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アイスダンス、それは通称氷の上の社交ダンスと呼ばれる競技の一つ。ジャンプが禁止されたその競技において勝敗を分けるのは、寸分の狂いも無く行われる精密なスケーティングと華麗なリフトである。例えペアの片方が優れていても、もう片方がその実力に見合っていなければ演技としては成立しない。ある意味残酷なまでの実力が左右する競技でもあるのだ。
日本国内においてこのアイスダンスの競技人口や知名度はそれ程高くなかった、ほんの数年前までは。突如として現れた天才達によってアイスダンスの長きに渡る歴史は転換点を迎えたのだ。彼らの名は、夜鷹純と明浦路司。対象的な彼らの名前から通常ペアを表す際は下の名前を文字った呼び名で呼ばれる事が多い中彼らはこう呼ばれた、“夜明”と。
事その中でも衆人観衆の目を惹いたのは夜鷹純であった。ミリ単位で調整されるスケーティングと大胆な振付をものともしない強靭な体幹。まるで氷の上には重力など存在しないとでも言いたげな彼のスケートは近年高難易度のジャンプが横行し人気を高めつつあるシングルのファン達までをも魅了した。そして何より彼らの知名度を上げた要因はその戦績にあるだろう。彼らは負けなかったのだ、一度たりとも。
彗星の如くアイスダンス界に現れてからというもの彼らは金色以外のメダルをその首に掛ける事は無かった。初めは有望な選手が出て来たことに歓喜していた周囲も、次第に彼らの異常さを理解するにつれその顔を青ざめた。何だあれは、何なんだアイツらは、日本中が世界中が彼らの圧倒的な才能に畏怖した。
そうして、アイスダンス界では最早悲願ともいわれたオリンピックの舞台で彼らはその頂に立った。正にアイスダンス界の歴史が変わったと共に彼らが伝説となった瞬間でもあった。きっと彼らの伝説はこれからも続いていくのだろう、これからも美しい手本のようなスケーティングを周囲に知らしめてくれるのだろう。何せ彼らはまだまだ若いのだから。そう期待に胸を膨らませ続けていた周囲を裏切るようにオリンピックの熱が醒めやらない中とある一報が日本中、いや世界中を駆け巡った。
『明浦路司選手、引退』
夜鷹純の唯一の相棒として長年アイスダンスに従事していた男の突然の引退に世界中は悲しんだ。しかしこれを好機と捉える者もまた数多く居た。何せあの夜鷹純の相棒になれるかもしれないチャンスが自分にも巡って来たのだから。もしかすると自分もあの舞台に立てるかもしれない、あの美しき天才と肩を並べて踊ることが出来るかもしれない。しかし、そんな夢物語をあっさりともう一方の男が打ち砕いた。
『夜鷹純選手、シングルへ転向』
アイスダンス界は再び絶望に包まれた。艶美な夢を見せたくせに、当の本人はあっさりとそれを真っ向から否定したのだから。この競技を捨てるのかと憤慨した者も一部いたが、しかし周囲はそれよりも安堵した。あぁこの男のスケートをまだ観れるのならばそれでも良いと。しかし当初はジャンプ経験のないアイスダンス出身の彼が何処まで活躍できるのかと冷笑を浮かべるものもいたのだ。その予想は初めて彼が大会に出場し、其処であっさりと今までと同じ色のメダルを獲得したことで一掃されたのだけれど。夜鷹純は何処までも天才だった。この歳になってジャンプを始めたなんて事実は、シングル経験者からすれば正に悪夢のようだった。何せ彼は、初めての大会で4回転ルッツを引っ提げて優勝したのだから。
そうして夜鷹はまるでそれが定められた道筋であるとでも言うように、数多の大会で金メダルを獲り続けた。何時しかアイスダンスとしての彼よりもシングルとしての彼の方が有名になっていた。中にはこの様な才能を長年燻らせていたなど何と勿体無い事をしていたのか、なんて戯言まで唱え出す者もいた。それでも彼は、そんな戯言にさえ一瞥もくれず世界の高みへと昇り続け、そうして彼にとっては二回目となるオリンピックで最後の金メダルを獲得し、引退した。
これがスケート界の歴史に今でも燦然と輝く天才、夜鷹純の話だ。
夜鷹には相棒と呼べるものがかつて二つあった。一つは己の大事なスケート靴、そしてもう一つは太陽のようなあの男。
彼と出会ったのは氷の上だった。そのスケーティングに目を奪われてずっと隣でそれを見ていたいと恋い願ったから、夜鷹はそれが叶うアイスダンスの道に彼諸共飛び込んだ。本当は彼はシングルに行きたかったのかもしれないし、彼と鎬を削り合う日々もそれはそれで心惹かれたけれども、それでも彼と一緒なら何処までも遠くへ行ける予感がしたから片時も離れない競技を選んだ。其処に果たして彼自身の意思はあったのかと問われれば、まぁ正直何とも言えない。かなり強引に彼を誘った自覚はあるので。
それでも彼はやはり夜鷹が見込んだ通りの男だった。彼と滑っている時はまるで自分と彼が一つになったかのような、自分がもう一人増えたかのような、そんな不思議な心地になった。しかし彼は何故か兎角夜鷹を主軸にしたがった。どんな振付もリフトもあくまでも夜鷹が主役になるように態と己の存在を抑え、まるで自分が照らすことで夜鷹の影をより濃くしようと努めているようだった。それは自分達の師である高峰に言わせれば行き過ぎたまでの献身であったけれど、スケートしか見えていない愚かな子供であった当時の自分は気づかなかったのだ。自分達の功績は大袈裟なほどに国内外で囃し立てられるようになった。しかし夜鷹を中心としたアイスダンスを目撃した彼らが褒めるのは何時だって彼ではなく夜鷹で、その度に此奴等は何を見ていたのかと憤慨したが、それでも傍の彼が実に満足そうに微笑んでいたものだから渋々その怒りを収めていた。
彼に対する侮辱も見た、それでも彼は笑って何でもないと流していた。次第にスポンサーも付くようになったがその話が来るのは決まって夜鷹だけだった、それでも彼はまるで自分の事のようにそれを喜んで渋る夜鷹の背を押した。
何処で間違えたのだろうなんて考えたって心当たりは幾つもある。今でも夜鷹は思う、もしあの時彼の真意に気づいていれば。もしあの瞬間彼を引き留めていれば。彼は自分を置いて引退なんてしなかったのではないか。
全てはもう過去と成り果てて、遅いのだけれど。
階段から落ちた子供を受け止めた際に頭でも打ったのかと思った。いやまぁ実際に打ってはいるのだけれど。それでも目の前で伸びている男が、あの時と変わらぬ金色が、どうしても現実だと信じられなかった。暫くして漸く目を醒ました男は何やら夜鷹が助けた少女と言葉を交わして、そうしてやっと此方を見てその目を見開いた。
「純さん」
「……久しぶり、司」
「本当に?いや、ハハ……驚いたな」
「それはこっちの台詞だよ」
元気だったか、なんて陳腐な台詞さえ出て来ない。選手を引退してから夜鷹と接触を完全に絶っていた男が何故この会場にいるのか。もしかしてまたスケートをする気になったのか。そう夜鷹の心が浮き上がった瞬間、傍の少女の言葉でそれは一気に砕け散った。
「司先生、もしかしてこの人夜鷹純……ですか?」
「うん、そうだよ」
「……先生?君が?」
「えぇ、今はこの子のコーチをしています」
「………君は何級なの」
「えっと、初級です……でも私!何時か光ちゃんにも勝てるような選手になります!」
何で、お前がこんな子供の指導をしている。自分とのスケートを捨ててまで選んだものが、こんな子供なのか?夜鷹の胸中に渦巻く何処までも深く焦がすような焦燥と怒りが次第に膨れ上がっていくのが分かる。僕が、どんな気持ちでお前が再び氷の上に戻って来るのではないかと期待していたと思っている。もしかしたら、自分のスケートを見ればまたこの世界に興味を持ってくれるかもしれないなんてそんなくだらない希望を抱いて、結局現れなかった君に絶望した僕の気持ちが、お前に分かるか。
「一生かけようが君が光に勝てる事はないよ、君は何も知らな過ぎる」
言い過ぎたなんて思わない。見た所光と同じような歳にも関わらず、未だ初級という彼女が目指すにはそれは高すぎる目標だ。現実を見て希望と夢を抱いて傷付くのはこの子供なのだから。それでも、沈黙した少女に変わって傍の男の声が場を切り裂いた。
「撤回して下さい」
「何故?君は知っている筈だ」
「えぇそうですね、でも俺はこの子を信じている」
「……僕は狼嵜光のコーチだ、“明浦路司”が僕に勝つつもり?」
「はい、俺は自分の『一生』を使ってこの子を勝利まで導きます、もう貴方に未来は決められない」
「君の『一生』は僕のものじゃなかったの」
「選手としての俺の『一生』は貴方に捧げましたよ、これはコーチとしての俺の『一生』です」
俺の分の人生を賭けて貴方を導くから、だから信じて。そう遠い昔に司から告げられた言葉が脳裏に過ぎる。きっと彼はその言葉通り全ての競技人生を夜鷹純の為に捧げた。でも夜鷹はそんな事望んでなんかいなかったのに。ただ二人で何時までも遠く高くへ滑っていられたらそれで、良かったのに。
「……好きにしなよ」
あんなに近くにいたのに、氷の上では互いの考える事が手に取るように分かったのに、こんな地上では何一つ分からない。何で僕を捨てたの、そんな簡単な疑問が夜鷹は何時まで経っても司に聞けないでいる。答えを知るのが怖くて、恐ろしくて、知りたいのに聞きたくない。僕は何時まで経っても君に捕らわれているのに、君はもう僕なんて忘れてつまらない子供と共に前を向いている。あぁ、何て酷い男なのだろうか。
夜鷹はふらつく足取りでその場を後にした。もうこれ以上彼を見たくなくて、彼の視線が背中に突き刺さるが無視した。やってみろ、どうせ勝つのは光だ。無駄な足掻きをして絶望して、そうしてさっさとコーチなんて辞めて再び氷の上に戻って来れば良いのだ。
明浦路司にとって夜鷹純は全てだった。自分に才能を見出し世界の舞台まで連れて行ってくれた敬愛すべきスケート選手で、憧れの人で、大事なパートナーである。司にとって自分のスケートは夜鷹を引き立てるための物であったし、事実そうあるべきだとも思っていた。ひたすらに彼の邪魔をしないようにスケーティングを磨き、彼の演技を霞ませないようにシンクロするように彼の癖一つに至るまで観察して身体に落とし込んだ。コーチである匠からはもっと自我を出せと時には怒られたけれど、それでも司にとっては自分の活躍よりも夜鷹が目立つことが第一であったので心の中で侘びながらも彼のスケートに従事する事は辞めなかった。夜鷹のお陰で司は本来なら自分が見ることもなかった筈の頂の景色を何度も見た。彼の隣に並び立つのは内心恐れ多かったけれども、それでも彼のパートナーとして情けない真似なんて出来ないので堂々と胸を張っている振りをした。演技は得意だったので。
自分が、夜鷹のパートナーとして実力不足だと巷で言われているのは知っていた。実際に夜鷹にも、もっと他のパートナーと組んでより高みを目指すべきではないのかとそれとなく伝えた事はあるが、珍しく激怒した彼によってその話は二度と二人の間で交わされる事はなかった。まるで光が影を濃くするように、夜鷹の活躍が広まるにつれ司に対する誹謗も段々と多くなっていた。結果が良ければ夜鷹のお陰と言われ、調子が悪ければやはり司では実力不足なのだと言われる。それは仕方がない、事実なのだから。でも万が一にもそれが夜鷹の目に止まれば、案外優しい彼はきっと傷ついてしまうだろうから必死で隠した。まぁ一部は漏れてしまっていただろうけれども。
一番困ったのはスポンサーだった。知名度が高くルックスも良く人気もある夜鷹には自然とスポンサー契約が向こうからやってきていたが、何かと夜鷹の相方として厳しい目を向けられがちな司には中々スポンサーが付かなかった。二人で、と持って来られた案件も暫くするとやはり出来れば夜鷹選手だけでとなるのだから、実家からの支援を受けられない司にとっては死活問題であった。
司にはお金が無かった。有名な相方を持ち、数多の大会で優勝もしているのだからそんな事はなかろうと言われるかもしれないが、稼いだ分だけ出ていくのがスケートである。司は優勝経験が二桁に登った後でもアルバイトを続けながらスケート選手をしていたし、何時だって活動資金の為に生活を切り詰めていた。活躍すればスポンサーが付くからという情報を当てに頑張ってはいたが、それでも二足の草鞋を履き続ける生活は確かに司の心身を蝕み続けていたのだ。それでも念願のオリンピックで金メダルを獲った後はこれでどうにかなるだろうと思っていた。まぁ現実というのはそう甘く無かったのだけれど。
確かに多くのテレビに呼ばれた、日本初のアイスダンスでの金メダルというニュースは全国に知れ渡った。それでもテレビで話を振られるのは毎回夜鷹で、雑誌のインタビューを受けるのも何時しか夜鷹単体になって、そのパートナーである司の存在は希薄になっていった。これが意図されたものなのかは知らない。でも、圧倒的な存在感を放つ夜鷹を引き立てたくなる気持ちは司にだって分かる。結局オリンピック後も新たにスポンサーになりたいという申し出は来なくて、司は漸く悟ったのだ。
もう潮時だな、と。
夜鷹に頼るという選択肢も浮かばなかった訳ではない。それでも、ただでさえ自分のような者が夜鷹のパートナーにしてもらえているのにこれでお金まで要求してみろ。バッシング所ではないしそもそも司が夜鷹に顔向けできない。自分でもつまらないプライドだという自覚はある。それでも、もう自分は十分夢を見させてもらえたのだし、そろそろもっと自分よりも相応しいパートナーに道を譲るべきだとも思っていた。だから、明浦路司はひっそりと自身の引退を告げた。
引退した直後は予想外に多くの人々から惜しむ声が上がって、ニュースでも報道されて自分でも不謹慎だけれど少し嬉しかった。まるで自分の存在を肯定してくれていた人が確かにいたような気がして。それでもそのニュースも夜鷹のシングル転向というより衝撃的なニュースによって一瞬で忘れ去られたのだけれども。
時折、偶然仲良くなったというシングルの鴗鳥慎一郎選手とジャンプの真似事をしていたのは知っていた。事も無く3回転ルッツを跳んで見せた彼を見た時には流石の司も背筋に冷たいものが走った。その頃はシングルに夜鷹が取られてしまうのではないかと戦々恐々としていたが、今となってみればやはりな、という気持ちが大きい。何せジャンプの練習をしている時の彼は珍しくとても楽しそうだったので。本当はもっと早くにシングルに行きたかったのだろうか、だとしたら悪い事をしたなと再び罪悪感がチクリと胸を刺した。
当然だが、司がいなくても彼は相変わらず天才だった。シングルにおいても金メダルを獲得し続けそうしてアイスダンスの夜鷹純は何時しかシングル絶対王者の夜鷹純となった。もう誰もアイスダンス時代の彼の話をしなくなった頃、彼は二度目のオリンピックで再び金色のメダルをその首に掲げ、そうして引退した。
もう彼の人生には明浦路司なんて存在していないのかもしれない。自分がいなくたってあの人は何処までも遠くへ行けるし大丈夫なんだと、それに安心した筈なのに何故か目から涙が溢れた。
「……まぁそんな感じで引退しましたね」
コーチ陣の飲み会で酔っ払った千羽が何気なく振った司の引退話は、何処か浮かれた周囲を現実に引き戻すには十分な重さを伴っていた。語り終えた司がぐいっとジョッキを煽る様を見ながら一体誰から話を切り出したものかと思わず周囲に視線を巡らせるも、誰も一様に関わりたくないとでも言いたげにサッと視線を逸らす。暫くして年上としての責任感からだろうか、現役時代の彼らを知る者としてだろうか、五里と鴗鳥が重々しい口を渋々といった様子で開いた。
「それ、結局夜鷹には伝えてないんだよな?」
「え?そりゃあまぁ、はい」
「お前ら最悪にすれ違ってんなぁ……」
「えっ、何のことですか」
「実際の所夜鷹はどうだったんだよ?慎一郎」
「……………」
「あっ駄目だ、目が死んでやがる」
遂に頭を抱えた鴗鳥に大丈夫ですかなんて慌てているこの男は、自分が元凶であるという自覚はないのだろう。現役時代に二人を散々見てきた我々からすれば正に“此奴は何を言っているんだ?“の一言に尽きる。というかお前らあれだけスケートでは以心伝心の癖して何故こうもすれ違うのだ。スケートだけでコミュニケーションを取って大事な場面で言葉を尽くさないからこんな事になるんだろうが。
などと幾ら脳内で文句を言った所で今更どうこうなる程簡単な問題でもないし、そもそも自分達はもうこれ以上拗れた二人の関係に関わりたくない。取り敢えず何も聞かなかった事にしておくか。
「私は……これを純くんに伝えるべきなのか………」
「やめとけ慎一郎、馬に蹴られても知らねぇぞ」
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