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はるか昔に閉鎖した材木工場の事務所。

高阪伸太郎はそこに住んでいる。

 

工場の敷地内に畑を作り、そこに様々な野菜を植えた。

イノシシや他の野生動物の危害を防ぐために罠が仕掛け、すぐ隣に生活空間を作って監視した。

かつて事務所だった場所だ。

 

事務所の外側にはソーラーパネルを設置した。

電力供給は安定しなかったが、慎太郎ひとりの命を紡ぐには十分だった。

 

テレビも携帯電話もない日常。

最低限の光が周囲を照らせば、それ以上求めるものはない。

 

ほぼ完全なる自給自足だった。

誰も訪ねてくるはずのない山奥の要塞で、伸太郎は3匹の猟犬とともに暮らした。

 

山を少し下ったところに、民家が数軒ある。しかしすべての家は廃墟となって久しい。

時代が変わり、世代が変わり、みなこの地を去っていったからだ。

 

30年前、山に下にある民家はしばしばイノシシの被害に遭った。

イノシシが田んぼや畑に侵入し、休閑地にしてしまうのだ。そうした問題を解決するために現れたのが猟師だった。

彼らは畑の周囲に罠を仕掛け、猟犬を連れてイノシシを駆除した。

 

高阪は工場勤務時代に、一度だけイノシシ狩りを目にしたことがある。

 

休みは週に一日。先輩社員からのイジメから逃れられる貴重な一日だ。

友人もなく酒も飲まない慎太郎は、ただ同僚から逃れるために山道をさまよった。

 

遠くで犬の鳴き声が聞こえた。

直後にイノシシが叫んだ。

慎太郎は音の鳴る場所へと走った。

 

4匹の猟犬が、その数倍の体躯を誇るイノシシを囲んでいた。

遅れて銃をもつ猟師が現場に駆けつけた。

 

「おい! そこで何してるんだ? 危ないからここから離れるんだ」

 

猟師の凄みある声に、慎太郎の体は硬直し動けなくなった。

 

パン、パン!

 

鋭い銃声音が山に響いた。

イノシシが倒れる瞬間をこの目でとらえた。

 

撃たれた頬が風船のように破裂し、ピンク色の内肉が現れた。

流れる血が、樽に穴が開いたワインの流れ出た。

 

イノシシはしばらく痙攣してから絶命した。

 

高阪の全身に電流が駆けめぐった。

恐怖? 歓喜?

興奮を抑えることができなかった。

 

すぐに猟師から銃を借りて、銃口をイノシシの眉間に当てて一発ぶっ放してみたかった。銃がダメならナイフでイノシシの腹を割いてみたかった。体の奥からこみ上げる強烈な欲望に、ただ圧倒されるばかりだった。

 

「ぼくも猟師になる……」

 

慎太郎ははじめて自主的な思考で未来を描いた。

 

それから30余年。

50代になった今、彼はここに戻ってきた。

 

廃墟となった材木工場を表情なく見ていた。

ここは、時代の流れが届かない密やかな場所。

 

デジタル技術という強風から逃げてやってきたが、結果この逃亡は正しかった。この地はすでに無法地帯に近く、それに比例して野生動物の個体数が増加していた。

自給自足のための最適な砦がいつのまにか形成されていたのだ。

 

もちろん、いくらかの現金は必要だった。

狩猟道具に衣類、最低限の必需品は市場にて購入しなければならない。現金は野生動物の捕獲によって補った。

 

高坂は祖母から受け継いだ家に、自らの名義を残しておいた。月に2回ほど、害獣駆除の名目で野生動物を積んで環境省に運び入れる。

 

 

その日は大きな収穫があった。

工場のうしろに仕掛けておいた罠に、母親と5頭のうり坊がかかったのだ。

高阪は自作の槍で6つの心臓を突き刺した。

 

死体を木の板に積んで山を下りる。廃屋の前庭に停めてある自分のトラックに積み、山道をくだっていった。

現金を手にした高坂は、必需品を購入しトラックに乗り込んだ。

 

都市部から農村部へ。そして山の奥深くにある砦へと。

しかし登り道の途中、高阪は突然トラックをとめた。

 

ある疑問が、彼の頭の中をめぐっていた。

 

「あの少女たちは幽霊なのか」

 

町へと向かうたびに、ふたりの少女をよく見かけた。

イノシシを運ぶルートはいつも同じであり、ふたりの少女はいつも同じ場所に立っていた。

 

人も車もほとんど通らない山道。ランドセルを背負っていないことからして、通学路ではないはず。また近くに親らしき大人を見たこともない。

そんな場所にふたりの子どもが立っている。

高阪は自らの目を疑わずにはいられなかった。

 

すでに若者に見限られた地域だ。人口が減り、廃屋だけが年々増えている。そんな人里離れた場所に、なぜふたりの少女が保護者もなく立っているのか。

 

高阪慎太郎は、人に興味がない。

そのためこれまで少女たちを気にかけたことは一度もなかった。しかし何度も彼女らに遭遇することで、一体何者なのかという疑問が浮かんだ。

 

なぜあの子らは立っている?

 

好奇心ではなかった。

長くひとりで生きてきたせいで、ついに幻覚が見えはじめたのではないかという疑問だった。

 

医者に診てもらうという発想はもちろんない。

すべてが原始的である高阪にとって、医学は馴染みのないものだった。

 

獣臭のする待合室を通り過ぎて入った診察室を今でも覚えている。

黒くてぶ厚い唇をもつ医者が威圧的な態度で接してきた。まるで家畜でも扱うように。

 

そのせいか、骨折した骨が奇妙な形のままくっついた。

鼻は曲がったまま固定され、折れた指は今もうまく曲がらない。歩く際にびっこを引くのも、過去の通院が原因だった。

 

幼い頃には父親から。

また大人になってからは工場の先輩から。

高坂の傷のすべてが、虐待の歴史だ。

 

体を酷使しすぎたのか?

だから幻覚が見えるのか?

 

高阪はトラックの中で考えた。

 

「戻ってみよう」

そうつぶやき、車を発進させる。

狭い山道を少し登り、Uターンして再び下った。

 

ふたりの少女はまだ立っていた。

 

トラックの速度を落とし、ゆっくりと子どもたちの前を通り過ぎた。

 

ふたりと目が合った。

 

少女たちはすぐに高坂から目を逸して、ぼんやりと地面を見つめた。

 

高阪は近くで車を停め、少女たちに近づいていった。

 

ふたりは、決して幻覚などではなかった。

 

ふたりが生身の人間であるのを確認した瞬間、心に宿る好奇心に気がついた。

 

「なぜここに立っている」

 

高阪は可能なかぎり穏やかな声で尋ねた。

俺は一億人 ~増え続ける財閥息子~

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