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数日後の放課後
美術室の空気は、独特の重なりを見せていた。
削りたての鉛筆の芯が放つ黒鉛の匂いと
微かな木炭の香りが、生徒たちの小さな話し声と混ざり合って部屋を満たしている。
「今日は二人組で静物デッサンなー。お互いにモチーフを選び合って描き合う。ペアは適当に作れよ」
顧問の先生が放り投げるように言った言葉に、静かだった教室が俄かにざわつき始めた。
ガタガタと椅子を引く音。
「誰と組む?」「一緒やろー!」と屈託なく笑い合う声。
そんな「社交」の喧騒から逃れるように、僕は無意識に人の少ない窓際へと視線を逃がした。
……誰かと組む作業は、昔からずっと苦手だ。
何を話せばいいのか分からないし、相手の視線を感じながら描くのは
自分の心臓の音を拡声器で流されているような落ち着かなさがある。
なるべく背景の一部になって、静かに時間だけが過ぎてくれればいい。
そう願って、小さく背を丸めていた。
けれど。
「水瀬、一緒にやんない?」
頭上から降ってきたのは、雲一つない青空のように突き抜けた声だった。
反射的に、肩が大きく跳ねる。
見上げると、そこには数日前と変わらない
少し着崩した制服にラフにスケッチブックを抱えた天馬くんが立っていた。
金髪が傾き始めた陽光を弾いて、眩しく光っている。
「え……」
「ダメ?」
のぞき込むように、まっすぐな瞳が僕を捉える。
拒絶するための言葉を喉まで手繰り寄せたけれど
そのあまりに濁りのない眼差しを前にすると、適切な理由なんて一つも見つけられなかった。
「…っ、だ、大丈夫……」
「よっしゃ、決まり!」
天馬くんは子供のように破顔すると、僕の向かいの席へどかっと腰を下ろした。
近い。
正面から向き合う形になり、視線を逃がす場所がどこにもない。
トクトクと、心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴り響く。
「で、モチーフどうする? 何描きたい?」
「あ…えっと……」
机の上には、石膏像の足元に雑多に並べられたモチーフたちがいた。
重厚な花瓶、瑞々しい果物
歪な光を放つガラス玉、古びたアンティークの小瓶。
その中で、僕の視線はある一点で止まった。
片隅に置かれた、手のひらに収まるほどの小さな白い貝殻。
複雑に重なる淡い光の筋。
波の記憶を閉じ込めたような、柔らかな曲線。
それはひっそりと、けれど確かに
その場所で「自分」を持っているように見えて、綺麗だった。
「あ、水瀬それ好きそう」
「……っ、うん、これにしようかな」
思考を読まれたような感覚に、胸が詰まる。
天馬くんは迷いのない手つきで、貝殻をそっと僕の方へ寄せてくれた。
乱暴に見えて、彼の手つきはいつも
大切なものに触れるときのような不思議な優しさがある。
その何気なさに、胸の奥がちくりと疼いた。
「…天馬くん、は?」
「んー、俺?俺はそうだな…」
彼は机の上をしばらくの間、宝探しでもするように見回していたが、やがて紙袋に入ったままのレモンを一つ、ひょいと持ち上げた。
「これにするわ。なんか形がはっきりしてて、描きやすそうだし」
「……ふふ」
あまりに彼らしい単純明快な理由に、僕は思わず小さく吹き出してしまった。
「…あ、笑った」
「い、いや……天馬くんらしいなって。単純だなって、思って…」
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