テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
尖塔の風呂は、苦行である。
あるいは、一種の儀式に近い。
まず、暴力から始まる。
「えいっ!!」
かぁぁん、と乾いた音が石壁に響いた。ソラスが振り下ろした斧は、薪に見事弾かれ、彼女の手首に痛烈な痺れを残しただけだった。
「……どうしてお風呂に入るために、木と戦わないといけないの」
「負けてるね、しかも」
後ろでユイスが、笑いを堪えつつ、水を満たした桶を軽々と運んでいる。
「文明って何?」
「ここまで届いてないもののことだよ」
「届いてほしい。今すぐに」
古びた釜に薪をくべ、水を張る。
火をつける。
待つ。
ひたすらに待つ。
ソラスは体育座りで釜を見つめていた。その瞳は、獲物を待つ肉食獣のように鋭い。
「まだ?」
「どう見てもまだだね」
「これ、本当にあったかくなる? ただの濁った水にならない?」
「なる。信じろ。神と僕を」
そして数十分後。釜の中から、ようやく白い湯気が立ち上り始めた。湿った石の匂いと、薪の爆ぜる香ばしい匂いが混ざり合う。
「……来た」
「来たね」
「勝った」
「何に?」
ここからが正念場だ。沸いた湯を桶で掬い、隣の石造りの浴槽へ移す。重い、熱い、そして遠い。三往復目で、ソラスは虚無の表情になった。
「ねえユイス」
「うん」
「お風呂って、入る前に体力を使い果たすシステムなの?」
「この塔ではそういう理になってる」
「間違ってる。世界の理として」
それでも、執念で湯は溜まった。
「……入る」
「ごゆっくり」
脱衣所代わりの衝立の向こうへ、ユイスが下がる。ソラスは重たい服を一枚ずつ脱ぎ捨てた。冷たい塔の空気に、火照った肌が晒される。
そっと、足を入れる。
「……ふう」
ちゃぷん、と音がして、湯が溢れた。
石造りの無骨な浴槽に、白磁のような肢体が沈んでいく。湯気で湿った銀色の髪が、首筋や鎖骨にまとわりつき、そこから透明な雫が伝って胸元へと落ちる。熱い湯が全身を包み込むと、強張っていた筋肉がバターのように溶けていく。湯面から顔だけ出して、ソラスは長いため息をついた。
「……生き返る……」
「生きてて良かったじゃん」
衝立の向こうから、薪を整理する音が聞こえる。
「ねえ、ユイス」
「うん」
「今度、ヴァルクミールに行ったらさ」
「うん」
「宿屋のお風呂、借りたい」
「”風見鶏の寝床”の?」
「そう。あそこなら、蛇口をひねればお湯が出るって、酒場の踊り子さんが言ってた」
ソラスは濡れた腕を湯から出し、天井を見上げた。湯気でかすんだ視界の向こうに、あの賑やかな町の風景を思い浮かべる。
「ここから歩いて半日の距離なのに、文明の差がありすぎる」
「町には水道があるからね、仕方ない」
「マルタさんのお店も、暖炉がふたつもあったし……やっぱりヴァルクミールは都会だよ」
「王都に比べれば田舎だけどね」
ソラスはぱしゃりと湯を跳ね上げた。
「私にとっては大都会。……本も売ってるし、焼き菓子もあるし」
「そうだね。煌びやかだ」
「近いし、また行きたいなあ……明日にでも」
「明日は無理だよ。どうせ筋肉痛になるから」
「……う」
図星だ。薪割りの代償は、明日必ずやってくる。
しばらくの静寂。薪がぱち、ぱちと燃える音だけが、浴室に響く。ソラスは頬を上気させ、潤んだ瞳でぼんやりと湯気を見つめた。熱さにのぼせた肌は、薄桃色に染まっている。
「……ユイス」
「うん」
「薪、足りないかもしれない」
「え」
「だんだんぬるくなってきた」
「また? ソラスの体が冷たすぎるのでは」
「追い焚き機能がほしい」
「そんな魔法はないよ」
ユイスはため息交じりに立ち上がり、薪を追加しに戻ってきた。衝立越しに、薪をくべる音がする。浴槽の縁に顎を乗せ、ソラスはとろんとした声で言った。
「お風呂って維持が大変だね」
「大変なのは僕ね」
「入ってる時間より管理してる時間の方が長い」
「儚いものだ。これぞ人生」
火力が上がり、湯温が少しずつ戻ってくる。ソラスは満足げに目を細め、湯の中に深く潜った。口元まで湯に浸かり、ぶくぶくと泡を吐く。
「……次は」
「うん」
「ヴァルクミールで、入浴剤を買う」
「そんなもの売ってた?」
「市場の怪しいお婆さんが売ってた。”薔薇の香り”と”森の香り”と”硫黄の香り”」
「最後のはやめた方がいい気がするけど」
ようやく風呂から上がったソラスは、湯気と共にほかほかと湯冷めしない熱を纏っていた。濡れた髪をタオルで拭き、未練がましく釜を見る。
「これ、冷めるの?」
「冷めるね」
「もったいない」
「それはそう」
「このお湯、明日も使えない?」
「やめた方がいいと思うよ」
「なんとなく?」
「衛生的にも、気分的にも」
その夜。尖塔の外には、燃え尽きた薪の灰がこんもりと積まれていた。髪からふわりと石鹸の香りを漂わせながら、ソラスはベッドの上で満足げに丸まる。
「お風呂、好き」
ただしこの労働を再び行うのは、きっと三日後――いや、ヴァルクミールで入浴剤を買ってくるまで、お預けになるだろう。