「璃子ちゃーん」
「はい」
そんなに大きくもない店で、今日も私を呼ぶマスター。
呼ばれた私はカウンターに駆け寄り、いれたてのコーヒーをトレーに乗せた。
一見同じ琥珀色に見える液体。
マスターのこだわりでカップはそれぞれ違うものを使っているけれど、気を付けないと間違えそうで気をつかう。
「お待たせしました」
慎重にトレーを持ち、窓際の席に座るお客さんにコーヒーを運んだ。
「うん、いい匂いだね」
「ありがとうございます」
マスターの入れるコーヒーは本当に美味しい。
雑味のない透き通った味わいと、爽やかなのど越し、最後に鼻へ抜ける香りはチェーン店のコーヒーショップでは出せないもの。私はこの店で働くようになってコーヒーの美味しさを初めて知った。
「璃子ちゃん」
「はーい」
今度はモーニングが出来上がったらしい。
ここは都心のビジネス街。
大きなビルが立ち並ぶ一角にあるカフェ『プティボワ』。ここが私の勤め先。
マスターと数人の従業員で回す小さなお店だ。
ちなみに、お店の名前はマスターの苗字である『小森』をフランス語読みしたものらしい。
***
「ねえ、璃子ちゃんっていくつなの?」
唐突に、カウンター席に座る常連の|荒屋浩平《あらやこうへい》さんが聞いてきた。
「24歳です」
本当なら答える必要はないと思う。これも一応、ハラスメントの一種に思える。
でも、わざわざ隠す必要もないだろうと私は答えた。
「ふーん、ちっちゃいし、かわいいし、学生でも十分通用しそうだね」
「そうですか?」
と言いながら、その点は自分でも自覚している。
私、|八島璃子《やしまりこ》24歳。身長153センチ。
元々色白で、はっきりとした二重の目を除けば小さな口と鼻がおとなしい印象。
その上最近になって髪を切り、顎のラインで切りそろえられたボブがさらに幼い印象を与えている。
学生時代から童顔の私は、少しでも大人にみられたくてロングヘアを続けてきた。絶対に髪は切らないと思っていたけれど、事情があり10年ぶりのボブ。
おかげで街を歩いていても、声をかけられることが増えてしまった。
「もう少しパシッと化粧して、大人っぽい格好をすれば印象も違うと思うけれどね。何しろ璃子ちゃん美人だから」
「そんなことは・・・」
これは褒められているんだろうか、いや、絶対にからかわれている。
荒屋さんは営業だから口もうまいし、こんなにずけずけとものを言っても嫌味な印象はない。でも、私にだって言い分はある。
長いこと伸ばしてきたロングヘアをバッサリと切ったのには荒屋さんも関係している。きっと荒屋さん自身は気が付いていないだろうけれど。
***
「荒屋さん、璃子ちゃんをいじめないでください」
色々と話しかけられている私に、マスターの助け舟。
「そんなあ、虐めてないよ。ねえ、璃子ちゃん?」
「え、ええ」
別にいじめられてはいない。
少し押しが強い気はするけれど、荒屋さんに悪い印象を持っているわけでもない。
「どちらにしても、璃子ちゃんは仕事中ですからね」
「はいはい」
マスターに睨まれ、両手を挙げた荒屋さんが降参のポーズをする。
「すみません」
どちらにともなく、私は頭を下げた。
「何で君が謝るの?」
ハハハと楽しそうに荒屋さんが笑った。
荒屋さんはお向かいにある中野商事の営業職。
中野商事は日本の有力財閥である中野コンツェルン傘下の一流企業で、建物も40階を超える高層自社ビル。もともとこの界隈の土地ほとんどが中野財閥のものだったらしいから、その規模は庶民には計り知れない。
当然そこに勤める社員だってエリートに違いないけれど、そこはマスターの人柄なのかここ『プティボワ』は中野商事の職員が多く通う隠れ家的な店になっている。
「ごめんね璃子ちゃん。仕事の邪魔をしたね」
「いえ、大丈夫ですよ」
荒屋さんは謝ってくれるけれど、私自身そんなに嫌な思いをした訳じゃない。
それに、荒屋さんとお近づきになりたい事情もあるし。
***
「璃子ちゃん、今日は早出だったから暇なら早く帰っていいからね」
モーニングのお客さんもひきランチまでのはざまの時間にマスターがコーヒーを入れてくれた。
「ありがとうございます」
本来なら私の勤務時間は朝の9時から夕方4時までの休憩をはさんで6時間のパート勤務。ただ、今日はマスターに頼まれて7時からの早出をしている。
朝の慌ただしい時間に2時間も早く出るのはつらいけれどその分夕方がゆっくりできるから得した気分で、久しぶりに時間をかけた夕食でも作ろうかと考えていた。
じっくりと煮込んだシチューは野菜やお肉まで柔らかくておいしいし、普段は避けがちな揚げ物で鳥のから揚げもいいかもしれない。でも、やっぱり一番はハンバーグかなぁ。
そんなことを考えていると店のドアが開く音が聞こえて、私も顔を向けた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。モーニングがまだありますか?」
少し疲れの見える表情で、窓際の席に向かう男性。
「ええ、大丈夫ですよ」
「じゃあ、ブレンドで」
「はい」
***
この人は時々この時間に訪れるお客さん。
身長は185センチ超え。スラッとしてはいるけれど、程よく筋肉の付いた体格。
柔らかな髪はくせ毛のようで、色は栗色。瞳はダークグレー。一見してハーフかな?クウォーターかな?って印象で、どちらにしても整った顔立ちだ。
ちょうど仕事が始まる時間にやってくるからサラリーマンではないかもしれないけれど、遊んでいる人にも見えない。
なんだか不思議な人だな。
「お待たせしました」
いつものようにマスターお勧めのブレンドとモーニングのセットをテーブルに運んだ。
「ありがとう。ん?」
マジマジとお皿の中を見る男性。
「トマト、苦手……ですよね?」
「あ、ああ」
出過ぎたこととは思ったけれど、今まで何度か来てもらった時に気づいてしまった。
毎回最後まで残ってしまうトマトたち。
もしかして好きだから残しているのかなと思ったけれど、いつも最後に小さくため息をつきエイッと口に放り込んでゴックンって飲み込んでいるのを見て苦手なのだなとわかった。
だから、今日はトマトを抜いてキュウリ増しましにしてみた。
「ありがとう、いただきます」
少し照れ臭そうに、食べ始める男性がとてもかわいい。
***
ちょうど落ち着いている時間だったこともあり、ランチの準備をしながら男性と言葉を交わした。
もちろんどこの誰かもわからない人だけれど、会話のスピードと食べ物の好みが似ていることがわかり、自然と警戒心は薄れていった。
私の記憶だと、男性は月に数回いつもモーニングとランチの間みたいな時間にいらしてる印象。
私がこの店に勤めて半年になりますって説明すると、「そう言えばその頃から見かけるようになったね」って返事が返ってきた。
「こちらには長いんですか?」
「そうだあ、こっちに帰ってからだから三年くらいかな。朝まで仕事をしたときや、一息つきたいときに利用させてもらっている」
「へえー、って、今徹夜明けですか?」
「うん。仮眠はとったけれど忙しくてね、家に帰る時間はなかった」
「やだ、それならそうと早く言ってください」
こんなところで私と話をしていないで、帰って休まないと。
「大丈夫だよ、忙しいのには慣れているし。それにこの後も仕事があってね」
ふーん。
本当に忙しいビジネスマンなのね。
「無理しないでくださいね」
「うん、ありがとう」
一体何の仕事をする人だろう。
中野商事の人かな?
さっきまでいた荒屋さんとはずいぶん印象が違うから、営業職の人ではないと思う。
***
「ごちそうさま、これで」
会計時、男性は財布の中から一万円札を取り出した。
「では……9300円のお返しです」
私は目の前でお金を数え、広げて差しだした。
「もしかして、以前銀行に勤めていた?」
「え?」
「いや、お金の扱い方がキレイだったから。もしかしてと思っただけなんだが・・・」
聞いてはいけないことを聞いたのかと、男性が言葉を止めた。
「ええ、半年前まで都内の銀行に勤めていました」
「そうか、やっぱり」
それ以上男性は何も聞いてこなかった。
私もそれ以上話すつもりは無い。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
店を出ていく男性を見ながら、小さくため息をつく。
大学では経済学部に進み、それなりに資格も取った。
銀行は一応総合職の採用だったし、一生勤め上げるつもりでいた。
半年前は、今こうしている自分を想像もしなかった。
「璃子ちゃん、鳴っているよ」
「え?」
仕事中はカウンターの中に置かせてもらっているスマホに着信の通知。
恐る恐る覗くと、
「あぁー」
つい声が出てしまう。
「呼び出しだろ?」
「ええ」
携帯を見た訳でもないのに、マスターの予感は的中。
「いいよ。もう落ち着いたし、ランチまでには遅番の子も来るから帰っていいよ」
「・・・すみません」
私は頭を下げてエプロンを外した。
***
「お世話になりました、八島です」
勤め先のカフェを出て自転車で10分。
『すみれ保育園』と書かれた門をくぐったところで声をかけた。
「ああ璃子さん、すみません。朝から少し元気がなくて様子を見ていたんですが、お熱が37度5分を超えたので連絡させていただきました」
最初に出てきた園長先生が申し訳なさそうに言ってくださる。
「いえ、こちらこそすみません」
「ウワァーン、りーこー」
園長先生の後ろから現れた男の子が、ポロポロと涙を流す。
「ごめんね。さあ、帰ろう」
私が両手を広げると、
ドンッ。
スピードを緩めることなく飛び込んできた。
「すみません、お熱も今は37度まで下がったんですが・・・」
ごめんなさいと頭を下げてくださる若い保育士さん。
「いいんです。37度5分超えたら連絡って園の決まりですから」
そのことに文句を言うつもりは無い。
働いている保護者からするとかなり高いハードルに違いないけれど、そこは子供の健康と安全が一番。こんな時代だからこそ徹底するべきだと私も思う。
「じゃあ、先生にバイバイして」
泣きはらした顔の子を抱き上げると、ありがとうございましたと頭を下げて私は園を後にした。
***
「ねえ|登生《とうい》、ご飯は何にしようか?」
「はんばーぐ」
やっぱり、そう言うと思った。
でも熱があるからもっと消化の良いさっぱりしたものにしたい。
「うどんはどう?」
「いや」
「でも、ハンバーグ食べられるの?」
「うん」
本当かなかなり怪しいけれど、それでも本人の食べたいものが一番。とにかく食べてくれればなんでもいい。
「じゃあ、ハンバーグね」
念のためにうどんも用意しようかな。
あとは・・・イオン水と、プリンとヨーグルトも買って少しずつでも食べさせよう。
「りこちゃん、ぼくねむい」
「嘘、こんなところで寝ないでよ」
自転車の後ろでウトウトするのを見て、落ちないのかと少し慌てた。
子供の行動はいつも突然で、本当に予測がつかない。
生まれた時から見ている親は時間をかけて慣れていくんだろうけれど、残念ながら私にはその時間が足りない。
何しろこの子に出会ってからまだ半年しかたっていないんだから。
***
|八島登生《やしまとうい》、3歳。
男の子にしては白い肌と、クルクルのくせ毛。他の人より少し薄いグレーの目をしたかわいい男の子。
このまま育てば美形になるんだろうなと思わせるこの子は、私の子供ではない。
半年前、突然の交通事故で亡くなった私の姉、|八島茉子《やしままこ》の息子。
正直言うと、姉が亡くなったと知らせを受けるまで登生の存在も知らなかった。
4歳上の姉茉子とは子供の頃にこそ仲よく遊んだけれど、姉が大学に進学する時に家を出てしまって以来あまり顔を合わせることがなかった。
もちろん時々連絡は取っていたけれど、まさかシングルマザーとして出産していたなんて思いもしなかった。
「りこちゃん、だっこ」
途中かかりつけの小児科で薬をもらってから近くのスーパーで必要な物を買って、やっと自宅アパートに戻っても登生はウトウト。
自転車から降りる様子もなく「抱っこ」とせがまれれば、手を出すしかない。
ヨイショッ。
抱き上げた登生の温かで柔らかい感覚。
こんなにかわいい息子を残してこの世を去らなければならなかった姉はどんなにか無念だったことだろう。
そのことを思うと、今でも涙がこぼれそうになる。
***
「りこちゃん、あしたほいくえんやすみ?」
「え?」
確かに今日熱が出たばかりだから用心した方がいいけれど、いくらパート勤務とはいえ急に仕事は休めない。
「明日の朝お熱がなかったら行きましょう」
「えー」
不満そうに登生が頬を膨らませる。
姉の亡くなった原因は信号無視の車が突っ込んできたことによる交通事故。
かわいそうな事故だったけれど、その命と引き換えに登生が生活に困らないほどのお金を残してくれた。それでも、だからと言って私が働かなくていいわけではない。登生に寂しい思いをさせない程度には働いて、自分の生活をするべきだと思っている。そのために、私は勤めた銀行を辞めて今の職場に転職した。
そして勤め先を『プティボワ』に決めた理由は、姉の勤務していた会社が中野商事だったから。
シングルマザーとして登生を生んだ姉のことを知るには中野商事の近くに勤めるのが一番。姉が暮らしていた近くにいれば登生の父親のことがわかるかもしれないそう思って決断だした。
***
「りこちゃん、はんばーぐおいしいね」
「そう、ありがとう」
病み上がりのくせにモリモリとハンバーグを頬張る登生。
この様子だと明日は保育園に行けそうね。
登生は食べ物の好き嫌いも虫歯もない。
もちろんわがままを言うときもあるし、時々姉を思い出して夜泣きをすることもあるけれど、手のかからないいい子だと思う。
こうして登生を引き取ってみると、姉が一人で登生を育てるのにどれだけの苦労をしたのだろうと考えてしまう。今でこそ自分の足で歩き自分の言葉で意思を伝えてくれるけれど、生まれた時はそうではなかったはずだし、生まれたての子供を抱え仕事もしながらの子育てを想像するだけで言葉が出ない。
「りこちゃん、おふろはいる?」
「そうね」
まだ髪や体が自分で洗えない登生には誰かが付いて入ってやらないといけない。
一緒に入って登生を洗ってやり、その後自分を洗おうとすると登生は上がりたくて騒ぎ出す。そんな時は「父親がいてくれればいいのにな」と思ってしまう。きっと姉もそう思ったに違いない。
そもそも、登生の父親は誰だろう。
私はどうしてもそのことが知りたいと思っている。
***
「りこちゃん、こんどおばあちゃんいく?」
「そうね、また電話してみるわね」
「うん」
私が登生の存在を知らなかったように、両親もこの子の存在は知らなかったらしい。葬儀の時に初めて対面して、驚いていた。
私の実家は東京から電車で2時間ほどかかる関東の田舎町。
私も姉も大学入学の為家を出るまでそこで育った。
父は仕事人間で、家事はほとんどが母の役目。今の時代からすると非協力的な父だったけれど、当時はそんなものだと思っていた。
ただ、私が二十歳の時に母に乳がんが見つかり無理ができない体になったことで状況が変わる。
私も姉もこの先どうなるだろうと心配した。けれど、両親は2人で生活することを希望し、それまで母一人でこなしていた家事は父と分担するようになった。2人で助け合って今でも幸せに暮らしている。
そんな中で起きた姉の事故死と、登生の存在。
両親とも何も言わなかったけれど、2人にとって登生の子育ては負担が大きすぎるように思えて、私が登生を引き取ることにした。
「おじいちゃん、かたぐるましてくれるかなあ」
「そうね」
登生の存在に驚いてはいたものの、とてもかわいがってくれている両親。
行けば遊んでくれるし、時々は声を聞きに電話もくれる。
こんなにかわいがってくれるのに、姉はなぜ何も言わなかったんだろう。
それも私の中の疑問の一つだ。
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