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こうして、観客の大声援で中村の演奏は終わり、事実上最後の演奏者も無事役目を終えた。
鳴りやまぬ拍手の中、支配人がトコトコと舞台の中央へ歩み、恐る恐る口を開く。
「えー、次に予定されておりました一ノ瀬玲子さんのピアノ演奏は、本人の体調不良による欠席により……急遽中止でございます。本日はこれにて終了とさせて頂きます」
おどおどと宣言する支配人の言葉に、観客の拍手は止まり静かになるが、次の瞬間、地の底から沸き上がったかのような、ヤジの嵐に包まれた。
「ふざけんじゃねぇーぞ!」
「女学生はどーしたっ!」
「えらくあっさりしてるじゃねぇーか!」
「女学生をだせっ!」
「演目表とちがうぞぉー!」
皆、好き勝手に不満を吐き出し、それと共に、座布団、菓子、湯飲み、ありとあらゆる物を舞台へ投げ始めた。
様々な物が自分めがけて飛んでくると、支配人は真っ青になりながら後退る。
もう、ここまで来たら収集がつかない。観客の様子は、暴動の域に達てしているに等しい。
そんな中、オロオロしているだけの支配人の顔面に、座布団がまともに当たった。
うぐっと、痛さから声をあげた支配人は、勢い舞台にしりもちをつく。
転がる支配人の姿に、劇場の裏方達は慌て、
「ま、幕、幕を早く引け!」
「終わりだ!仕舞いの拍子木だ!」
右往左往しているが、それを岩崎が止めた。
「中村、すまんが楽屋から学生のチェロを借りてきてくれ!戸田君!伴奏できるか?!ヴィバルディ冬!和音を私に合わせてくれればいい」
中村は楽屋へ向けて駆け出し、戸田は大きく頷く。
そして……。
「京一さん?」
「うーん、舞台がめちゃくちゃだなぁ……」
ゆゆしき事と、男爵も芳子も、荒れる升席を桟敷席から眺めている。
「あ、あの、一ノ瀬玲子さんというのは……旦那様の所へ来られていた、あの女学生さんの事ですか?」
月子は、男爵夫妻へそれとなく今起こっていることを確認した。
玲子が岩崎の家へやって来て、不参加の署名を残して行った。それ以前には、岩崎の胸にしがみつき、慕っていると告白した。
月子にとっては、あまり、喜ばしい記憶でないものが頭の中をよぎって行く。
しかし、そのような事は男爵夫妻は知らないようで、
「京一さん?ほら、京介さんと合奏したいとしつこく粘っていた方じゃない?断られ続けて拗ねたのかしら?」
「拗ねた?芳子?体調不良だと言っていたじゃないか?」
「京一さん、あれは、ものは言いようというやつよ!体調不良にしておけば、拗ねて来なかった、と言わなくても良いでしょう?」
そんなもんかねぇ、そりゃまぁねぇ、とかとか、夫妻は、この大騒ぎの中でも落ちつき払っている。
「ああ、月子さん、騒がしいけれど、大丈夫だよ?ここは二階の桟敷席だからね?ここまで、座布団は飛んで来ないだろう」
ハハハと、男爵は、余裕で笑っている。
とはいえ、貴賓席側は、ざわついており、校長を筆頭に、皆、どうなるのかと重い表情で劇場の様子を伺っている。
すると……。
ドタドタ大きな足音がして、誰かが飛び込んで来た。
「お咲!!お咲!!」
お咲の兄、佐吉が、桟敷席へ駆け込んできて、お咲を起こそうとしている。
お咲は、梅子に用意してもらった座布団を並べて作った布団もどきの上で、もぞもぞ動いていた。
さすがに、この騒がしさと、兄の声に目を覚ましかけているのだろう。
「お咲!起きろ!お前の桃太郎しかねぇぞ!これ収められるのは、お前の桃太郎だっ!!寝てる場合かっ!」
横になるお咲を見つけた佐吉は、血相を変え、お咲を連れ去る勢いで近寄った。
「おや、お咲のお兄さんじゃないか。確かに、桃太郎かもしれないけれどね、どうやら、その必要はなさそうだ。お咲を寝かせておやりなさい」
男爵が、飛び込んで来た佐吉へ言う。
「で、ですが、この騒ぎ……男爵様主催ですよ。ここは、お世話になっているお咲の出番。恩返しの一つぐらいやんねぇーと……」
切羽詰まった面持ちで、佐吉は男爵へ答えた。
「ほほほ、そう心配しなくてもよさそうよ?ほら、御覧なさいな」
芳子も、どこか楽しそうに言うと、男爵と頷きあっている。
確かに、大騒ぎの升席の勢いは弱まり、劇場は静けさを取り戻そうとしている。
「あっ!」
月子は思わず叫んでいた。
舞台に、チェロを持った岩崎が登場したからだ。