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✧≡≡ FILE_032: 道徳 ≡≡✧
──俺が衝撃を受けたのは、その少し後のことだ。
午後の陽射しがまだやわらかい、公園の砂場。
ローライトが一人、スコップで山を作っていた。
砂の粒を丁寧に積み上げ、崩れないように角度を調整している。小さな建築家。
俺はベンチで見守っていた。
ほんの一瞬──視線を外した、ただそれだけだった。
「お前の山、邪魔なんだよ!」
甲高い声が響いた。
顔を上げると、同じ年頃の子どもが、ローライトの山を足で蹴り崩していた。
砂が舞い、ローライトの頬に当たる。
小さな手が止まった。
次の瞬間──ローライトは蹴られた。
「───」
……けれど、驚いたのはそのあとだった。
ローライトは、泣かなかった。
叫びもしなかった。
ただ、ゆっくりと立ち上がると──無言で、その子を蹴り返した。
それは、幼児の反射でも、怒りでもなく、どこか、計算された蹴り。
相手の足の角度を測り、体重のかけ方を見て、ほんの少しだけ強く、ほんの少しだけ速く。──完全に、“仕返し”として成立する力加減だった。
俺は、息を呑んだ。
誰に教えられたわけでもない。
それでも、彼は“均衡”を取ったのだ。
殴られたら殴り返す、という単純な幼児の喧嘩ではない。まるで、「痛みを返すことが正義」だと悟っているような。
泣きもせず、ただ相手を見下ろし、ローライトは無表情でこう言った。
「……先に蹴ったのはあなたの方だ。──私が正義だ」
──俺は、背筋が凍った。
その言葉に、情緒も幼さもなかった。
まるで、秤にかけるように、世界の“釣り合い”を取るような声音だった。
あの時、俺は確信した。
この子は──普通の子じゃない。光から生まれた代償として、“正義の形”を、どこか別の場所で覚えてきたのかもしれない。
そのあとだった。
殴り合いのような幼い衝突は、すぐに大人を呼んだ。相手の親が血相を変えて駆け寄ってきたのだ。
砂の山を踏み荒らした子どもは泣きじゃくり、ローライトは、相変わらず無表情のまま立っていた。
「あなたの子ども、うちの子を蹴ったのよ! 見て、この足!」
女の怒声が、公園中に響いた。
フラッシュは慌ててローライトの肩を掴んだ。
「すみません、すみません、本当に──」
その瞬間だった。
乾いた音が、頬を裂いた。
相手の手のひらが、まっすぐフラッシュの顔を打っていた。
──バンッ!!
思わずバランスを崩し、砂に片膝をつく。
頬の内側に、血の味。
「しつけもできないの!? 親でしょ!」
怒鳴り声が、子どもたちの泣き声をかき消した。
ローライトの小さな体が震えた。
次の瞬間、彼は拳いっぱいに砂を掴み──相手に投げつけようとした。
「──やめろ!」
フラッシュがその手を掴む。
ローライトの指の間から、砂がばらばらと零れ落ちた。
そのまま腕を抱き込むように押さえつけ、彼の小さな頭を強く押さえつける。
「謝れ」
「……」
「……謝るんだ」
俯いたまま、ローライトの唇が震えた。
その瞳は濁っていない。
ただ、理解できないというように揺れていた。
「……なんで?」
「いいから……謝れ」
「でも……先に手を出したのは……」
「──いいから!!」
フラッシュの声が、怒鳴りというより、泣き声に近かった。
ローライトの頭を押さえた手が震えていた。
指の間から、まだ砂が零れ落ちていく。
「すみませんでした……」
小さく、掠れた声。
それを聞いた母親は、鼻を鳴らして子どもの手を引いた。「まったく……」とだけ言い残し、公園を去っていった。
残されたのは、沈黙。
秋の風が砂をさらい、壊れた砂山を平らに戻していく。
フラッシュは、膝をついたまま動けなかった。
その帰り道。
風は冷たく、街灯の明かりがオレンジ色に滲んでいた。
ローライトは、まだ何も言わなかった。
小さな手の中には、さっき掴んだままの砂が少しだけ残っていた。
フラッシュは、彼の手を見下ろしながらぽつりと呟いた。
「……よくやったな」
ローライトが顔を上げる。
驚いたように見つめた。
「やられたら、やり返す──それでいい」
「……」
「我慢しても、誰も褒めちゃくれない。ズルズル引きずると……それはいつか、恨みになる」
言葉を選ぶように、フラッシュは歩きながら続けた。
「俺も……昔、そうだった。友達がいた。大事なやつだった。でも、少しずつズレて、許せなくなって……それで、関係は崩れた」
夜風に混じるように、ため息がこぼれる。
「怒りを抱えたままじゃ、生きづらい。同じ土俵に立って、同じ痛みを返す。それが釣り合い──いや、“友達”ってもんだ」
「ともだち……」
ローライトはしばらく黙っていた。
やがて、ぎゅっと小さな拳を握りしめ、
「……じゃあ、あの人も、つりあってた?」と尋ねた。
フラッシュは答えなかった。
ただ、街灯の下で、影が二つ、ゆっくりと並んで伸びていった。
──そう言いながらも、心のどこかでわかっていた。
あのとき、俺が教えたのは“正義”じゃない。
憎しみの引き方と、痛みの返し方だった。
そしてそれが──あの子にとっての最初の道徳になってしまった。
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