幸いなことに、登生の発熱はその日の内に治まった。
翌日から元気に登園してくれて、私が仕事を休むこともなかった。
「せんせい、さようなら」
「はい、登生くんさようなら」
手を振って元気に保育園を後にする登生。
3歳児のパワーって本当にすごいと思う。
疲れってものを全く感じないし、いつでもどこでも走り出す。
「あっ」
心配した矢先、登生が一人で駆け出した。
「こらっ、待ちなさい」
私も慌てて後を追う。
都心にある保育園は敷地内こそ安全だけれど、一歩門を出れば交通量の多い道ばかり。実際、すみれ保育園の前も大きな道路だ。
歩道が広めにとってあるからいきなり飛び出すことはないはずだけれど・・・
嘘っ。
いつもなら必ず止まって左右を確認するはずの登生が、減速することなく道路に向かっている。
マズイ。
そう思った時、聞こえてきたブレーキ音。
キィーッ。
次の瞬間、私の中で時間が止まった。
***
子供の為なら命を投げ出せると言う人がいる。
もちろんそれだけかわいいってことだろうし、大切な存在ってことだろう。
でも登生と暮らすようなるまで、私はその言葉を信じてはいなかった。
たとえ親子でも違う人間。他人のために命を投げ出すなんてありえないと思っていた。でも、最近になってわかった。
無条件に私を信頼し、無防備に私を頼ってくる登生が本当にかわいい。まるで自分の分身のように感じている。
もし、登生を失うようなことがあれば、私は体半分なくしたような気持ちになるだろう。
そして、私にとって登生は自分の身を犠牲にしても守りたいかけがえのない存在なのだと気づいた。
「ウワァーン」
「僕、大丈夫?」
登生の泣き声とともに聞こえてきたのは、焦ったような男性の声だった。
あ、登生が、道路に飛び出したんだ。
この時になって、私はやっと現実に引き戻された。
***
「りこちゃーん」
泣きながら私に抱きついた登生。
よしよしと背中をさすりながら、どこにも怪我がないかを確認する。
「あの、大丈夫ですか?」
駆け寄ってきた男性の心配そうな声。
見た感じどこにも怪我はなさそうだし、そもそも車は登生にあたる直前で止まっていてぶつかった様子はない。
「大丈夫です。すみませんご迷惑をおかけして、え?」
勝手に道路に飛び出した登生のことをお詫びしようと顔を上げ、相手の顔を見た瞬間に言葉が止まった。
「あ、あなたは」
相手も私に気づいたらしい。
目の前にいたのは時々お店に現れるお客さん。
数日前に言葉を交わしたばかりの、トマトが嫌いなイケメンさんだ。
「ぶつかってはいないはずですが、本当に大丈夫ですか?」
車の運転席から出てきた白髪の男性が私に声をかける。
どうやら白髪の男性が運転手で、イケメンさんは後部座席に乗っていたらしい。
そう言えば、車も重厚で高そうな外車だ。
「大丈夫だと思います。ぶつかった様子もありませんし、飛び出したのはこの子ですので」
ご迷惑をおかけしましたと、私は頭を下げた。
***
「うわぁーん、りこちゃんだっこ」
びっくりして泣き続けている登生が、抱っこをせがむ。
「はいはい」
急に道路へ飛び出した登生を叱りたい気持ちもあるけれど、しっかりと手を握っていなかった私も悪かったのかと思うと一方的に叱ることもできない。
それに、こんなに泣いている登生に言っても今はわからないだろう。
子育て初心者の私はそんなことを考えていた。
しかし、
「ねえ、僕?」
ゆっくりと私たちに近づき、登生に話しかけるイケメンさん。
泣き続けている登生は返事なんてしないけれど、
「道路に飛び出したらダメだろ?」
真っすぐに目を合わせ穏やかな口調。
「ぶつかったら大けがをするんだぞ。ママにだって会えなくなるかもしれない」
「ヤダッ」
反射的に登生が答えた。
イケメンさんはきっと私がママだと思っているんだろう。
飛び出したらダメだぞって諭してくれたのだと思う。でも・・・
「これからはママと手を繋いでいような」
「ぅん」
登生の悲しそうな顔。
「あの、この子のママは事故で亡くなって・・・」
「え?」
イケメンさんの表情が固まった。
***
「さあどうぞ」
とりあえずどこかに入りましょうと言うことでやって来た、落ち着いた雰囲気のレストラン。
え、ここ?って驚いたけれど、そのまま奥の個室へと通された。
「登生くんはこちらで見ていますので」
いつの間にか運転手さんに懐いてしまった登生は嬉しそうに連れられて行き、今個室には私とイケメンさんの二人だけ。
静まり返った部屋の中にテーブルをはさみ、向き合って座っている。
「コーヒーでいいですか?」
メニューを見ることもなく断わろうとした私に、男性が勧めてくれる。
「ええ、じゃあコーヒーで」
ほぼ待つこともなくコーヒーが運ばれてきて、一口口に入れ息つく。
「本当に申し訳ありませんでした」
なぜだかわからないけれど、謝ってくれる男性。
「飛び出したのは登生ですから」
どちらかと言えば謝らないといけないのは私の方。
「それはそうですが、事情も知らずに・・・」
ああ、登生にママの話を持ち出したことを謝っているのかとこの時に気づいた。
それにしたところで、ほぼ初対面の人に登生の事情なんて分かるはずもなく、謝ってもらうのはやはりおかしい。
「よかったら事情を伺ってもいいですか?」
「ぇ、ええ」
聞いて楽しい話ではないけれど、わざわざ隠すようなことでもない。
***
「私はあの子の叔母に当たります。半年前にあの子の母親が交通事故で亡くなって、今は私が育てています」
簡潔に事実のみを伝えた。
「事故の時、登生くんは?」
「側にいました。姉が自分を犠牲にして登生を守っていたそうです」
「そうでしたか。それは、大変でしたね」
「ええ、まあ」
大変だったことも、今現在も慣れない子育てに苦労していることも否定しない。
でも、同情はされたくない。
「あの、本当にもう大丈夫です。ぶつかったわけでもないのにここまでしていただく理由はありませんので」
早くこの場を去りたい私は、これで失礼しますと立ち上がった。
「待ってください。しつこくするつもりはありませんが、とりあえずお名前と連絡先だけ教えていただけませんか?」
「いや、それは・・・」
ためらう気持ちが態度に出てしまう。
私だってこの人に興味はある。
聞いてみたいこともないわけではない。
それでも、これ以上迷惑をかけられないと思う気持ちの方が強い。
「わかりました。それでは僕の名刺だけでも受け取ってください。もし何かあれば連絡してもらえばいいです。僕の方は用事があれは『プティボワ』にお邪魔しますから」
ああ、なるほど。
私を『プティボワ』の従業員だとわかっている以上、用事があればそちらに行けばいいものね。
「わかりました」
これ以上揉めたくない私は素直に名刺を受け取った。
***
はあー。
何度も何度も見返した名刺を前にまたため息が出た。
渡された名刺にかかれていた名前は『|中野淳之介《なかのじゅんのすけ》』。肩書は中野商事専務取締役。
ってことは、中野商事の関係者。それも相当偉い人だと思う。
まあね。あんな高そうな運転手さん付きの車に乗っていたんだから想像はしていたけれど、まさか中野商事の関係者だったとは・・・
もしあの人が本当に中野商事の関係者なら、聞きたいことがある。
専務なんて偉い人が姉と知り合いだったとは思わないけれど、あのグレーがかった瞳の色と柔らかいくせ毛の感じは登生によく似ている。そのことについて聞けるものなら聞いてみたい。
「ウワァーン」
部屋の隅に置いたベットの上から聞こえてきた登生の泣き声。
あの事故未遂から1週間。
それまでほぼ収まっていた登生の夜泣きが毎日続いている。
以前なら少しあやせば眠ってくれたのに、今は抱っこしても泣き止まなくて、そのせいか私もずっと眠れていない。
さすがに心配になってかかりつけのクリニックに相談してみたけれど、「きっとお母さんが亡くなった時の事故を思い出したのだろう」と言われるだけで解決策はないようだった。
***
「ウワァーン、りーこー」
大きな声で叫び続ける登生。
「はいはい、きたからね」
ギュッと抱きしめ背中をなでてやっても、登生は泣き止む気配がない。
マズイな。
正直、私はそう感じた。
以前から、登生の夜泣きについて騒音になると注意されていた。
ただ、こう毎日続くようになったことで、できれば退去してほしいと管理会社から言われている。きっと他の部屋の住人からクレームがあがっているんだと思う。
ドンッ。ドンドンッ。
両隣から壁を叩く音。
どうやら夜泣きの声に耐え兼ねた住人が強硬手段に出ているらしい。
子供の夜泣きなんて不可抗力。自然現象みたいなものだから大目に見てほしいと思わなくはない。でも、こう毎日続けばそうも言っていられないだろう。
管理会社もそのことがわかっていて、契約時に単身者と申告した私の非を責めてきている。
どちらにしてもこれ以上続けばここを出るしかない。
ドンドン。
壁を叩かれる音に恐怖を覚え、私は登生を抱いて外に出ることにした。
***
少しでも生前の姉のことが知りたくて中野商事近くの職場に決めた。
そうなると当然場所は都心。
小さな子供を抱えているとなればそう遠くに住むこともできなくて、どんなに狭くてもいいからと職場の近くに保育園とアパートを探した。
もちろん家賃が高いこともわかっていたけれど、ワンルームでもいいと無理を言って今のところを見つけた。
当然、契約の時には『単身者用のアパートですからね』と念も押されたのに、いけないとわかっていて私は登生と2人でそこに住むことにした。
これだけで、退去を迫られるだけの十分な理由にはなるだろう。
「困ったわね」
やっと眠ってくれた登生の重みが背中にのしかかる。
この子だけはどんなことがあっても守ってやらなければいけない。
やっぱりもう少し郊外に引っ越すしかないのかな。
そうなれば保育園も変わらなくてはいけないし、通勤に時間をとられる分登生と過ごす時間も短くなってしまう。
どうしたものかと途方に暮れていると、
「あれ、君?」
背中から聞き覚えのある声がした。
***
「どうしたのこんな時間に」
現れたのは、あのイケメンさんだった。
「えっと・・・」
時刻は夜の9時半。
子供を負ぶったままウロウロするには遅い時間かもしれない。
「何か困っているの?」
「え?」
「顔色がよくないようだから」
「ああ。それは寝不足の」
そこまで言ってしまってから黙った。
「何かあったんだね?」
「・・・」
ありのままに話せば、事故のせいでって思われるだろう。
もちろんそれがきっかけではあるけれど、そもそも事故とも言えない事故。責任を感じてもらうようなことはない。
出来れば話したくないのだが・・・
「とにかく、登生くんを下ろそうか」
言っている側から登生を抱きかかえてくれる中野さん。
おかげでやっと背中が軽くなった。
「どこかで横にさせてあげたいんだが・・・」
そうよね。
3歳児はもう眠っている時間だものね。
「家へ連れて帰りますので」
そう言って登生をもらおうとした時、
「ウワァーン」
また泣きだしてしまった。
はあぁ、もう。
いけないとわかっていながら、大きなため息が出てしまう。
今夜はいつも以上に寝てくれなくて、かれこれ2時間も歩いた。
それでもやっと寝てくれてこれでアパートに帰れると思っていたのに・・・
何で泣くのよ。
何で寝ないのよ。
ふがいない自分が悔しくて、私は唇をかみしめた。
***
「いいよ、僕が抱くから。とりあえず、僕のマンションに行こうか」
「いや、でも・・・」
「心配しなくても、何もしないから」
向けられたいたずらっぽい笑顔。
別にそんな心配をした訳ではない。
登生も一緒にいるのに乱暴なことをされるとは思っていない。
それでも、このまま中野さんのマンションにお邪魔するのは遠慮したい。
「この子夜泣きがひどくて。お邪魔してもご迷惑をおかけすると思うので」
このままアパートに帰ります。と言いたかったのに、
「別にかまわないよ」
「いや、でも」
かまわないよなんて簡単に言わないでほしい。
子育てがどれだけ大変か知りもしないくせに。
ちょっとだけムッとして、たぶんそれが顔に出た。
「いいから、行くよ」
登生を抱えたまま歩き出す中野さん。
その声と背中が、少しだけ不機嫌そうに見える。
マズイな、怒らせたかな。
でも、私だってクタクタ。
普段ならもっと冷静でいられるし、優しくもできるのに、今は心が荒れている。
きっと、ここ1週間登生の夜泣きに悩まされ続けた疲れが出てしまったのだろう。
***
「さあどうぞ」
差し出されたのは温かい紅茶。
「ありがとうございます」
両手で受け取り、ゆっくりと口を付けた。
ここは中野さんが住む高層マンション。
私だって、中野さんはお金持ちなのだろうなと思っていた。
何しろ中野商事の専務さんだし、運転手付きの高級外車に乗っているし、マンションだってきっと豪華なのだろうと予想はしていたけれど、実際やって来たところはその想像をはるかに超えていた。
「すごいマンションですね」
「そう、だね」
さすがに否定しないか。
だってここは都内でも有名な超超高級マンション。
住んでいるのは芸能人や政治家だって噂だし、その分セキュリティーも厳重ですべての部屋が億単位の値段だって聞く場所。
それも、
「ここって最上階ですよね?」
「ああ」
ああって、簡単に言わないでほしい。
この人本当に何者だろう。ちょっと怖くなってきた。
「この部屋は実家の所有だから、厳密に言えば僕のものではないんだがね」
「そうですか」
少しホッとした。
どう見ても30前の若さで自力でここに住んでいるって言われたら、よっぽどのやりてか、悪いことをしてお金を稼ぐ悪人のどちらかしか思い浮かばない。
どちらにしても近づきたくない人だわ。
***
「登生くんすっかり眠ったみたいだね」
「ええ」
マンションに来てからも泣いていた登生。
初めは泣き声が周囲に迷惑じゃないだろうかと私も気にしていたけれど、「完全防音だから大丈夫」と言われ気が楽になった。
そんな私の気持ちが登生にも伝わったらしく、しばらくすると嘘みたいに眠ってくれた。
「事情を聴いてもいいかな?」
「はい」
ここまでお世話になっておいて事情を話さないのもおかしいと、私はこの1週間の様子を伝えた。
夜泣きがずっと続いていたことを聞いた中野さんは驚いた様子だった。
「大変だったね?」
「ええ」
そこは否定しない。
実際ここ1週間、私はあまり睡眠がとれていない。
食欲もないし、体もだるいし、本当に疲労困憊って感じ。
「登生くんも眠ったことだし、今夜は君も泊って行くといいよ」
「いや、それは・・・」
あまりにも申し訳ない。
「いいんだよ。外泊なんて嫌かもしれないけれど、このままじゃ君が参ってしまうから」
「でも・・・」
「辛いときは素直に甘えなさい」
ポンと肩に手を置き優しく笑った中野さん。
その表情に裏があるようには見えない。
私は「子育てがどれだけ大変か知りもしないくせに」と罵ったことを猛省した。
いくら自分に余裕がなかったからとはいえ、絶対に思ってはいけなかった。
***
「奥がゲストルームだから好きに使って。必要な物はたいていそろっているはずだけど、足りないものは言ってくれればすぐに用意するから」
「ありがとうございます」
結局中野さんのお家に一晩だけ泊まることにした。
あまりよく知らない人の家に泊るなんて非常識なのはわかっていたけれど、今から登生を連れてアパートへ帰るだけの気力が私に残っていなかった。
広くてきれいで立派な中野さんのマンション。
何よりも防音が効いていて、泣き声や物音を気にすることなく暮らせるのがいい。
今までは利便性しか考えてこなかったけれど、住む家の環境って大切なのだと実感した。
こうなったら今のアパートを出て少し郊外に引っ越す方がいいのかなあ。
職場から遠くなることや、引っ越しの費用も心配ではあるけれど、登生の健やかな成長が一番。明日になったら不動産屋さんに連絡してみよう。
その晩、私は1週間ぶりにゆっくり眠ることができた。
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