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#お仕事
#秘密
窓の外を見れば、いつも通りの灰色のブロック塀が夕闇に沈んでいる。逃げ場はない。
ここから、窓を突き破って派手に飛び降りる自分を想像してみる。
黒いジャージに安物のヘルメット、そして骨董品のようなマシンガン。
まるで低予算のB級アクション映画だ。
観客はいないし、エンドロールも流れないだろう。
結局、私は正攻法を選んだ。玄関から出る。
鍵を二重にかけ、使い古されたドアノブを回す。
廊下に出た途端、世界の位相が書き換えられた。
乾いた銃声が、物理的な衝撃となって鼓膜を叩く。
「ピアノ可」という条件にこだわってこの物件を選んだのは、人生最良の選択だった。
この分厚い防音壁は、外で吹き荒れる戦火から、私の平和なマッシュポテトを完璧に守り抜いていたのだ。
路上に出ると、あちこちに設置された即席のバリケードから、火花と悲鳴が散っていた。
不思議なことに、死への恐怖と共に、奇妙なほど冴え渡った観察眼が働いていた。
物語が進まない。
銃声ばかりが景気よく響いているが、誰も前進しようとしない。
誰もが自分の役割を演じることに精一杯で、この停滞した状況を打破しようとする意志が欠落している。
あるいは、MIKASAが設定した「演目」の時間がまだ終わっていないだけなのか。
私は意を決し、激しい火線を潜り抜けてバリケードの陰に滑り込んだ。
次の瞬間、つい先ほどまで私の頭があった場所のコンクリートが、高精度スナイパーの弾丸を浴びて弾け飛んだ。
明確に、私はこの世界の不純物として狙われている。
ふと、数メートル先の別の遮蔽物に、激しく蠢く不自然な人影を見つけた。
蛍光ピンクの安っぽいジャージに、黄色い「安全第一」のステッカーが貼られた工事用ヘルメット。
「まさか、HAL……?」
声に出すまでもなかった。
こんな極限状態において、これほどまでに色彩の暴力的な不調和を平然と纏える人間は、この広い世界に一人しかいない。
「HAL!」
叫んだが、彼女は振り返らない。
彼女までの距離はおよそ七メートル。
私は肺が潰れるほど深く呼吸をし、イングラムを構えた。
牽制のために、闇雲に引き金を引く。
手首に伝わる暴力的な反動。
制御しきれない銃口が空を仰ぎ、不毛な鉛の弾を夕闇へばら撒く。
私は駆け出した。
あと一歩というところで足がもつれ、アスファルトの上を無様に転がりながら、HALの背後に滑り込む。
「HAL、お待たせ」
「別に待ってないけど」
期待通りの、起伏のない冷ややかな声だった。
「よかったね。今の、調子に乗って走ってたら三回は死んでたよ。あのスナイパー、最初の一発はわざと外して、絶望するターゲットの顔を見るのが趣味んだ。悪趣味だよね」
HALは、明日の降水確率でも予報するような淡々とした口ぶりで言った。
「詳しいのね」
「そりゃあ、ここに来るのは今日で三回目だからね。ルートは覚えた。敵の配置も、弾道計算のクセも」
その言葉が、私の足元を氷のように冷やした。
三回目?
ここは現実ではないのか。
それとも、私は終わりのないループの渦中にいるのか。
あるいは、MIKASAが見せている高度な神経接続型の幻覚なのか。
私のマッシュポテトの滑らかさも、木綿豆腐の確かな手応えも、すべては計算されたデータに過ぎないのか。
「ここをクリアすれば、あのビルの屋上に行ける。でも私は一階までしか行ったことがない。階段がいつも崩落してるんだ。物理演算が追いついてないのか、それとも『そこから先』が未実装なのか」
HALが顎でしゃくった先には、雲を突くような威圧的な高層ビルが、夕闇の中にそびえ立っていた。
あの頂上に、MIKASAの心臓があるのだろうか。
「ねえ、死ぬときって……痛いの?」
私は、自分でも驚くほど子供じみた質問を口にしていた。
「大丈夫。このエリアは『即死モード』設定だから。痛みを感じる神経が脳に信号を送る前に、全データが消去される。暗転するだけだよ」
その言葉に、私は奇妙な、それでいて絶望的な救済を感じた。
痛みがないのなら、それは眠りとどう違うのだろうか。
あるいは、失敗した料理をゴミ箱へ捨てるのと、何が違うのだろうか。
ふと、気が緩んだ瞬間だった。
私の頭が、バリケードの端からわずか数センチ、はみ出していたらしい。
乾いた音がした。
けれど、弾丸が肉を穿(うが)つ衝撃も、焼けるような熱さも、断末魔の音も聞こえなかった。
視界が、露出オーバーの写真のように真っ白に反転していく。
HALのピンクのジャージが、溶けるように、あるいは画素が崩れるように消えていく。
――その時、懐かしい音が聞こえた。
スマートフォンが、あの鋭く不快な警告音を鳴らし始めたのだ。
私はハッとして顔を上げた。
そこは、見慣れた私のキッチンだった。
手には使い慣れたドイツ製のポテトマッシャーがあり、目の前には、まだ温かい湯気を立てるボウルがある。
スマートフォンの画面には、『攫われました』というテロップが、変わらず無機質に表示されていた。
夢だったのか。それとも、これから始まることの予行演習だったのか。
あるいは、今立っているこのキッチンこそが、死の直前に見ている走馬灯の、解像度の高い欠片に過ぎないのか。
「やれやれ」
私は小さく、誰にも届かない溜息を吐き、ボウルを抱えて冷蔵庫へと向かった。
その中にある、冷たい鋼鉄の感触を確かめるために。
あるいは、ただそこにあるはずの木綿豆腐の、確かな「硬さ」を確認するために。
日常と非日常の境界線は、すでにマッシュされたポテトのようにどろどろに溶け出している。
私はその曖昧な世界の中で、今日もただ、自分をこの現実に繋ぎ止めるために、ジャガイモを潰し続ける。
スマートフォンの警告音は、もう止んでいた。
代わりに、遠くの「防音壁」の向こう側から、かすかな銃声が聞こえ始めた。
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