テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
白光に包まれた天上の宮殿は、永遠の昼を湛えていた。
音はなく、風もない。すべてが整い、すべてが止まっていた。
その中心に立つのは、七翼の大天使——セラフィエル。
彼の背から伸びる羽は、どの天使よりも長く、白金に輝いていた。
光の律を司る存在として、彼は神の意思を人間界へ告げる使徒であり、
「最も清らかな者」と呼ばれていた。
だが、その瞳の奥には、
誰も知らないひとひらの影があった。
「セラフィエル、また地上の祈りを覗いたのか?」
問いかけたのは、弟子のミカエス。
彼は若く、まだ三枚の翼しか持たない。
その声には、師を慕う者の無邪気さと、わずかな恐れが混じっていた。
セラフィエルは答えない。
ただ、遠く地上界の景色を映す鏡面の湖を見つめていた。
そこには、戦火と飢えと、絶望に泣く人々の姿があった。
「神は……なぜ、救わぬのだろう。」
その囁きは風のように小さかったが、
天上界の静寂の中では、あまりに重く響いた。
ミカエスは眉をひそめる。
「救いとは、神の摂理に従って与えられるものです。
我ら天使は、その秩序を守る者。感情を持ってはならぬ。」
「——そうだな。」
セラフィエルは微笑んだ。
だが、その笑みはどこか、祈るように脆かった。
その夜。
彼は禁を破った。
天上の封印を解き、光の門を抜け、地上界へと降り立つ。
無限の光が途切れ、初めて「夜」が存在する場所へ。
闇があった。
冷たく、しかし息づいていた。
彼の白い羽根が風に揺れるたび、月光が鈍く滲んだ。
足元には、崩れかけた祭壇。
その上で、一人の少女がうずくまっていた。
黒い鎖に繋がれ、背中には闇の紋章。
けれど、その髪だけは淡い光を帯びていた。
「——人の子か。」
セラフィエルが近づくと、少女はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、夜の中で微かに輝いていた。
金でも銀でもない。
光を忘れた者だけが持つ、哀しい色。
「あなたは……光の人……?」
声はかすれていたが、確かに震えていた。
「私はセラフィエル。天上の者だ。
お前はどうして、このような場所に……」
少女は微笑んだ。
それは、この世のどんな祈りよりも儚く、美しかった。
「……光を、盗んだから。」
「何?」
「神の灯を、この胸に宿してしまったの。
だから、罰としてここに縛られたの。」
セラフィエルの心臓が、ひとつ強く打った。
胸の奥の光が、彼女に共鳴するように震えた。
「名を、聞かせてくれ。」
「——リシア。」
闇の囁きのように、その名が彼の翼に触れた。
瞬間、白い羽根の一本が、音もなく黒く染まった。
セラフィエルは思わずその羽根に触れた。
焼けるような痛みが走る。
だが、それ以上に心の奥が疼いた。
なぜ、この少女の痛みが、まるで自分のもののように感じるのか。
リシアは彼を見つめていた。
瞳の奥には、懺悔ではなく祈りでもなく、ただ——愛の欠片があった。
「あなたは、私を殺しに来たの?」
「……違う。」
セラフィエルはそう言いながら、自分の声が震えているのに気づいた。
「私は……救いに来た。」
その言葉が、堕天の始まりだった。
空が裂けるような音がした。
天上界の封印が彼の背を貫く。
羽根が焼け、光が溢れる。
それでも彼はリシアを抱きしめた。
「もう恐れるな。お前を、闇から取り戻す。」
リシアは泣いていた。
その涙が彼の胸に落ちたとき、
セラフィエルの中で何かが決定的に壊れた。
「……あなたの光、温かい。」
「それは……お前の中にもあったはずだ。」
「ううん、私は……もう、光を喰らってしまった。」
その瞬間、闇の紋章が脈打った。
リシアの背に黒い羽根が現れる。
そしてセラフィエルの白い翼にも、再び黒が滲んだ。
——世界が、ふたつに裂けた。
光と闇の狭間で、二人はただ見つめ合っていた。
まるで、永遠の罪を確かめ合うように。
天上からの声が響く。
「セラフィエル、汝、光を穢したな。」
その声に、彼は静かに微笑む。
「いいや……これこそが、真の光だ。」
彼の翼が散り、リシアの鎖が砕ける。
夜風が二人を包み込む。
羽根が舞い、月が滲む。
その夜、天使は堕ち、少女は解かれた。
けれど、
それはまだ——愛の始まりに過ぎなかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!