どれくらいの時間が経っただろうか。オレは、静かに目を覚ました。見慣れた自分の部屋の天井だ。体を起こす。頭痛は残っているが、吐き気や目眩は治まっていた。
体が軽い。すぐにトイレでの出来事を思い出す。オレは、誰かに助けられた。服を…制服を見てみると、綺麗に洗濯され、ハンガーにかけられていた。汚れていない。着替えて、掃除までしてくれたのか。
一体、誰が?あの時、ドアを開けたのは…
オレは、ゆっくりとベッドから降り、ドアを開けた。廊下に出て、冬弥の部屋をそっと覗く。冬弥は、昨日までと変わらず、ベッドの上で毛布にくるまっていた。動いている様子はない。
冬弥が、オレを助けてくれたのか?いや、あんなに動かなかった冬弥が、オレを運んで、掃除をして、着替えまで…?オレの過呼吸を治すために、指を入れたのも、冬弥だったのか?
オレは、リビングやキッチンを確認するが、冬弥が動いた形跡はない。昨日のスープは、そのまま残っている。ただ、オレの制服だけが、リビングの窓際に綺麗に干されている。
オレは、冬弥の前に立ち、声をかけた。
「…冬弥。お前が、オレを助けてくれたのか?」
ベッドに顔を埋めている冬弥の頭に、そっと手を伸ばす。触れる寸前で、オレは手を引っ込めた。これ以上、勝手に触れてはいけない気がしたからだ。
「…オレが倒れた後、何があったんだ。着替えさせてくれたのも、お前なのか?」
「…。」
冬弥は、何も答えない。オレは、改めて冬弥の様子を観察した。あの毛布にくるまっている外見は、この数日間と変わらない。
だが、何かおかしい。 いつもなら、微かでも聞こえるはずの、規則的な呼吸の音が聞こえない。胸元も、上下に動いている様子がない。まるで、時間が止まっているかのように、冬弥は静止していた。
オレの心臓が、急に早鐘を打つ。まさか。
「…おい、冬弥。冗談はよせよ」
オレは、震える声で呼びかけた。不安で、全身が冷えていく。
「…呼吸、してるか?なあ、返事しろよ」
オレは、迷いを捨てて、冬弥の肩に手を伸ばした。
「冬弥!」
強く揺さぶる。冬弥の体は、抵抗なくぐらりと揺れた。
冬弥の体を揺さぶっても、何の反応もない。オレは、パニックになりかけながらも、本能的に冬弥の首元に指を当てた。脈…。わずかだが、確かに触れる。
安堵と同時に、これは尋常ではない状況だと理解した。動かない、食べない、飲まない状態が数日続いた結果だ。
オレは、すぐに立ち上がり、震える手でスマートフォンを掴んだ。頭の中で、何度も番号を反芻する。
「…くそっ、わかった、すぐに…!」
オレは、部屋の前で固まったままの冬弥に向かって、大声で叫んだ。
「冬弥!今すぐ、救急車呼ぶからな!絶対、動くんじゃねぇぞ!」
オレは、119番に電話をかけ、住所と状況を必死に伝える。通話中、冬弥の姿から目を離すことができなかった。
数分後、サイレンの音が近づいてくる。隊員たちが駆け込み、冬弥を運び出していく。オレは、冬弥に付き添い、病院へと向かう車の中で、冬弥の冷たい手を握り続けた。オレが気づいてやれなかった数日間の重さが、オレの胸を押しつぶしていた。
冬弥は、病院に到着した後、すぐに処置室に運ばれた。重度の脱水と栄養失調、そして精神的なショック状態が原因だと説明を受けた)
オレは、待合室の椅子に座り、ただただ茫然としていた。オレが冬弥を突き放したからだ。オレの勝手な行動が、冬弥をここまで追い詰めた。
しばらくして、担当の医師がオレの元へやってきた。表情は硬い。
「青柳さんのご家族の方ですか?」
「…いえ、恋人です。容態は…」
「重度の脱水症状に加え、精神的な緊張状態が続いています。命に別状はありませんが、このままでは危険でした。少し休めば意識は戻るでしょう」
医師は一呼吸置いて、手元のカルテに目を落とした。オレは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「それと、青柳さんが抱えている病気について、あなたはご存知でしたか?」
「…はい。統合失調症、ですよね。診断書を、見てしまいました」
「そうですか。青柳さんは、薬の副作用を恐れて服用を拒否していたようですが、今回の件は、その病状が悪化したことが原因の一つと考えられます。特に、衝動的な暴力を受けるなど、強いストレスに晒されたことで、冬眠状態に近い状態になってしまったのでしょう」
衝動的な暴力。それは、オレが冬弥に振るったものだ。オレのせいで、冬弥の病気が悪化した。オレは、医師の言葉に、顔面蒼白になった。
「…オレの、せい…」
「精神疾患を抱える方を、激しく責めたり、暴力を振るったりすることは、命に関わる事態を引き起こしかねません。東雲さん、あなたが恋人なら、彼にとっての最大の支えであるべきです」
医師からの冷静な指摘が、オレの胸に深く突き刺さった。オレは、最悪の恋人だ。
「…はい。もう二度と、あんなことはしません…」
オレは、絞り出すようにそう答えた。
数時間後、冬弥は一般病棟に移された。点滴が繋がれ、眠っている。オレは、そのベッドの傍に椅子を持ってきて座った。
オレが目を離している間に、冬弥はどれだけ苦しかっただろう。オレに心配をかけたくないという冬弥の不器用な優しさが、冬弥自身を殺しかけていた。オレは、握っていた冬弥の手に、そっと自分の頬を寄せた。
「…冬弥。ごめん。オレが、全部間違ってた」
静かな病室で、オレは誰に聞かれることもなく、心からの謝罪を繰り返した。
翌日の午後。冬弥が、ゆっくりと目を開けた。オレは、その瞬間に気づき、静かに声をかけた。
「…冬弥。わかるか?オレだ」
冬弥の瞳は、まだぼんやりとしていたが、オレの顔を認識しようとしているのはわかった。
「……あきと…」
冬弥の声を聞いた瞬間、オレの目頭が熱くなった。数日間の沈黙の後、ようやく聞けた冬弥の名前を呼ぶ声だ。
「…ああ、オレだよ、冬弥」
オレは、冬弥の手を握りしめた。その手は、まだ少し冷たい。
「よかった。目、覚ましてくれて…」
オレは、声を詰まらせながらも、落ち着いた口調で話しかける。
「オレが悪かった。全部、オレのせいだ。お前に、ひどい言葉も暴力も振るって…お前が苦しんでることに、気づいてやれなかった」
「ごめんな。お前が、オレより重い病気で、薬を飲まずに頑張ってたことも、知らずに…オレばかり、自分のことしか考えてなかった」
オレは、冬弥の顔を覗き込む。
「…もう、オレは、お前に何も隠さないでほしい。オレたち、二人で乗り越えよう。オレが、お前の支えになるから」
「…オレのこと、許してはくれなくてもいい。でも、これから、オレと一緒にいてくれるか?」
「……ああ、」
冬弥の、短くも力強い返事に、オレは安堵と喜びで胸が一杯になった。許してくれたわけではないかもしれないが、オレと一緒にいることを選んでくれた。
「…ありがとう、冬弥」
オレは、冬弥の手に自分の額を押し付けた。涙腺が緩む。
「これから、ちゃんと病院にも通おう。オレも、お前の病気のこと、全部知りたい。どういう症状があるのか、どういう時に薬が必要なのか。副作用で歌えなくなるのが怖いのも、オレも一緒に考える」
「もう、オレたち二人で抱え込もう。オレの鬱のことも、お前の病気のことも。隠し事は、もうなしだ」
オレは顔を上げ、冬弥の目を見つめた。
「…家に帰ったら、ちゃんと話し合おう。お前を脅した、あの女のことも、な」
「今は、まず体を治すことだけ考えろ。オレがずっと傍にいるから」
「…俺も…ずっと隠しててごめんなさい……。」
「…冬弥」
オレは、優しく冬弥の頭を撫でた。
「謝るのは、もういい。お前がオレを思って隠してたのは、わかってる。その優しさが、お前を追い詰めたんだ」
「オレこそ、お前を追い詰めて、あんな目に遭わせて…本当に、最低なことをした」
オレは、冬弥の言葉一つ一つを、しっかりと受け止めるように頷いた。
「もう、オレたちはお互いの病気を知った。これからは、二人で支え合っていく。オレは、お前を一人にしない。絶対だ」
「だから、お前も、これからはオレを頼ってくれ。どんな些細なことでも、不安なことも、全部オレに話してくれ。約束だぞ」
オレは、冬弥の手に力を込めた。この手を、もう二度と離さない。
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よかった…泣)