若き小児科医・リアム・フーバーが、隣のフラットに暮らす同じ病院で働く専門が違う医師である杠慶一朗と付き合うようになってまだ日も浅い休日の午後、毎週休みの午前中に通っているジムから帰宅すると、郵便ポストに無造作に放り込まれたメモを発見しーそれは職場で取引のある製薬会社が置いて行ったメモ用紙だったー、くるりと裏面を確認すると、殴り書きの文字で今日は一日家に籠ってジオラマを作っていると書かれていた。
リアムの自宅ポストに今日の予定を投げ込んでいく人間など隣のフラットに暮らす恋人、慶一朗しかおらず、手書きのメモなど残さずにメッセージアプリを使えばいいのにと思いながらそのメモをポケットにしまったリアムは、ジム帰りの心地よい疲れがたった一枚のメモで吹き飛んで疲労が回復した気がし、軽快な足取りで階段を登り、自宅のドアを開ける前に隣の部屋の窓を見上げる。
玄関先から見える窓に変化などはなく、きっと今頃ジオラマ部屋と呼んでいる部屋に籠って趣味に没頭しているのだろうと予測し、玄関を開けて中に入る。
一階の奥、リアムが自宅でトレーニングができるようにしている部屋に入り、シャワーを浴びてジムでかいた汗をさっぱりと洗い流してバスローブ姿で出てくるとスマホに着信があり、次いでメッセージが届いていて、そちらも確認すると送り主は同じで、一言、飽きたとだけ書かれていた。
その直截的なメッセージがおかしくて、ジオラマを作っているんじゃないのかと返すと、既読と同時に可愛らしい絵柄なのに中々毒のあるスタンプが返ってきて、リアムも思わずこの野郎と小さく叫びながら電話をかける。
「─────ハロー、ヘル・飽き性。ジオラマ作りはもう終わりか?」
『Scheiße.・・・もうジムから帰ってきたのか?』
「ああ、さっき帰ってきた」
腹が減ったからこれからランチにするがもう食べたのかと問いかけつつキッチンに向かったリアムの耳に不明瞭な声が流れ込み、何だってとついドイツ語で聞き返すと、今度はやけに明瞭な声が食べた食べたと繰り返したため、何かがおかしいと気付いて名を呼ぶ。
「ケイ、もう一度聞くけど、ランチは食ったのか?」
『・・・・・・食った、と、思う』
「ふぅん? ・・・今からそちらに行く、鍵を開けてくれ」
慶一朗の再びの不明瞭な声に嫌な予感を覚えたリアムがカギを開けろと告げつつ階段を駆け上がり、ベッドルームに飛び込んでバスローブから着替えを済ませる間、繋がったままのスマホの向こうからは何やらごそごそと物音が聞こえるが、己が発している着替えの音と似たようなものが聞こえてくることに気付き、今どこにいるんだと問いかけると、どうやらスピーカーに切り替えたらしい声が、ジオラマ部屋と怒鳴り返す。
慶一朗のジオラマ部屋はリアムのベッドルームと壁を隔てた場所にあり、思わずクローゼットの奥を見つめたリアムは、とにかく直ぐにそちらに行くからと再度伝えて返事を聞く前に通話を終えると、ジーンズにタンクトップという休日では当たり前の服に身を包んで階段を駆け下りるのだった。
リアムを出迎えるためにバスローブ姿のままドアを開けた慶一朗は、リビングに招き入れると同時にリアムに背中からしがみつくように腕を回す。
恋人同士のハグやキスはいつもならばリアムからすることが多く、慶一朗からのそれが珍しいと思いつつ腹の前で組まれる手を撫でて手を離せと告げるが、リアムが惚れているきれいな手はその場から動こうとせず、どうしたと苦笑交じりに問いかける。
「・・・いや、温かいから離れたくないと思っただけだ」
「寒いのならバスローブから着替えればどうだ?」
背後から聞こえてくる嬉しい言葉に顔がにやけそうになるがその割に何か隠し事をしている気がし、慶一朗の両手を力任せに離させたリアムは、驚いていても端正な顔を見下ろしてにやりと笑みを浮かべる。
「ケイ、ジオラマがどこまで出来上がったか見せてくれ」
「いや、まだそれほど進んでないから・・・」
見ても楽しくないぞ、だからやめておけと、リアムの視線から逃れるようにあからさまに慶一朗が顔を背けたことから確実に何かを隠している事に気付いたリアムは、掛け声一つを放って慶一朗を抱き上げると、降ろせグリズリーという罵声が頭上から降ってくる。
「誰がクマだ。それに、暴れると階段から落ちるぞ」
お望み通り下すことになるが、どちらかといえばそれは落下だぞと笑いながら慶一朗を背負うように肩に担いで軽々と階段を登ったリアムが開きっぱなしのドアに気付いて一歩中に足を踏み入れた瞬間、肩の上の痩躯に緊張が走る。
リアムの眼下に広がっている光景は俄には信じられないものだった。
作業テーブルの上だけではなく足元にも散乱するパーツや木材、それらを納めていたと思しきツールボックスが開いたままなのは特に問題はなかったが、大問題なものが床に散乱していたのだ。
どう考えてもゴミ箱に捨てる手間を惜しんで床に捨てたとしか思えないビールの空きボトルやミネラルウォーターのボトルが数本転がるだけではなく、プラスチックの容器-しかも内容物がまだ残った状態-も床に散らばっていて、これは何だと思わず声を低くしたリアムに、肩の上から何だろうなというすっとぼけた声が返ってくる。
さらに信じられないことだが、肩に担いだ慶一朗が子供のように足をばたつかせたため、リアムの腰や背中に膝が当たり、痛いと思わず慶一朗を床に下すとその場から逃げ出そうとした為、逃がすかと一声吠えて慶一朗の腰を背後からタックルの要領で捕まえると、大げさな悲鳴じみた声が廊下に響く。
「離せ、筋肉バカ!」
「誰がバカだ!」
じたばたと子供のように暴れる慶一朗を引きずるようにジオラマ部屋に戻ったリアムは、床に落ちているプラスチック容器を手に取り、手書きの文字でピーナツバターと書かれているのを読み取ると容器を片手に振り返る。
「ケイ、これは何だ?」
「ん? マーサの店で売っていた添加物が一切入っていないピーナツだけを使ったピーナツバターだけど?」
美味いよな、それと笑う慶一朗の顔に顔をずいと近づけたリアムは、まさかとは思うがこれをそのまま食ったのかと問いかけ、色素の薄い双眸が左右に泳ぐ様を見守っているが、程なくして泳ぎ疲れたらしい瞳が窺うように上目遣いに見つめてくる。
「確か前に、ブラッドオレンジのマーマレードがあったからってそれだけを食っていたことがあったな?」
少し前の、思い出すだけでゾッとするような光景を脳裏に浮かべたリアムがじろりと慶一朗を見れば、話を聞いてくれと言うようにじっと見つめて来る。
「だから、今日はそれだけじゃない、リアム。ちゃんとビールも飲んだ、から・・・」
慶一朗の言い訳じみた言葉-それはもはや言い訳などではなく無意識に煽っているとしか思えないものだった-にリアムが大きく息を吸い込んだかと思うと、作業テーブルの上に絶妙のバランスで立っていたジオラマの樹木が振動で倒れてしまうような大声で慶一朗の名を叫ぶのだった。
リビングのソファでお気に入りの青い電話ボックス型のぬいぐるみを抱え込んでいる慶一朗の前、いつものように胡坐をかいて床に直接腰を下ろしたリアムがいたが、コーヒーテーブルの上にジオラマ部屋から持ってきたビールや水のボトル、ピーナツバターが入っていた容器を並べ、呆れたような溜息を零した為、慶一朗の肩がびくりと揺れる。
食に対する興味が薄い上に悪食とすら思える食生活についてもある程度は知っていたリアムだったが、まさか料理に使ったりパンに塗って食べると思っていたピーナツバターを摘みにビールを飲むなど想像もできなかった。
慶一朗に何故そんな暴挙-リアムにとっては暴挙としか思えなかった-に出たと問いかけたが、返ってきた答えにすぐさま頷けなかったのは、リアムが常識人だったからだった。
「ピーナツを潰してペースト状にしているだけで元はピーナツだ、ピーナツならビールと一緒によく食べているだろう?」
慶一朗が精一杯の反論だと言いたげな顔で呟いた言葉にリアムは返事ができずに頭を抱えたくなったが、確かにピーナツをペースト状にしただけで添加物等は入っていない為、そのまま食べたとしても問題はないのかもと納得しかけ、ダメだと頭を左右に振って慶一朗の言葉に頷こうとする己を制止する。
「ケイ、ピーナツを食ってビールを飲むのは確かに悪くない」
「だろう?」
「でも、ピーナツバターとして加工してあるものを、短時間で食べ尽くすのはどうなんだ?」
ナッツ類を一気に食べると腹を下すぞと、己の患者である子供たちに諭すときと同じ口調で呟いたリアムの前、慶一朗がバスローブに包んだ体をもぞもぞとさせ、青いぬいぐるみを抱きしめる。
「・・・ビールだけを飲んで前に怒られたから冷蔵庫にあったピーナツバターを食っただけなのに・・・」
それなのに怒られなければならないのかと恨めしい声で詰られたリアムは、肺の中を空にするような溜息を零した後、まさかその二つを組み合わせるとは思わなかったと気分を切り替えたような顔で笑い、それを見た慶一朗の顔にも僅かに期待の表情が浮かぶ。
「・・・腹が減った時や作業の時に食べやすい物を冷蔵庫に作り置きしておくか」
だから、こちらの常識を疑うような驚きの食べ方をしないでくれと、眉尻を下げつつ笑顔で呟いたリアムは、青いぬいぐるみをソファに投げ捨てた慶一朗が両手を己に向けることで謝罪の意思を示したことに気付き、膝立ちになってその腕の中に体を押し込む。
「・・・チーズを使ったものがいい」
「チーズ? そうだなぁ・・・」
オリーブも好きそうだし、チーズとオリーブの実をオイルに漬けて軽く食べられる物を作ってみようかと細い背中を抱きしめながら提案すると、昨夜は熱に浮かされたまま爪を立てられた背中をそっと撫でられる。
「・・・お前が作ってくれるものは何でも美味いから・・・」
それがいつでも食べられるのは嬉しいと、リアムの鍛えている肩に顔を宛てつつ嬉しそうに笑う慶一朗の髪を撫で、頼むからもうあんな心臓に悪い食べ方はしないでくれと再度懇願すると、なるべく約束すると一歩前進した答えが返ってくる。
「・・・さ、ランチはどうする?」
ピーナツバターとビールはランチと認めないぞと慶一朗の頬にキスをすると、くすぐったそうに首を竦めた慶一朗がビーフステーキと答えた為、リアムが自宅の冷蔵庫の中身を思い浮かべる。
「俺の部屋で食べよう」
「じゃあ着替えてくる」
着替えを済ませたらすぐにそちらに行くとリアムの頬に今度は自らキスをした慶一朗は、バスローブをその場で脱ぎ捨てると素っ裸の背中と尻をリアムに披露してしまう。
「・・・ケイ」
「・・・家から出ないんだ、バスローブ一枚でも良いだろう?」
何も問題はないはずだと、普通に考えれば問題があることをさらりと言い放った慶一朗がそれ以上何かを言われる前にベッドルームに駆け込んだかと思うと、外出しても問題がない服装に着替えて戻ってくる。
「・・・これでいいか?」
「もちろん」
ようやく安堵した顔で立ち上がるリアムの腰に腕を回した慶一朗は、甘えるように身を寄せると、腹が減ったとリアムの顔を見上げる。
「ビーフステーキだったな?」
「ああ。ビールとポテトも食いたい」
「分かった」
お前が今口にしたものはすべて家にあるから安心しろと笑って慶一朗にキスをしたリアムは、玄関を出て10歩程の距離だけど離れなければならない現実に少しだけ寂寥感を覚えつつ、慶一朗の部屋を一足先に出て自宅に戻り、遅れてやってきた恋人を玄関で出迎え、さっきのように腰に腕を回させるのだった。
そして慶一朗の希望通りビーフステーキを二人分焼いた横に、スイートポテトをマッシュしたものー焼き上がるまでの時間を利用して慶一朗にマッシュさせたものーを添え、ビールと一緒にテーブルに並べる。
すっかり当たり前になった、庭を見ながら二人肩を並べて食事をする為にテーブルセッティングをした慶一朗は、リアムが隣に座るのを待ち、座ると同時に付き合うようになってから何故か自然と出て来る日本語でいただきますと呟いて隣からそっと差し出される一口目を食べて素直に美味しいと感想を伝えると、その美味しいランチを恋人と一緒に食べ始め、その最中にさっきまで作っていたジオラマの完成予想図を話し、リアムもそれを興味深げに聞きながら休日のランチタイムを過ごすのだった。
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