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伸太郎は断崖絶壁の先に立っていた。
自殺という簡単な方法へと、ようやくたどり着けた。
毎日がとても痛く苦しい。
それなら少しの間めちゃくちゃ痛ければ、そのあと楽になれる。
崖の先に座ったまま、伸太郎は海を見渡した。
波はなんであるの?
風はなんで吹いてるの?
昼と夜って何?
どうして鳥は空を選んだの?
疑問だらけの自然を見ても、伸太郎は何ひとつ答えを持っていなかった。
……ああ、ちがう。答えはある。
疑問をもたなければいい。
死ぬことに、覚悟なんていらない。
痛みは日常にしっかり溶け込んでいて、死はその延長線上にあるのを知っているから。
父親のこぶしを受けて、何度も意識を失った。
痛みで食事が喉を通らず、餓死しそうにもなった。
先輩たちに首を締められ、口から泡を吹いたこともあった。
それはただ、痛みの階段を上る人生だ。
そして今日、たまたま階段の一番上にたどり着いただけ。
階段は、思ったよりも高かった。
伸太郎は崖の先でうつ伏せになり、下を見た。
崖の下の海はひどく荒れていた。
無数の波が岩を殴るように打ちつける。
岩は痛そうな顔もせず、波を受け入れている。
ぼくと同じように。
ぼくもそこにいきたい。
入ってもいいかな?
肘を使って少しずつ前に進む。支えのない空中に向かって。
――しっかりお食べなさい、伸太郎。
荒波の音の中に、祖母の声が聞こえた。
――気をつけて行ってらっしゃい、伸太郎。
ああ……おばあちゃん。
おばあちゃんも今日、旅に出るんだね。
風が、祖母の死を運んでくれた。
伸太郎の心に、はじめて生まれた感情。
おばあちゃん……。
あなただけは、ずっとぼくのそばにいてくれた。
「ありがとう、おばあちゃん。ぼくもいくから」
誰かに感謝の感情を抱くなんて、生まれてはじめてのことだった。
その言葉を口にしたとき、この世に残るすべての儀式を終えたような気がした。
伸太郎は肘を使ってさらに前進する。
自然が織りなす、言語とはちがう共鳴を楽しみながら。
彼の上半身は空中に浮き、その後引力によって折り曲がった。
海に吸い込まれるように伸太郎の体が崖から離れていく。
そのときだった。
「ふぅ、やっと見つけたぜ。まったくとち狂ったガキだな」
誰かが伸太郎の足首をつかんだ。
宙に浮いていた上半身が、力ずくで陸へと引き戻される。
伸太郎は元の位置に戻った。
死へと向かう道を邪魔する者。
材木工場の人間だ。
海を見ていた体は反転し、目の前には空が広がった。
「こいつ、まさかここから落ちようとしてたんじゃねぇのか」
「ちがうだろ。海がこいつを食おうとしてたんだ」
クスクス。
「だったらなんでこいつまだ生きてんだ」
「海は言った。とてもじゃねぇけど、マズくて食えねぇ~ってな」
大笑い。
「オレたちがこいつを救ってやったんだよな?」
「やべぇ、オレらってマジ聖人じゃね?」
「この一件だけでも天国行き確定だろ」
大笑い。
「おい、さっさと立ち上がって、命の恩人に頭下げろよ」
――伸太郎。服縫っておいたから、もう寒くないよ。
「こいつ、やっぱ頭がおかしいな。助けてもらったんだから、何か言えよ!」
「落ち着けって。オレら大人なんだし、たまには許してやろうぜ。頭下げる代わりに、金で解決すればいいじゃねぇか」
――伸太郎。ご飯が冷める前にお食べなさい。
「ひとり当たり月5千円で手を打つってのでどうだ? 金さえ払えばまだ生きられるんだ。安いもんだろ?」
――伸太郎。冬だから夜道に気をつけるんだよ。
「クソヤロウが、ほんと毎回反応しねぇな。先輩のお言葉をナメてんのか? もう金はいい。ムカついたから5千円分なぐらせろ。5千円だと何発なぐれんだ?」
――伸太郎、ごめんね。おばあちゃん耳が悪いから、あんたの声が聞こえないの。ごめんね……。
「半額セール! 一発2千5百円の大感謝祭ってことで、ひとり2発ずつな!」
先輩のひとりが伸太郎の胸ぐらをつかみ、自分のほうへと引き寄せた。
その瞬間、男がひとり、空中へと浮いていた。
あっ……。
驚きの声が伸太郎の耳元で鳴った。
声はそのまま崖の下のほうへと消えていく。
目の前にいた同僚のひとりが崖から落ちた。
その現実を理解するまでに、それほど時間はかからなかった。
約2秒。
海に吸い込まれた同僚が絶命するのと同時に、目の前の男たちが状況を理解した。
「お、落とした……。こいつ、落としやがった……」
先輩のふたりが反射的に絶叫した。
恐怖に震え、伸太郎から後ずさっていく。
「こいつ……人を殺した! 殺しやがった!」
「おい、どうするんだ!? マジでやべぇことになったぞ!」
「……ぼくの階段は、まだ終わってなかった」
「おい、なんだ!? 今何て言ったんだ!?」
「おばあちゃん、先に休んでて……。ぼくは、もう少しここにいなきゃならないみたい」
伸太郎は、入社して以来はじめて先輩社員と目を合わせた。