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目を開けると、真っ先に白い天井が目に入った。
家の寝室の天井も白色だけれど、柄が違う事に違和感を覚えた美千花が、そろそろと視線を彷徨わせたら、薄桃色のカーテンが見えて。
(パーティション?)
恐らくはそれ代わりのカーテンだ。
ふと視線を転じた先、点滴の輸液バッグが点滴スタンドに掛けられていて、そこから降りたチューブが、自分の左腕に伸びていた。
(病、院……?)
どう考えてもそうとしか思えなくて、自分の不甲斐なさに小さく吐息を落としたら、
「美千花っ? 目ぇ覚めたのかっ?」
泣きそうな顔をして律顕がすぐそばから美千花の顔を覗き込んできた。
全然気配を感じなかったから気付かなかったけれど、ずっとベッド横にパイプ椅子を出して座っていたらしい。
(律、顕……?)
何で?と思ってしまった。
窓の外の太陽の傾きからして――日付が変わっていなければ――さっき蝶子と電話で話してからそんなに経っていないように思えた美千花だ。
(何時?)
そう思って視線を彷徨わせたけれど時間の分かるものは目につく範囲にはなかった。
体感的にはそんなに時間は経っていないような気がするけれど、休みを取っていたらしい律顕が、病院に駆け付けられる程の長い時間、自分は意識を失っていたのだろうかと疑問に思う。
(律顕、そもそもどこにいたの? 今日は私に嘘をついてお休みを取っていたんだよね?)
遠出はしていなかったという事だろうか。
考えたらキュッと胸が苦しくなって。
思わず眉根を寄せたら、
「ごめんっ」
言って、すぐさま律顕が美千花から距離を取った。
別に近過ぎる事を非難したわけではなかったのに、そう思われたらしい。
その、明白に傷付いた表情に、美千花は〝違うの〟と否定して律顕に手を伸ばした……つもりだった。
なのに全然思うように声が出せない上に、身体も動かせない事に愕然とする。
お腹にも下腹部にも違和感はないから安心しきっていたけれど、こんな風に身体のあちこちに不具合があるとなると話は別だ。
麻痺していて、重大な事を感じられていないだけと言う可能性だってあるかも?と思い至ってゾッとした。
「ぁ……」
〝赤ちゃんは無事?〟
そう聞きたいのに、微かに出せた声はたった一音。
喉の奥が張り付いたみたいに声が出せない事に、これ程焦りを感じるなんて思いもしなかった。
「安心して? 子供は無事だから……」
でも、美千花の様子から何を言いたかったのか、律顕が察してくれて。
そう告げられた事に肩の力を抜いた美千花だ。
(律顕が居てくれて良かった)
心の底からそう思ったのに。
「僕、ちょっと病院の人、呼んで来るから。美千花は安静にしてて?」
そんなの、美千花の枕元にあるナースコールを押せば済むだけなのに、律顕がまるでこの場にいるのが居た堪れないみたいにそう言って席を立つ。
声も動きもままならない美千花は、引き留めたいのに彼を見上げる事しか出来なくて、行かないで!と言う本音が夫に伝えられなかった。
そもそも口を開いた所で、声を出せたかどうかも怪しかったのだけれども――。
***
伊藤医師からの診察を受けた美千花は、ここがいつも妊婦健診で通っている総合病院の婦人科・産科の入院病棟だと理解して。
道端で倒れた上、全く固形物を受け付けられなくなっていたのが主治医にバレた美千花は、しばらくの間入院する事を余儀なくされた。
目覚めてすぐには出せなかった声も、掠れはするものの少しずつ出るようになってきて。手足も、まだ末端が少しピリピリと痺れてはいるけれど、意識回復直後の様に全く動かせないわけではなくてホッとする。
「美千花。食事、ちゃんと摂れてなかったんだね」
律顕に曇った顔で言われて、責められているように感じた美千花は途切れ途切れ、小さな声で「ごめ、なさ……ぃ」と謝った。
だが家で食事をしなくなっていた律顕は、そのせいで美千花がちゃんと食べられていなかった事に気付けなかった自分に腹が立つと言って。
美千花の方は夫のその姿に、その事を律顕に相談出来なかった自分を悔やんだ。
二人の赤ちゃんにも関わる問題なのに、どうして自分は律顕ともっとしっかり向き合おうとしなかったんだろう、と思って。
(避けられている本当の理由を聞くのが怖くて強く出られなかったとか、赤ちゃんには関係なかったのに……)
幸いお腹の中の胎児は問題なく元気にしていると言われたけれど、こんな事を繰り返していたら取り返しがつかなくなってしまうと気付いた美千花だ。
さっき医師に聞いたら、今は十五時半過ぎ辺りらしい。
「律顕、お仕事は……」
夫が会社を休んだ事は知っていた美千花だったけれど、一縷の望みを賭けて聞いてみたのだ。
ここで素直に律顕が休んでいた事を話してくれて、その理由も包み隠さず教えてくれたなら。
「美千花がこんな時に仕事どころじゃないよ。気にしないで?」
なのに律顕は今日休んだ事なんてなかったみたいにそう答えて眉根を寄せた。
(何で嘘なんて……)
気を失っていた時間と、目覚めてから診察等を受けた時間を考慮すると、律顕は美千花がここに運ばれて、本当にすぐ駆け付けてくれたんだと思う。
だけど――。
「蝶子――受、付の奥、田さんから、今日は律、顕、お仕事休ん、だって……聞、いたよ?」
ベッドの中。
点滴の薬液がポツン、ポツン……と落ちるのをしばらく眺めてから、意を決して口を開いたら、律顕が息を呑んだのが分かった。
「美千花……」
「この所、ずっと……私を、避け……てたのと……関、係あったり、する? 今日……本当は、何をして、たの?」
一息に話したいのに、喉の奥がヒリヒリと焼け付いたみたいに途切れ途切れにしか言葉を紡げない。
だけど、言いたい事はちゃんと言おう、聞きたい事はちゃんと聞こう、と決意した美千花だ。
じっとベッドサイドの律顕を見上げたら「ごめん」と一言返されて。
「律……顕?」
それが何に対する謝罪なのか分からないままに律顕を見詰めたら、ふいっと視線を逸らされてしまう。
「本当の事を言ったら……きっと美千花は僕を受け入れられない」
ややしてポツンと付け足された言葉に、美千花は泣きそうになって。
「ど、ういう、……意味?」
ギュッと唇を噛み締めたら、口中に鉄臭い血の味が広がって一気に気持ち悪くなった。
急に真っ青になった美千花に、律顕が慌てて看護師を呼びに行って。
美千花は涙目でそんな夫を見遣りながら、(ナースコールで呼んでよ、律顕。お願いだから私から逃げないで?)と思った。
***
夕方――。
「一旦入院に必要なものとか取りに帰って来るね」
そう律顕が声を掛けてきた時、美千花はぼんやりと彼を見詰める事しか出来なかった。
何を恐れているのか分からないけれど、本音を語ってくれない律顕に、これ以上、自分は何を求めたらいいのだろう?
(律顕。何を隠しているの?)
キュウッと胃の辺りが差し込むように痛んで、美千花は眉根を寄せて痛みに耐えた。
美千花に向けられる眼差しは昔のまま、愛情を帯びているようにしか思えないのに。
明らかに美千花に秘密を持っている律顕に、寂しさばかりが募る。
***
律顕とのすれ違いに、胃の辺りがキリキリと痛んだ美千花だ。
でも我慢出来ない程ではなかったし、何より辛いと訴えて処置を求めてしまったら、律顕との関係が破綻しかけていると認める事になってしまいそうで怖かった。
胃痛に耐えながら布団の中で縮こまっていたら、いつの間にかうとうとしていたらしい。
「――永田、美千花さん?」
カーテンの向こうから窺う様に声をかけられて、美千花は目を覚ました。
夢現、ぼんやりとした頭のまま「……はい」と答えてから、少し遅れて(誰だろう?)と思って。
「西園稀更です」
そう名乗られて、一気に覚醒した。
「入っても……?」
稀更の凛とした声音に、寝乱れた格好のままな事に気後れして戸惑った美千花だ。
きっと仕切りの向こう。彼女は記憶の中にある通り、キチッとスーツを着こなして身綺麗にしているに違いない。
でも、律顕が不在の今、稀更に話を聞けるのはチャンスかも知れない、とも思って。
「……どうぞ」
どうせ入院中だ。
少々の事は相手も目を瞑ってくれるだろう。
「すみません、こんな格好で」
伊藤医師から極力寝たきりで過ごす様言われている美千花だ。
別に切迫流産の危機だとかそう言う訳ではないのだけれど、道端で倒れた事を思うと、もう少し体力が回復するまでは彷徨くなと言いたいらしい。
ほんの少しベッドのリクライニングを上げたものの、ほぼ寝そべった状態のまま客を迎え入れた美千花に、稀更は首を振って気にしないで、と意思表示してくれた。
「私こそ急に押しかけてごめんなさい。律、あっ、――美千花さんのご主人から色々聞いてたものだからつい……」
西園稀更は美千花や蝶子が入社した時、総務本部財務部ではなく同じ本部の枝、総務本部総務部受付課に籍を置いていた。
腰まである艶やかな黒髪と、色白の肌、キリッと整った理知的な目鼻立ち、営業で培った話術で他の受付嬢らを束ね、教育係を任されていたのだ。
――『私ね、貴女達が独り立ちしたら財務部へ移動させてもらおうと思ってるの』
そう言って、淡く微笑んだ稀更の表情を、美千花はよく覚えている。
色々話を聞く内、営業課や製品開発課でバリバリ働いた経歴のある女性だと知った。
総務本部に異動してきたのは、子育ての為、残業を回避したかったからだとも。
入社当時世話になった人だし、全く知らない仲ではない先輩なのだが、今は矢張り律顕の事があって、どうしても色眼鏡で見てしまう。
律顕の事を親しげに〝律〟と呼ぶのも、美千花の胸をチクリと刺した。
律顕がそんな彼女の事を〝きさ〟と呼んでいる事も、彼と付き合う前に何度か現場に居合わせて知っているから余計だ。
結婚してからは、律顕は美千花に気を遣ってか、少なくとも美千花の前では〝西園〟と呼ぶようになっていたけれど、先程稀更が律顕を〝律〟と呼んだ事からも、二人きりの時は怪しいものだと勘繰ってしまう。
美千花は、そんな愚かな妄想をして勝手に嫉妬する自分が、凄く醜く思えて嫌になった。
「律顕――主人とはよく?」
――話されるんですか?
敢えて〝律顕は主人です〟と主張するみたいな言い回しにして、言外に夫との関わりを問う言葉を含ませた美千花に、稀更は淡い微笑みを返してきた。
***
しばし後、
「美千花さんは私とご主人の事、どう思ってるの?」
逆に問われて、美千花は言葉に詰まって。
「わ、私は……特に何とも」
――思ってません。
本当は凄く凄く気になっている癖に、それを彼女の前で認めてしまったら負けな気がして。
美千花は一生懸命虚勢を張った。
なのに稀更は、そんな気持ちなんてお見通しみたいに「嘘はダメ」と美千花の言葉を遮るのだ。
そればかりか――。
「――だってほら、いつだったかな? 私が律と喫茶店にいたの、貴女、見てたでしょう?」
パイプ椅子を引き寄せてそこに腰掛けた稀更が、美千花と視線の高さを合わせてじっと見つめてくるから。
美千花はキュウッと胃の辺りが痛むのを感じた。
今の稀更は、律顕の事を〝律〟と呼ぶ事を隠す気すらないらしい。
蝶子とランチしたあの日、商店街で彼らを偶然見かけてしまった事は、美千花の心の中だけに仕舞ったはずだった。
律顕にでさえ問えないままに今日まで来てしまったパンドラの箱。
それをいとも簡単にこじ開けて、稀更はその上で「本当に何とも思ってないの?」と再度問いかけてくる。
そんな稀更の言動に、さすがに耐え切れなくなった美千花だ。
「本当は……すっごくすっごく気になってます。……当たり前じゃないですかっ」
もうこれ以上何も聞かせないで欲しい。
律顕との事は二人でちゃんと解決していくから。
両手で耳を塞いで俯いた美千花に、稀更が小さく吐息を落とした。
「だったら……その気持ち、ちゃんと彼に伝えなきゃダメだよ? 何も言わずに我慢ばっかりしてたら、私達みたいになっちゃう」
稀更の声音が、ふわりと和らいだ気がして、美千花は恐る恐る顔を上げて。
すぐそばの稀更と目が合ったと同時、
「ごめんね。入院中なのに意地悪な言い方ばかり。……しんどかったよね、本当にごめんなさい」
言いながら頭を下げてきた彼女に、美千花は心底驚かされた。
「だけど――永田君も貴女もお互い余りにも本音をぶつけ合ってないみたいだったから……凄く気になってしまって」
「……でも」
(例えそうだとしても西園先輩には関係ないよね?)
そう思った美千花だ。
そんな不満が顔に出ていたらしい。
「部外者の癖にって思ってるよね? 私も同感」
――でもごめんね、と付け加えてから稀更が続ける。
「貴女が私たちを喫茶店で見かけたあの日。――実は永田君から『妊娠中の嫁さんに嫌われているみたいだ。どう接したらいいか分からない。西園はご主人からどんな風にして欲しかった?』って相談されてたの。私、それ聞いた時『あ、奥さんのつわりの症状、私と一緒なのかな?』って思っちゃって」
そこでじっと美千花を見つめると、
「私は旦那にこうして欲しかったって……彼にアドバイスしたんだけど。多分言い方が悪くて上手く伝えられていなかったのね。――結果的に二人の関係がこじれる原因になったみたいで……ずっと気になってたの」
丁度そんな時だったのだそうだ。
総務へ律顕がやって来て、「しばらく有給を取りたい」と申請に来ているのを見掛けたのは。
美千花は家に入院のための荷物を取りに行くと言った律顕が、まさか会社に寄り道しているだなんて思わなくて思わず瞳を見開いた。
「律顕が……会社に?」
「ええ、つい一時間くらい前に会ったばかりよ」
通りで荷物を取りに帰っただけにしては時間が掛かるはずだ。
美千花は、色々な物がどこに仕舞ってあるのか分からなくて、律顕が荷造りに手間取っているのだとばかり思っていた。
でも、どうやらそれだけではなかったらしい。
「彼がそんな風に休むなんて珍しいから『何かあったの?』って聞いたら『美千花が入院することになった』って言われて……。私、居ても立っても居られなくなっちゃったの」
稀更の言葉にふと時間が気になって、律顕に頼んで枕元に置いてもらったスマートフォンを見たら、十七時半になろうかと言う所。時間的に見て、稀更もここへ来るために時間給を取ったのかな?と思った美千花だ。
遅くなればお子さん達のお迎えにも響くだろう。そんな中、わざわざ時間を割いて会いに来てくれたらしい稀更に、美千花はほんの少し肩の力を抜いた。
稀更が〝どんなアドバイス〟をして、律顕が〝どう間違えた〟のかが凄く気になって。
美千花が質問しようと稀更を見たら、彼女の方がわずかばかり先に口を開いた。
「――違ってたらごめんね。ひょっとしてつわりの時、貴女も旦那さんの事、生理的に受け付けられなくなったんじゃない?」
「え?」
その通りだったので、美千花が思わず瞳を見開いたら、「やっぱり。実は私もね、二人目の時そうだったから」と稀更が悲しそうに笑った。
「うちの場合は一人目の時にはそんな事なかったら余計……。旦那にその気持ちをどう伝えたらいいのか分からなかったの。旦那も、そんな私の変化が理解出来なかったみたい……」
美千花の視線を受けた稀更が、切なげに瞳を細めてほぅっと吐息を落とした。