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う…泣く…
冬弥は、オレの懇願にも、その後もずっと返事をしなかった。オレはソファの横で座り込んだまま、ただ時間が過ぎるのを感じていた。窓から差し込む光が変わり、夜になる。オレたちは、何も食べず、何も話さなかった。
オレは、昨日から何も変わらない冬弥の姿を見て、どうすることもできない無力感に襲われた。オレの言葉が、冬弥を完全に閉じ込めてしまったのだと痛感する。
夜になり、室内の空気が冷えてきた。このままでは、お互いが壊れてしまう。オレは、震える手で、冬弥が被っている布団を、そっと肩まで下ろした。
冬弥の顔は、昨日の暴力を受けた頬の赤みは引いていたが、その表情は硬く、深い悲しみに覆われていた。
「…冬弥。もう、今日は寝よう」
オレは、穏やかな声を出すように努めた。
「オレが言いたいことは、もうわかってるだろ。オレは、お前の病気のことも、脅されてキスしたことも、全部、話してほしかった」
「…オレが、昨日言ったひどい言葉は、全部、オレの本心なんかじゃない。病気のオレが、勝手に暴走しただけだ。本当に、許してくれとは言わない。ただ…」
オレは、冬弥の目を見た。その瞳には、光が宿っていなかった。
「…オレは、今夜から、別々の部屋で寝る。お前が、オレのいないところで、少しでも休めるように」
オレは、重い体を持ち上げ、リビングに敷いてあった冬弥の布団を慎重に畳んだ。
「…オレは、向こうの部屋に行く。お前は、このまま、ゆっくり休んでくれ」
オレは、冬弥が寝ていたソファの横に、水と薬を置いて、自室のドアを静かに開けた。
ドアを閉める直前、もう一度冬弥を見た。冬弥は、目を閉じていた。オレは、この距離が、今のオレたちには必要なんだと、自分に言い聞かせた。寂しい、怖いが、これ以上冬弥を苦しませたくない。オレは自室に入り、ドアをそっと閉めた。
数日が経った。冬弥は、布団にくるまったままピクリとも動かない。オレが声をかけても、返事はない。ただ、微かな呼吸の音だけが、冬弥が生きていることを教えてくれる。
この数日間、オレは冬弥を気遣って、水やスープ、カロリーメイトを差し入れた。だが、冬弥はそれらに手を付けることはなかった。トイレにも行かず、風呂にも入らない。毛布にくるまって、ただそこにいるだけ。まるで、生ける屍だ。
最初は、オレがひどいことをしたからだと、罪悪感と心配でいっぱいだった。だが、オレの生活は、冬弥のせいで完全にストップしている。学校も休んだままだ。冬弥の心配をして、一日が何もなく無駄に過ぎていく。
もう、限界だ。冬弥が笑って、オレを支えてくれたから、オレは前向きでいられた。一緒にいる意味があった。でも、今の冬弥は、オレの人生を停滞させているだけだ。
冬弥を心配している意味も、一緒に暮らしている意味も、付き合っている意味さえも、分からなくなってきた。 オレの鬱も、冬弥の無反応によって悪化している。もう、面倒だ。
オレは、静かに自室のドアを開けて、冬弥の前に立った。冬弥は顔を上げない。
「…なあ、冬弥」
オレは、低い声で呼びかけた。もう、優しい言葉をかける気力は残っていない。
「いつまで、そうしてるつもりだ?」
冬弥は、やはり何も答えない。オレの苛立ちは頂点に達した。
「わかってるか?お前がそうやって動かないせいで、オレの生活がめちゃくちゃなんだよ。学校も行けねぇ。オレが、お前の心配してる意味、あるのか?」
オレは、冬弥の顔が見たかった。このままでは、本当に何もかもが終わってしまう気がした。
「いい加減にしろよ。お前が、オレの病気のことを気遣って隠してたのはわかった。でも、そのせいで、お前も、オレも、もう壊れかけてるんだぞ」
「何か、言え。一言でいい。このままじゃ、オレ、お前のこと、本当に見捨てるぞ」
「…。」
冬弥は、オレの強い言葉にも、ただ沈黙を貫いている。オレは、心の中で冷たいものが急速に広がっていくのを感じた。もう、これ以上、冬弥に感情を揺さぶられたくない。これ以上、自分の精神を削りたくない。
「…そうかよ。何も言わねぇか」
オレは、静かに、だがはっきりと告げた。諦めと、わずかな安堵が混ざったような気持ちだった。
「わかった。もう、いい」
オレは、冬弥を乗り越えるように、リビングから自分の部屋へ向かいながら、言葉を続けた。
「オレは、もう、お前の心配で自分の生活を犠牲にするのはやめる。学校も行く。やりたいこともやる」
「お前の部屋にも行かないからな。この部屋で、自分のことだけ考えて過ごす」
オレは、自室のドアを開けて、冬弥に背を向けたまま、最後の言葉を吐き出した。
「お前は、このままそこにいてもいい。…でも、オレたちは、もう別々の人間だ。お前が動かないなら、オレも動かない。」
オレは、自室のドアを閉めた。これでいい。オレは、これ以上、自分を壊したくなかった。ドアを隔てた向こう側で、冬弥が生きているのか死んでいるのか、もう気にしないことにした。
オレは、ただ、冬弥から離れて、自分の平穏を守りたかった。寂しいという感情は、もう押し殺す。
自室のベッドに横になる。静かだ。隣の部屋に冬弥がいるはずなのに、まるで一人暮らしに戻ったような静けさ。オレは、これで本当に良かったのか、自問自答する余裕も持てず、ただただ、目を閉じた。
翌朝、オレは誰にも頼らず、いつもより早く目を覚ました。冬弥のことは考えないように努め、自分のために動く。制服に着替え、学校に行く準備を整える。これでいい。オレはオレの生活を取り戻すんだ。
だが、いざ家を出ようと玄関に向かう途中、急に体の調子がおかしくなった。昨夜の冬弥を突き放した行為と、その後の極度の緊張状態が、一気にオレの体に襲いかかってきたのだ。
吐き気が込み上げる。同時に頭がガンガンと痛み、視界がぐらつき、立っていられないほどの目眩に襲われた。呼吸が浅く、速くなる。過呼吸だ。
オレは、慌ててトイレに駆け込み、便器にしがみついた。嘔吐物が喉を焼く。何も食べていないから、胃液しか出ない。だが、制御できない吐き気が何度も何度もオレを襲い、体力をごっそり奪っていく。
床に座り込み、背中を壁につけたまま、荒い息を繰り返す。制服を着たまま、こんな情けない状態でいることに、ひどい自己嫌悪を感じた。
オレは、冬弥を突き放して自分の平穏を取り戻そうとしたはずなのに。結局、オレの精神状態は、冬弥の無言の拒絶によって、さらに深く崩壊していた。
オレの部屋のドアの前で、冬弥がまだ動かずにいる気配を感じる。その存在が、オレの苦しみを増幅させる。オレは、助けを求めることもできず、ただトイレにこもって、この発作が過ぎ去るのを待つしかなかった。
少し落ち着いてきたところで、オレは、喉の奥から絞り出すように、誰もいないはずのトイレで、かすれた声を出した。
「…たすけて、…冬弥…」
オレは、自分で自分をどうすることもできない。仰向けに倒れたせいで、喉の奥に吐き気が引っかかって、呼吸が止まる。苦しい。頭痛と目眩で、視界はチカチカと点滅していた。
死ぬ。本当にそう思った。このまま、誰にも気づかれずにここで息を引き取るのか。そんなの、嫌だ。
助けを求めないと。冬弥を、呼ばないと…。
「…と、う…や…」
声にならない。身体中が痙攣して、ただの掠れた音しか出ない。腕に力を入れて、トイレのドアを叩こうとする。だが、腕は重くて上がらない。全身から力が抜け、指一本動かせない。
息を吸いたい。苦しい。胸が張り裂けそうだ。
オレは、最後の力を振り絞って、床に倒れたまま、かろうじて手のひらを床に打ち付けた。
たった一回。それが精一杯だった。もう、意識が遠のく。誰か…
意識が霧の中に沈んでいく。チカチカしていた視界は、暗闇に飲み込まれていくようだった。その時、微かに、ドアが開く音がした。
誰だ?冬弥か?それとも、病気が見せる幻覚か。もう、判別できない。オレの顔を誰かが覗き込んでいるのを感じた。
次の瞬間、誰かの指が、オレの口の中に強引に入れられた。反射的にえずく。喉に引っかかっていたものが、勢いよく吐き出される。苦しかった呼吸が、一瞬で楽になった。
あぁ、楽だ…
オレの体を支える力が完全に抜け落ち、オレの意識はそのまま、深い闇の中へと沈んでいった。