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「ねえ、ジナニヒョン。チャヌ、最近元気ないと思わない?」
楽屋の隅、ユニョンが鏡で髪型を整えながら、ふと口にした。その声に濁りはなく、純粋に末っ子を心配する兄の顔だ。
ジナンは手元のスマホから目を離さず、短く「そうかな」とだけ返した。
「そうだよ。昨日もご飯に誘ったのに、『忙しい』って断られたんだ。あいつ、俺の作る飯、すごく喜んで食べてくれてたのにさ。なんか悩みでもあるのかな。
あ、もしかして好きな子でもできた? 相談に乗ってやろうかな」
ユニョンが楽しげに笑う。その無邪気な「特別扱い」が、今のチャヌにとってどれほど残酷な劇薬になっているか、彼は露ほども知らない。
ジナンはゆっくりと顔を上げ、鏡越しにユニョンの瞳を射抜いた。
「……ユニョン、お前、たまに無意識に人を追い詰めるよな」
一瞬で、楽屋の空気が凍りついた。ユニョンの手が止まり、戸惑ったように眉を寄せる。
「え……? 俺が? 何か悪いこと言った?」
「悪気がないのは知ってる。でもさ」
ジナンは椅子を回し、ユニョンと真っ向から向き合った。その表情には、いつもの柔和な雰囲気がない。
「優しすぎるんだよ、お前は。……相手がそれをどう受け止めるか考えずに、全方位に光を振りまきすぎ。特にチャヌには」
「チャヌには……って、あいつは弟だし、仲良くしたいから……」
「弟だと思ってるのは、お前だけかもしれないよ」
ジナンの低い声が、ユニョンの言葉を遮った。
ユニョンの瞳が大きく見開かれる。冗談だと言って笑い飛ばそうとする彼の喉が、微かに震えた。
「それ、どういう……」
「想像してみなよ。お前が誰かと電話してる時の顔や、幸せそうに恋の話をしてる時の声を、一番近くで聞いてるやつがどんな気持ちか」
ジナンは立ち上がり、呆然とするユニョンの肩を軽く叩いた。指先に込められた力は、これ以上踏み込むなという無言の警告だった。
「これ以上、あいつを揺さぶるな。……お前にその気がないなら、中途半端に構うのは残酷だよ。あいつが壊れる前に、少し距離を置いてやりな」
ジナンはそのまま、振り返らずに楽屋を出て行った。
残されたユニョンは、手に持っていたワックスを握りしめたまま、鏡の中の自分を見つめる。
自分がしていた行動、言動が、実は愛する弟の心をじわじわと殺していたのかもしれない。
初めて突きつけられた冷たい事実に、ユニョンの指先が小さく震えていた。
その日から、ユニョンの「温度」が消えた。
楽屋に入れば、いつも「チャヌ、おはよう!元気か?」と肩を組んできたはずのユニョンが、今はチャヌと目が合う直前でふいっと視線を逸らす。隣の席が空いていても、彼はわざと遠くの椅子に座り、スマホを眺めて固まっている。
「……ユニョンヒョン、これ。さっきスタッフさんに預かった資料です」
勇気を出して声をかけると、ユニョンはびくりと肩を揺らした。受け取る手は、指先すら触れないように、ひったくるような速さ。
「あ、ああ……ありがと。……じゃあ、俺、先に行くわ」
「え、でも、まだ打ち合わせまで……」
チャヌの言葉が終わる前に、ユニョンは逃げるように部屋を出て行った。
残されたチャヌの指先が、行き場を失って空を掻く。
練習中も、それは顕著だった。
ダンスのフォーメーションで、ユニョンがチャヌの背中に手を置く振り付け。今までは力強く、安心感を与えるように触れていたその手が、今は触れているかどうかも分からないほど羽のように軽い。
まるで、汚いものにでも触れるかのような、慎重すぎる距離。
(……ああ、やっぱり)
チャヌの胸の奥で、何かが冷たく固まっていく。
『お前にその気がないなら、中途半端に構うのは残酷だよ』
きっと、ジナンヒョンが何かを言ったんだ。
そしてユニョンヒョンは、僕の気持ちに気づいてしまった。気づいた上で、「気持ち悪い」と思ったから、あんなに露骨に避けているんだ。
そうに違いない。
その日の夜、宿舎のキッチンで二人は鉢合わせた。
逃げようとするユニョンの背中に、チャヌはたまらず声を絞り出した。
「……ヒョン、僕、何か悪いことしましたか?」
ユニョンの背中が凍りついたように止まる。
「……してないよ。何も」
「嘘だ。……目も合わせてくれないじゃないですか。僕が、何か……ヒョンの気に障ること、言いましたか?」
『好きだ』なんて、一度も言っていない。
それなのに、どうしてこんなに惨めな思いをしなければならないのか。
ユニョンは振り返らないまま、震える声で答えた。
「……違うんだ、チャヌ。ただ、お前のことを……今まで通り、弟として見られなくなっちゃって」
ユニョンとしては「意識しすぎてどう接していいか分からない」という意味だった。
けれど、その言葉はチャヌの耳には
**「弟としても、もうそばに置きたくない」**
という最終宣告に聞こえた。
「……そうですか。……すみません、困らせて」
チャヌの視界が、一瞬で歪む。
ユニョンがようやく振り返った時には、チャヌはもう無理矢理な笑顔を作っていた。今にも泣き出しそうな、けれど必死で拒絶を飲み込もうとする、壊れそうな顔。
「大丈夫です。……もう、近づきませんから」
すれ違いざま、ユニョンが何かを言いかけて手を伸ばしたが、チャヌはそれを見ることなく、暗い廊下へと消えていった。
宿舎の非常階段。冷たいコンクリートの上に座り込み、チャヌは膝に顔を埋めていた。
暗闇の中、自分の呼吸音だけが異常に大きく聞こえる。
「……近づきませんから」
自分で言った言葉が、何度も頭の中でリフレインする。ユニョンのあの困ったような、逃げるような瞳。
「弟として見られない」――その言葉の本当の意味を、チャヌは最悪の方向に解釈していた。
「……ここで何してるの。風邪引くよ」
頭上から降ってきたのは、聞き慣れた、けれど今は少しだけ聞くのが怖い、落ち着いたトーンの声だった。
顔を上げると、ジナンが缶コーヒーを二つ持って立っていた。
「……ジナニヒョン」
「隣、いい?」
返事を待たずに、ジナンはチャヌの隣に腰を下ろした。温かいコーヒーが、冷え切ったチャヌの手に握らされる。
しばらく、沈黙だけが流れた。ジナンは何も聞かず、ただ夜空を見上げている。
その静けさに耐えきれず、チャヌの唇が震えながら開いた。
「……ヒョン。ヒョンが、言ったんですか」
「何を?」
「僕が、ユニョンヒョンを……変な目で見てるって。だから、あんなに……避けられてるんですよね」
声が、最後の方で掠れて消えた。
ジナンはコーヒーを一口飲み、小さくため息をついた。
「……俺は、あいつに『少し距離を置け』とは言ったよ。でも、それはお前を嫌いにさせるためじゃない」
「同じですよ」
チャヌの瞳から、溜まっていた雫が溢れ出した。
「避けられるくらいなら……何も知らないまま、笑いかけて欲しかった。……ヒョンに嫌われるのが、世界で一番、怖いのに……」
一度溢れ出した感情は、もう止められなかった。チャヌは声を殺して、子供のように肩を震わせて泣き始めた。
ジナンは何も言わず、チャヌの頭を自分の方へ引き寄せた。
チャヌの額が、ジナンの肩に預けられる。
「……バカだね、お前も。あいつも」
ジナンの声は、ひどく慈しみに満ちていた。
「ユニョンはね、お前が大切すぎて、どう接していいか分からなくなってるだけだよ。……あいつ、こういうところで不器用なんだよな」
「……もう、無理です。戻れない」
「戻らなくていい、……今は、ただ泣いてなよ。明日になれば、また『マンネのチャヌ』を演じなきゃいけないんだから」
ジナンは、チャヌの背中をゆっくりと一定のリズムで叩き続けた。
それは、恋を応援するわけでもなく、諦めろと強いるわけでもない。ただ、今この瞬間の「絶望」を一緒に背負ってくれるような、静かな抱擁だった。
「……ヒョン、僕、消えてしまいたい」
「……ダメだよ。お前がいなくなったら、俺が困る」
ジナンは一瞬だけ、チャヌの髪に触れる手に力を込めた。
「……今は俺だけ見てな。ユニョンのことなんて、忘れていいから」
暗闇の中、ジナンは静かに、けれど暖かくチャヌに寄り添っていた。