわりが収まるまでの間だから、申し訳ないけどワガママを許してね?って付け加えられていたと思います」
そこがなかったから……きっとこんなにも拗れてしまったんだと思う。
***
「――ごめん、美千花。それは僕のせいでもある」
そんな言葉と共に突然カーテンが開けられて、黒のボストンバッグを手にした律顕が入ってきて。
「律、顕……」
稀更にばかり気を取られていた美千花は、予期せぬ夫の登場に心底驚いてしまった。
***
「律……」
律顕が顔を出したと同時、途中からは努めて〝永田君〟と呼ぶようにしていたらしい稀更が、思わず漏らしてしまったみたいに彼の呼称を揺らした。
だがその途端律顕が低めた声音で「西園、呼び方」と稀更を諌める。
「あ、……ごめんなさい、つい」
その声に、稀更がハッとしたように居住まいを正して即座に謝って。
美千花は律顕のこんな突き放す様な喋り方を聞いたことがなくて、思わず瞳を見開いた。
自分がどんなに邪険に扱っても、律顕の声は寂しげにトーンダウンする事こそあれ、基本柔らかく穏やかだったから。
「――あの、子供達のお迎えもあるし、私、そろそろ帰るね」
律顕の毅然とした態度に気圧されたのは美千花だけではなかったのかも知れない。
スッと立ち上がった稀更が、ソワソワと暇乞いを申し出て。
そこでふと思い出したみたいに美千花の耳元に唇を寄せると、律顕には聞こえないぐらいの小声で付け足した。
「私が離婚した原因は、二人で話し合うべき事を色々放置してしまった結果なの。永田君も貴女も……お互い言うべきことを言えてなくてまるで私達を見てるみたいで……つい口出ししたくなっちゃった。ね、お願いだから……どうか貴女は間違えないで? でないと私――貴女を私みたいに夫を寝取られた不幸な女にしたくなっちゃう」
「えっ」
その言葉に思わず声を上げた美千花に、稀更がどこか悲しそうな笑顔を向けて。
今度は律顕にも聞こえるくらい声のトーンを上げて言い放った。
「大丈夫。二人はまだ間に合うから。ちゃんと話し合って、悪い奴らに付け入る隙を与えないで? 自覚してないだろうけど二人とも異性からの人気、高いんだからね?」
まるで自分自身に言い聞かせるみたいに発せられた言葉とその表情に、美千花は勘違いなんかじゃなく、稀更は夫の事が好きなのかも?と思ってしまった。
ニコッと微笑んで「じゃあね」と手を振って去っていく稀更に、律顕が「隙なんか作らねぇし、与えさせるつもりもねぇよ」とつぶやいて。
その、いつもとは少し雰囲気の違う口調と凛とした横顔に、美千花は改めて〝この男の事が好きだ〟と実感させられた。
***
「すまない、美千花。嫌な思いしなかった?」
稀更の気持ちに勘付いて、我知らずキュッと身体をすくませていた美千花に、律顕がいつも通り表情を和らげて優しく問いかけてから、床頭台の上に持っていた荷物を置いた。
美千花がコクリと頷くのを見てホッとしたように「良かった」とつぶやいてから、
「下着とかよく分からなかったから適当に詰めてきたけど……気に入らなかったらごめん。それと……準備する為に君の引き出しを勝手に開けさせてもらったよ?」
と眉根を寄せる。
確かに下着類を律顕に見られたと思うと少し恥ずかしかった美千花だけれど、夫婦だからそんなの構わないはずだ。
それに、何より今は緊急事態。
なのにわざわざそんな事を気にして謝ってくれる律顕が、普段から如何に自分に配慮してくれているのかを垣間見た気がして。
「もぉ、そんなの気にしなくていいのに。――ううん。それより寧ろ私の為に準備して来てくれて本当に有難う」
思えば、自分だって以前はもっと律顕に気を遣っていた気がする。
なのに、いつの間にこんなにも何も言わなくても分かってくれるだなんて、彼の優しさに胡座をかいてしまっていたんだろう。
「――律顕。何の説明もなく貴方の事を邪険にしてしまっていてごめんなさい。実は私……」
「つわりでしんどかったんだろう? 僕の方こそ美千花の気持ちも考えないで自分の気持ちを押し付けようとしてたよね。本当にすまない」
思えば、稀更と喫茶店で話したと言うあの日からだ。
あんなに美千花に歩み寄ろうとしていた律顕が、不自然なくらい美千花から距離を取るようになったのは。
「ね、律顕。私から逃げてたのって」
「……僕のにおいがダメになったんじゃないかって西園に言われて……。君に嫌われたくない一心でにおいが届かないくらい離れなきゃって思ってしまったんだ。……本当は美千花自身に聞いてから判断すべきだったのに怖くてそれを怠った。だから……言いたい事を言い合えなかったのは君だけの責任じゃない。いや、寧ろ話す機会を潰しまくった僕の方が罪深いと思う」
律顕と話し合いたくて距離を詰めようとするたび、彼が不自然なくらい明白に自分から逃げていたのはそう言う事だったんだと今更のように気付いた美千花だ。
「あの、もしかして私がマスクして待ってた日も……」
「……配慮が足りなくてごめんね、美千花。あれって家でもマスクしなきゃいけない程に僕のにおいがしんどくなってたって事だろ? それじゃなくても美千花は色々しんどそうなのに僕のせいで無理させて本当申し訳ないって思ってる。なのにどんなに外で時間を潰していても……どうしても君の顔を見に家に帰るのだけはやめられなかったんだ。――外で寝泊まりするとか……そんな事もしてあげられない様な中途半端な男でホントごめん。君が辛いならもっともっと風呂に入る頻度も上げる……。だから……えっと、一つ屋根の下にいるのだけはどうか許して欲しいんだ」
「ちっ、違っ!」
流れるように滔々と言い募る律顕の暴走を止める為に思わず声を荒げたら、律顕がびっくりしたみたいに「……え?」とつぶやいて言葉を止めた。
あの日だけじゃなくて他の日も。
美千花は律顕に歩み寄りたくてアレコレ頑張っていたのに……。
律顕は律顕で美千花に嫌な思いをさせない事ばかりに気を取られて、必死に距離をあけようとしていたんだと気付いたら、「愛想を尽かされたに違いない」と落ち込んで距離を詰められなかった自分にほとほと嫌気がさした美千花だ。
「私、今みたいに律顕と腹を割って話し合いたかっただけなの。あの時は確かにまだにおいに敏感だったから……マスクで緩和しようとして貴方に変な誤解を与えてしまったけれど。……私こそ配慮が足りてなかったね。本当ごめんなさい」
ただ単にちゃんと向き合って、思っている事を洗いざらい話したかっただけなのだ。
「……嘘だろ」
「嘘じゃないよ?」
「今日の健診も……私、本当は一緒に来て欲しかったの。診察待ちの時とか行き帰りの車の中とか……ちょっとでも律顕と話せたらいいなって思ってたのに……」
仕事だと嘘を吐いて、律顕は今日一日どこで何をしていたんだろう?
忘れかけていた疑念が沸々と蘇ってきて、美千花はにわかに怖くなった。
稀更とどうこう言う事はなかったのかも知れないけれど、去り際の彼女の言葉を思うと、別に女性がいた可能性だって否定出来ないと思ってしまった美千花だ。
「律顕、今日は一日何をしていたの? 私が受け入れられない事って……何? お願い、答えて?」
さっき同じ問いを投げかけた時、律顕は明らかに動揺して誤魔化した。
それを思ったらキューッと胃が痛くなって、美千花は思わずお腹を押さえて眉根を寄せる。
「美千花っ」
その様子に目ざとく気付いた律顕が、美千花に手を伸ばそうとして。すぐ思いとどまった様にその手を宙空で彷徨わせた。
美千花は中途半端に伸ばされたままの律顕の手を震える手で握ると、そっと自分の方へ引き寄せる。
「律顕、私ね、もうつわり、殆ど落ち着いてる、の」
痛みに耐えながら。
ニオイに対して前程過剰反応はしなくなっているのだと言外に含ませたら、律顕が肩の力を抜いたのが分かった。
美千花に手を握らせたまま、稀更が腰掛けていたパイプ椅子に座った律顕が、妻の反応を窺い見ながらもほんの少し椅子の位置をズラして美千花の方へ近付いて。
「お腹痛い? ナースコールする?」
優しく言って、美千花の枕元のボタンに視線を向ける。
さっきまでは、その存在を認知していないみたいに、それでスタッフを呼ぶ事を拒んでいた律顕なのに。
あれも、自分に近付かない様にする為の一環だったんだと今更の様に気付かされた美千花だ。
「つわりは治ってきたのにストレスかな。余り胃腸の調子が良くないの。ちょっと心配事があったら今みたいにキュゥッと差し込んで辛くって。だから食事も余り摂れてなくてこんな情けない事になっちゃった。ごめんね」
ついさっきまでは、認めたら終わりだと思っていた胃痛だったけれど、今はその事を律顕に話して弱音を吐いてもいいと思えた。
「こっちこそごめん。僕のちっぽけで情けない矜持もきっと、君を苦しめる原因になってるよね」
言いながら律顕が躊躇なくナースコールを押すと、すぐさま美千花の枕元から「永田さぁ〜ん、どうなさいましたか?」と看護士の声がした。
「妻が胃痛を訴えて辛そうにしています」
律顕が答えて、「すぐ行きます」と声が返った。
「処置が済んだら、僕が今日一日会社を休んで何をしていたか、ちゃんと話すよ」
律顕が躊躇いがちに美千花の頭をそっと撫でて。
美千花は久々に感じる夫の手の感触を心地良いと思いながら、コクッと頷いて目を閉じた。
***
「――永田さん、お腹痛いって?」
丁度タイミングが合ったのだろうか。
結局病室にやって来たのは看護士ではなく、ナースを伴った伊藤医師だった。
「先生……わざわざすみません」
胃が差し込むと言っても我慢出来ない程ではないのに、忙しい主治医の手を煩わせてしまった。
そう感じた美千花がしゅんとして謝ったら、「患者が医者に気を遣うものじゃない」と諫められた。
「つわりも落ち着いてきたって話だったのに固形物が喉を通らないのは、そういう遠慮がちで気にしぃな性格のせいかな?」
何故かそこでチラリと律顕の方を見た伊藤から、「今日だってたまたまご主人と一緒だったから良かったようなものの。倒れた時に頭とか打ってたら大事だったよ?」と言われて。
美千花は「え?」とつぶやいて伊藤と律顕を見比べた。
今日律顕は健診にだって一緒に来てはくれなくて、美千花はずっと一人だったはずだ。
処置が済んだらその事について話してもらえる約束になっていて。
なのに――。
「主人が……一緒?」
疑問符満載でポツンとつぶやいたら、「救急車にも付き添っていらしてたでしょう? もしかして倒れる前後の記憶が飛んでる?」と伊藤に心配そうに眉根を寄せられた。
「頭は打ってないって事だったけど」
そこでカルテと律顕を交互に見つめた伊藤に、「はい、倒れる直前に僕が抱き止めたので」と律顕が返して。
美千花は益々混乱するばかりだ。
確かに倒れる間際、誰かが近付いてくる気配がして。美千花自身も赤ちゃんを守りたい一心で必死に手を伸ばした覚えがあるけれど……もしかしてあれが律顕だったと言うのだろうか?
「とりあえず我慢出来そうにないなら痛み止めも使えるけど」
伊藤の申し出に、美千花はフルフルと首を横に振った。
耐えられない程ではない。
それに、美千花のこれはきっと精神的なものだから。
律顕ともっとちゃんと話して、もしも今抱えている不安が全て取り除けたならば、自然に回復していけると思う。
お腹の赤ちゃんの事を考えると、なるべく薬は使いたくない美千花だ。
「分かった。でも、もし耐えられないぐらいしんどくなったら遠慮なく言ってね? いい?」
「はい」
美千花がしっかりと頷くのを確認してから、伊藤らは病室を出て行った。