テラーノベル
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「うあああっ!」
翼は反転し、猛然とスプリントをかけた。
だが、逃げ場はなかった。
霧の向こうから死者のランナーたちが次々と湧き出し、左右に張り付いて並走し始める。
追っているわけではなかった。ただ、同じ方向へ走っているだけだ。
それが余計に恐ろしかった。追われているのではなく、同化されようとしていた。
手首のスマートウォッチの表示が、おかしくなっていた。
『GPSログ:更新中』
画面上の走行軌跡が地図を無視して歪んでいく。
「∞」の記号を何度も上書きしながら同じ線をなぞり続けている。
『高度:マイナス800m』
山の頂上付近にいるはずなのに、標高が下がり続けている。
そして画面の端に、見たことのない表示が追加された。
『接続済みメンバー:112名』
ゾッとする数字だった。
この山に取り込まれた遭難者の数なのか。今も走り続けている死者の数なのか。
そして――。
『心拍数:225bpm』
人体の限界を超えた数値だ。本来なら即死していてもおかしくない。
それなのに、肺も心臓も脚の筋肉も、まったく苦痛を訴えていない。
疲労感がない。呼吸の苦しさがない。筋肉の張りも乳酸の感覚も、何もなかった。
(苦しくないんじゃない。俺の身体が、もう……)
自分の肉体が、静かに書き換えられている。
心拍数ではなく、画面の数字が先にあって、身体がその数字に従っている。
どちらが本物か、わからなくなっていた。
デバイスの液晶が異常な光を放ち始めた。
白い光が手首から腕に這い上がっていく。血管に沿って何かが流れ込んでいるような光の筋。
「ピピッ」
『ルートを外れました。正規ルートに戻してください』
『目標ペース:残り ∞ キロ(Connected)』
画面を見ながら、翼はようやく気づいた。
(俺は今、数字に走らされている)
気づけば、自分の息が聞こえなくなっていた。
走っている。確かに走っている。
だが、自分の呼吸を感じない。足が地面を踏む感触がない。
身体が軽すぎる。まるで画面の中の「ドット」になったようだった。
あの集団と、何も変わらない。
もう少しで、あの空洞になるところだった。
「データが……何だって言うんだ……!」
翼は歯を食いしばり、目を見開いた。
タイムが落ちた。VO2Maxが下がった。だから何だ。
俺はいつから、数字のために走るようになった?
スタートラインに立っていたころの自分は、そんなものを背負っていたか?
初めて山を走った日を思い出した。
高校生のころ、部活のクロスカントリーで初めてトレイルに入った秋の朝。
心拍計も、GPSも、何もなかった。
あったのは、土を踏む感触と、枯れ葉の匂いと、息が切れるほど楽しいという感覚だけだった。
タイムは良くなかった。順位も低かった。
それでも、あの日の走りは本物だった。
身体が、自分のものだった。
ゴールした後、泥だらけのまま地面に倒れ込んで、空を見上げた。
疲れて、苦しくて、それでも笑えた。
あれが「走ること」だったはずだ。
そのために走っていたのだと、今更ながらに思い出した。
あの集団の空洞の顔が目に浮かんだ。彼らもそうだったのだろうか。
数値に追われ、ペースに追われ、どこかの時点で自分ではなくデバイスが走っていた。
そしてデバイスだけが残り、肉体は空洞になった。
翼は自分の手首を見た。
デバイスの光が、皮膚の下まで侵食していた。
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