観客は、ほとんどがサクラ。よって、岩崎のご近所、顔見知りがほとんどだ。なにより、幕間で芳子と唄っているので、すでに面は割れている。
女学生のピアノ演奏のはずが欠席。そして、再び岩崎が現れた。
いったい、どうして?それも、鬼の形相とでも言うべき、険しい顔をして。
観客は、舞台に立つ岩崎を凝視した。
「それでは!!」
岩崎の一声が響き渡る。
「ヴィバルディ作曲、四季より冬、第一楽章を!」
観客はざわついた。
演奏が始まるのだろうか?
岩崎が用意されている椅子に腰かけ楽器を手にしている。ということは、これから、岩崎の演奏が始まるということ。なのだろうが、とにかく、その表情が固い、いや、誰も近寄れないかの様な気迫が発っせられている。
観客は、何事かと大人しく舞台に注目した。
「ふふふ、芳子。京介のやつ、やっと本気になったなぁ」
「ですわね。月子さん?京介さん、やってくれるわよぉ?」
男爵夫妻が言い終わらない内に、舞台の岩崎が弓を引いた。
遠目でも判るほど、月子が見たこともない、一種緊迫した顔つきで、岩崎はじわじわと弓を引いていく。
一歩一歩、何かが歩み寄ってくるかの様に、チェロの低い音が迫ってくる。
戸田も、岩崎に合わせ、控えめにピアノを連打していた。
次の瞬間、劇場にいる者達は、息を飲む。
岩崎が、体をくゆらせ、音を奏でた。
速い。
とにかく、速い。
岩崎は、髪を振り乱し、弓を引き続ける。左手の指は、縦横無尽とでも言うべく、弦を素早く押え、次から次へ重圧な音を弾き出していく。
観客は、口をあんぐり開け、身を乗り出し、岩崎の素早い動き、いや、流れる音楽の迫力に魅せられた。
皆、岩崎の奏でる速い曲調に、驚きを隠せない。
戸田も、曲を引き立てなければと、必死に岩崎の音を追い、和音を被せている。
段々と曲調は、速まり、音と音が絡み合う。
もう、誰もが岩崎の演奏の虜になっていた。
曲の速さにも驚きを隠せないが、素人でも感じ取れる、本物の音に釘付けになっているのだ。
月子も同じく言葉が出なかった。
怖いくらいの演奏、とでも言うべきか、それでいて、とても清んだ音の連なりに、もう、どうすれば良いのか分からなくなっていた。
ただ、聞きたい。岩崎の演奏を聞きたい。体が音を欲しているとでもいった感じか、舞台から目を離す事ができない。
足元でゴソゴソと音がする。
ふと見てみると、演奏に反応して起き出したお咲が、這い出していた。
が、すぐにへたりこむ。あまりの迫力に、立ち上がることが出来ないようで、それでも、目を皿のように大きく開き、舞台から流れてくるチェロの音に耳を傾けている。
いつものように、ピーピーと唄いだす事もなく、岩崎の演奏に圧倒されてか、口をあんぐり開けているだけだった。
「す、すげえな、京さん、あの早弾き具合」
「まあ、あれが岩崎の実力よ」
舞台の裾では、呆然とする二代目を中村が鼻で笑っていた。
その周りでは、座布団の襲撃から逃げ帰って来ていた支配人に、楽屋にいた学生達が、すし詰めになりながら演奏を聞いている。
岩崎が、大きく弓を引ききる。
同時に音が止まった。
岩崎は、キリリと顔を引き締め、一礼する。
観客は、ただただ、呆然とするばかりで、演劇場は、静けさに包まれた。
「幕、幕を早く引け!」
中村が劇場の裏方に慌てて言う。
言われた裏方は、意味がわからぬとポカンとしている。
と──。
「ブラボー!!!」
「アンコール!!」
桟敷席の男爵夫妻が立ち上がり、大きく拍手をしながら叫んだ。
観客は、何事と、振り返り桟敷席の二人を見た。
とたんに、何か呪縛の様なものから解き放たれたかの如く、観客は、一斉に立ち上がり、舞台の岩崎へ盛大な拍手を送った。
「ぼーぼー!!」
「あんこ売り!!」
「京さーん!!」
わああーーと、堰をきったかの如く、歓声が沸き起こる。
「ぼーぼー、に、あんこ売りって、なんだよそれ」
中村が飛び交う掛け声に、苦笑しつつも、
「ブラボー!!!」
と、大きく叫んだ。
「え、えっと?!ぶらぼ?でいいのかい?中村のにいさん?」
「あー、もう、なんでもいいだろうーよっ!あんこでもなんでも売りやがれっ!!物が飛んでこなけりゃいいのさっ!」
「あー、幕を引けとは、座布団避けということで……」
中村の言葉に、支配人は納得し、学生達は、アンコールと叫びながら必死に拍手をしている。
「京介さーん!アンコール!!もう一曲お願いっ!!」
芳子が叫ぶ。
その声に、観客も意味を理解したのか、あんこ売り、あんこ売り、と、劇場に、妙な掛け声の合唱が巻き起こった。
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