阿部亮平の「対・佐久間」三連敗から、数週間が経った。
もう阿部が何かを仕掛けてくることはなくなり、楽屋には以前と変わらない、平和で賑やかな日常が戻っていた。
むしろ、あの一件以来、二人の距離は前よりも少しだけ近くなったような気さえする。
その日は、一日中テレビ局に缶詰めで、いくつもの収録をこなすハードなスケジュールだった。
最後の収録が終わり、楽屋に戻ってきたメンバーは、皆ぐったりとソファや床に沈み込んでいる。
「は〜…疲れた…。もう俺、一歩も動けん…」
佐久間も、ソファの隅で完全にエネルギーが切れたように、ぐったりと凭れかかっていた。
そんな中、一人だけまだシャキッとしていた阿部は、メンバーたち一人ひとりに「お疲れ様。これどうぞ」と、自販機で買ってきたスポーツドリンクを配って回っていた。
「はい、佐久間もお疲れ」
最後に佐久間の隣に座り、ペットボトルを手渡す。
佐久間は「ん…ありがと…」と、それを受け取る手もどこか億劫そうだ。
「阿部ちゃん元気だねぇ…」
「まあね。今日は、クイズで正解しまくって、脳が活性化してるからかな」
なんてことない、いつもの会話。
阿部は、隣でぐったりしている佐久間を見ながら、ふと、今日の収録のことを思い出していた。
今日の佐久間は、すごかった。
ダンスの収録では、誰よりもキレのある動きで現場を圧倒し、トーク番組では、その天真爛漫さでスタジオを何度も爆笑の渦に巻き込んでいた。疲れているはずなのに、カメラが回った瞬間に放つエネルギーは、まさにプロフェッショナルそのものだった。
(…すごいよな、佐久間は。
いつも全力で、周りを照らして。
僕には、到底真似できない…)
尊敬と、愛しさが、自然と胸に込み上げてくる。
阿部は、そんなことをぼんやりと考えながら、ほとんど無意識に、口を開いていた。
「…あーあ」
「ん?」
「早く、佐久間と結婚したいなぁ…」
それは、今まで彼が計画してきたどんな言葉よりも、シンプルで、飾り気のない、心の底からポロリとこぼれ落ちた、ただの「本音」だった。
しん。
その瞬間、あれだけ賑やかだった楽屋の全ての音が、消えた。
近くで話していた渡辺と深澤が固まり、ストレッチをしていた岩本と宮舘の動きが止まり、スマホを見ていたラウールと目黒と向井が、一斉に顔を上げた。
阿部自身も、「え?」と自分の言った言葉の意味を数秒遅れて理解し、さっと血の気が引いていく。
(…い、今、僕、なんて…!?)
しかし、一番の変化は、阿部の隣で起きていた。
「……………え」
今までぐったりしていた佐久間が、まるで雷に打たれたかのように、ぴしりと固まっている。
そして、次の瞬間。
じわ……っ。
その白い頬が、耳が、首筋が、今まで阿部が見たどんな時よりも、ありえないくらい、真っ赤に、真っ赤に、染まっていったのだ。
いつもは饒舌なその口は、金魚のようにぱくぱくと動くだけで、一つの音も発することができない。大きく見開かれた瞳は、信じられない、という色に揺れている。
「あ、あ、あ、あべ、ちゃん…いま、な、なんて…」
ようやく絞り出した声は、完全に裏返っていた。
今まで、どんな言葉も「俺の勝ち!」と笑顔で返してきた男が、初めて見せた、完璧なまでの「思考停止」。
それは、阿部が三度にわたって夢見た、「完敗」の姿、そのものだった。
「…あ、いや、違う、今の、は…!」
阿部も、自分の失言に気づき、慌てて取り繕おうとする。
しかし、時すでに遅し。
「…ひゅーひゅーだよ、阿部ちゃん!」
「公開プロポーズ、いただきましたー!」
「録音しとけばよかったー!」
我に返ったメンバーたちからの、盛大な囃し立てが、楽屋に響き渡る。
阿部は、羞恥心で顔を真っ赤にしながら、頭を抱えた。
あんなに緻密な作戦を練っても敵わなかった相手に、勝利をもたらしたのは、計算も、計画も、何もない、ただの無意識の一言だったなんて。
隣では、佐久間が未だにショートしたまま、「け、けっこん…」と呟きながら、顔から湯気が出そうなほど赤くなっている。
(…もう、どっちの勝ちとか、どうでもいいか)
阿部は、そんな佐久間の姿をこっそり盗み見て、結局、幸せそうに笑ってしまうのだった。