テラーノベル
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夜が深くなるたび、世界の輪郭が曖昧になっていく。
月は欠け、星々は黒い霧に飲まれた。
そのとき——天の果てから、ひとつの“異なる月”が昇る。
それは黒き月。
光を持たぬはずの闇が、まるで逆説のように輝きを放ち、
世界の秩序を静かに裂いていく。
神の沈黙を象徴するその月は、堕天の証。
そして、愛のはじまりの“契り”を告げる印でもあった。
——廃れた神殿の中で、セラフィエルは目を覚ました。
白い羽根の多くは焼け焦げ、背中からは血のような光が流れている。
それでも心臓は、まだ微かに脈打っていた。
……リシアの声が、遠くから聞こえた気がした。
彼女は倒れた柱の影に座っていた。
鎖は砕けたはずなのに、まるで見えない手で縛られているように身をすくめていた。
その肌には黒い紋様が浮かび、まるで生き物のように脈動している。
「……まだ、痛むか。」
セラフィエルが手を伸ばす。
リシアはその指先を恐る恐る見つめた。
その瞳の奥では、“救われたい”という渇望と、“触れてはいけない”という恐れがせめぎ合っていた。
「あなた……堕ちたのね。」
リシアの声は、夜風のように細く震えていた。
「そうだろうな。光が俺を拒んだ。」
セラフィエルは静かに微笑む。
「だが——お前を見捨てるよりは、ずっとマシだ。」
「どうして? 私は、神を裏切った罪人よ。」
「罪など存在しない。」
その言葉は、祈りにも呪いにも似ていた。
「お前が闇に堕ちたのは、生きようとしたからだ。」
セラフィエルは彼女の前に膝をつき、手を取る。
その瞬間、彼の掌の光が彼女の肌に触れ、煙のような痛みが走った。
リシアは息を呑んだが、手を離さなかった。
「あなたの光……私を焼くのね。」
「焼くことでしか、救えぬのかもしれない。」
彼の声は低く、どこか悲しかった。
「でも構わない。この身が焦げようと、お前を連れ戻す。」
「セラフィエル……」
リシアの瞳に、涙が浮かぶ。
その一滴が、彼の手の甲に落ちた瞬間——
白い光が闇の紋章へと吸い込まれた。
「……今のは?」
「お前の魂が、まだ光を覚えている。」
セラフィエルはゆっくりと微笑んだ。
だがその目には、消えぬ決意の影が宿っていた。
「リシア、俺の光の半分をお前に与える。
その代わり、お前の中の闇を、俺が受け取る。」
リシアは顔を上げた。
その瞳に映るのは恐怖ではなく、痛みを伴う希望だった。
「そんなことをしたら……あなたが壊れてしまう。」
「もう壊れ始めている。」
セラフィエルの翼から黒がさらに広がる。
まるで夜そのものが彼の血管を流れ始めたかのように。
「やめて……私なんかのために。」
「違う。お前は“私なんか”じゃない。」
その声は、祈りのように柔らかかった。
「お前の闇は、世界の哀しみそのものだ。
それを救うことは、神よりも尊い。」
彼は自らの胸に手を当て、光を掴み出した。
それは青白く燃える“心臓の核”——天使の命そのものだった。
天使が自らの光核を他者に与えることは、存在の消滅を意味する。
だが、彼は迷わなかった。
「リシア、目を閉じろ。」
「セラフィエル……やめて……!」
「これは罪ではない。——契約だ。」
光が迸る。
神殿全体が震え、壁に刻まれた古の聖印が一斉に砕けた。
天と地の狭間が裂け、黒い月が姿を現す。
その光の中で、二人の影が重なる。
セラフィエルの光がリシアの胸へと流れ込み、
リシアの闇が彼の背へと滲み込んでいく。
——そして、世界が静止した。
リシアがゆっくりと目を開ける。
瞳の奥に淡い金の光が戻っていた。
だが同時に、セラフィエルの翼のうち半分は完全に漆黒へと変わっていた。
彼は息を吐き、微笑む。
「これでいい。」
「だめ……あなたの光が……!」
「構わない。お前が生きて、笑ってくれるなら——それでいい。」
リシアは泣き崩れ、彼の胸に顔を埋めた。
その涙が胸を濡らすたび、光と闇が静かに脈を打つ。
まるで、二つの異なる心臓がひとつの拍動を共有しているかのように。
そのとき、空が鳴った。
天上界からの裂け目が開き、雷のような声が降り注ぐ。
「セラフィエル、汝の名を剥奪する。
お前の光は、もはや天に属さぬ。」
その宣告に、セラフィエルは頭を垂れた。
「それでも構わない。俺の光は、彼女に宿る。」
黒い月が完全に満ちたとき、
二人を包む光が紅に変わる。
まるで血のような色だった。
それは愛の契りであり、堕落の印でもあった。
「セラフィエル……」
リシアが囁く。
「あなたの名前、私が呼んでいい?」
「名を呼ぶたびに、俺はお前の闇に飲まれていくだろう。」
「それでも——呼びたいの。」
彼は微笑んだ。
その微笑みは、かつて神に向けたものよりも穏やかだった。
「ならば、呼べ。俺の名を。」
「……セラフィエル。」
その瞬間、黒い月が爆ぜ、天と地の狭間に新しい風が生まれた。
光と闇が混じり合い、世界は再び動き出す。
——それが、彼らの“契約”だった。
血のように甘く、罪のように美しい誓い。
そして天界の誰もまだ知らなかった。
この夜が、世界の均衡を崩す最初の“犠牲”であることを。
それと同時に、それは誰にも許されぬ愛の“赦し”でもあった。
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