コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
白光に包まれた天上の宮殿は、永遠の昼を湛えていた。
音はなく、風もない。すべてが整い、すべてが止まっていた。
その中心に立つのは、七翼の大天使——セラフィエル。
彼の背から伸びる羽は、どの天使よりも長く、白金に輝いていた。
光の律を司る存在として、彼は神の意思を人間界へ告げる使徒であり、
「最も清らかな者」と呼ばれていた。
だが、その瞳の奥には、
誰も知らないひとひらの影があった。
「セラフィエル、また地上の祈りを覗いたのか?」
問いかけたのは、弟子のミカエス。
彼は若く、まだ三枚の翼しか持たない。
その声には、師を慕う者の無邪気さと、わずかな恐れが混じっていた。
セラフィエルは答えない。
ただ、遠く地上界の景色を映す鏡面の湖を見つめていた。
そこには、戦火と飢えと、絶望に泣く人々の姿があった。
「神は……なぜ、救わぬのだろう。」
その囁きは風のように小さかったが、
天上界の静寂の中では、あまりに重く響いた。
ミカエスは眉をひそめる。
「救いとは、神の摂理に従って与えられるものです。
我ら天使は、その秩序を守る者。感情を持ってはならぬ。」
「——そうだな。」
セラフィエルは微笑んだ。
だが、その笑みはどこか、祈るように脆かった。
その夜。
彼は禁を破った。
天上の封印を解き、光の門を抜け、地上界へと降り立つ。
無限の光が途切れ、初めて「夜」が存在する場所へ。
闇があった。
冷たく、しかし息づいていた。
彼の白い羽根が風に揺れるたび、月光が鈍く滲んだ。
足元には、崩れかけた祭壇。
その上で、一人の少女がうずくまっていた。
黒い鎖に繋がれ、背中には闇の紋章。
けれど、その髪だけは淡い光を帯びていた。
「——人の子か。」
セラフィエルが近づくと、少女はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、夜の中で微かに輝いていた。
金でも銀でもない。
光を忘れた者だけが持つ、哀しい色。
「あなたは……光の人……?」
声はかすれていたが、確かに震えていた。
「私はセラフィエル。天上の者だ。
お前はどうして、このような場所に……」
少女は微笑んだ。
それは、この世のどんな祈りよりも儚く、美しかった。
「……光を、盗んだから。」
「何?」
「神の灯を、この胸に宿してしまったの。
だから、罰としてここに縛られたの。」
セラフィエルの心臓が、ひとつ強く打った。
胸の奥の光が、彼女に共鳴するように震えた。
「名を、聞かせてくれ。」
「——リシア。」
闇の囁きのように、その名が彼の翼に触れた。
瞬間、白い羽根の一本が、音もなく黒く染まった。
セラフィエルは思わずその羽根に触れた。
焼けるような痛みが走る。
だが、それ以上に心の奥が疼いた。
なぜ、この少女の痛みが、まるで自分のもののように感じるのか。
リシアは彼を見つめていた。
瞳の奥には、懺悔ではなく祈りでもなく、ただ——愛の欠片があった。
「あなたは、私を殺しに来たの?」
「……違う。」
セラフィエルはそう言いながら、自分の声が震えているのに気づいた。
「私は……救いに来た。」
その言葉が、堕天の始まりだった。
空が裂けるような音がした。
天上界の封印が彼の背を貫く。
羽根が焼け、光が溢れる。
それでも彼はリシアを抱きしめた。
「もう恐れるな。お前を、闇から取り戻す。」
リシアは泣いていた。
その涙が彼の胸に落ちたとき、
セラフィエルの中で何かが決定的に壊れた。
「……あなたの光、温かい。」
「それは……お前の中にもあったはずだ。」
「ううん、私は……もう、光を喰らってしまった。」
その瞬間、闇の紋章が脈打った。
リシアの背に黒い羽根が現れる。
そしてセラフィエルの白い翼にも、再び黒が滲んだ。
——世界が、ふたつに裂けた。
光と闇の狭間で、二人はただ見つめ合っていた。
まるで、永遠の罪を確かめ合うように。
天上からの声が響く。
「セラフィエル、汝、光を穢したな。」
その声に、彼は静かに微笑む。
「いいや……これこそが、真の光だ。」
彼の翼が散り、リシアの鎖が砕ける。
夜風が二人を包み込む。
羽根が舞い、月が滲む。
その夜、天使は堕ち、少女は解かれた。
けれど、
それはまだ——愛の始まりに過ぎなかった。