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ゆ(旧「ゆゆゆゆ」)
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ゆ(旧「ゆゆゆゆ」)
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静寂が、泥のように部屋の底へ沈殿していく。
3人の重なり合った肉体から発せられる熱だけが、湿った空気の中で微かに燻っていた。
エリオットの指先はピクピクと痙攣を続け、脳の奥は激しい過呼吸の後のように、不自然に白く、そして痺れている。
マフィオソは、エリオットの髪に絡めていた指をゆっくりと引き抜いた。
その動作一つでさえ、エリオットにとっては自分の肉体の一部を物理的に引き剥がされるような、奇妙な喪失感を伴う。
マフィオソは衣服の乱れをほとんど感じさせない静けさでソファから腰を上げ、暗がりのなかで、ただ2人を見下ろしていた。
「……お前、は」
背後から、低く掠れた声が聞こえた。
チャンスだった。
彼はエリオットの腰を抱きしめたまま、その額をエリオットの背中に押し当てている。
その身体は、まるで極寒の地に放り出されたかのように、激しく震えていた。
「お前は、最初からこれを狙って……俺から、エリオットを……」
「奪ったわけではない、と何度も言っているはずだ」
マフィオソはポケットからハンカチを取り出し、自身の指先に付着した蜜と汗を、一本ずつ丁寧に拭い取っていく。
その仕草には、感情の起伏が一切存在しない。
「私はただ、あるべき場所へ戻しただけだ。チャンス、君がかつて私の中から逃げ出したとき、君は自分の一部を置いていった。そしてその破片は、回り回ってエリオットのなかに収まっていた。私はそれを、確かめにきたに過ぎない」
「ふざけるな……っ!」
チャンスが顔を跳ね上げ、マフィオソを睨みつける。
その目には涙が溜まり、激しい憎悪が燃え盛っていたが、同時にその表情は、マフィオソが語る「真実」に完全に打ちのめされていた。
チャンスは知っていたのだ。
自分がかつてマフィオソに侵食され、境界線を失いかけた恐怖を。
だからこそ、その『侵食された自分ごと』過去を切り捨て、エリオットという「純粋で、何も混ざっていない存在」の隣に逃げ込んできた。
エリオットを愛することで、自分の欠落を埋め、まともな人間に戻れたつもりになっていた。
だが、違った。
マフィオソは、チャンスが逃げた先を見逃さなかった。
そればかりか、チャンスが最も守りたかったエリオットという器を使って、再びチャンスの領域へと、網の目を広げるように侵入してきたのだ。
「エリオット」
チャンスが、今度は懇願するように、隣で横たわるエリオットの肩を揺さぶった。
「エリオット、俺を見てくれ。頼む、何か言ってくれ……。俺だ、チャンスだ。あいつはもう行った。だから、俺を見て……っ」
チャンスの手が、エリオットの頬を包み込む。
その手のひらは、エリオットがよく知っている、ピザ屋の仕込みで少し荒れた、暖かくて不器用な恋人の手だった。
エリオットを誰よりも大切に扱い、傷つけないようにと細心の注意を払ってきた、唯一無二の「チャンス」の手。
エリオットは、ゆっくりと瞬きをし、チャンスの顔を見た。
泣きそうな、迷子のような顔をした恋人。
(俺は、この人を助けなきゃいけない)
理性が、義務が、頭のなかで微かに警鐘を鳴らす。
チャンスは被害者だ。
マフィオソという怪物に過去を脅かされ、今また、自分との平穏な生活を壊されようとしている。
自分がしっかりして、チャンスを抱きしめ、「大丈夫だ」と言ってあげなければならない。
そう思い、エリオットは唇を動かそうとした。
チャンスの唇に、もう一度重ねて、自分のなかの「純粋さ」を証明しようとした。
だが――。
チャンスの顔を見つめれば見つめるほど、エリオットの脳裏には、さっきまでそのチャンスを組み伏せていたマフィオソの、冷徹な瞳が重なって見えてしまう。
チャンスの指先が肌に触れるたび、その熱の裏側に、マフィオソが残していった冷たい指の残響を、身体が自動的に『照合』しようとしてしまう。
(――足りない)
喉の奥から、乾いた悲鳴がせり上がってくる。
チャンスの手は、温かい。温かくて、それだけだ。
マフィオソが与えてくれた、あの脳髄を直接掻き回されるようなノイズがない。
チャンスの中に眠る「知らない過去」の記憶が、この温もりからは流れてこない。
「……っ」
エリオットは、小さく身を震わせ、チャンスの手を自ら拒絶するように、顔を背けてしまった。
「エリオット……?」
チャンスの声が、絶望に凍りつく。
「違うんだ、チャンス、俺……、俺は、」
エリオットはシーツを強く掻きむしり、泣きながら声を絞り出した。
自分が恐ろしい。
マフィオソをあれほど嫌悪していたはずなのに、そのマフィオソにめちゃくちゃにされた後の、この静寂が、チャンスの純粋な優しさが、退屈で、物足りなくて、耐えられない。
「ほら、ご覧」
闇の中から、マフィオソの静かな声が降ってくる。
彼はいつの間にか、ドアのノブに手をかけていた。
帰る間際だというのに、その足取りには微塵の躊躇もなく、むしろこの部屋の主導権を完全に握った者の余裕があった。
「選ぶ必要はない、と言ったはずだ。エリオット、君が彼を求めるとき、君は私を思い出す。チャンス、君が彼を抱くとき、君は私を感じる。私たちはもう、切り離せない一つの円になったのだから」
カチャ、と静かにドアが開く。
外の、冷たい夜の空気が一瞬だけリビングに流れ込み、3人の汗を冷ました。
「また来るよ。君たちが、それを欲する時に」
その言葉を最後に、男の気配は闇へと消えた。
残されたのは、開いたままのドアと、狭いソファの上で、完全に壊れてしまった2人の関係性だけだった。
チャンスは、差し伸べた手を空間に彷徨わせたまま、放心したように動かない。
エリオットは、そのチャンスの隣で、自分の胸元に残るマフィオソの指の感触と、チャンスの涙の熱さを交互に思い返しながら、ただ、終わりのない認識の迷路の中を、どこまでも彷徨い続けていた。