その日の任務は、たったひとつの銃声で終わった。
栞の奪還作戦から数日。
本部では後処理と報告、組織間の火消しに追われていたが、
当の本人──栞と翠は、静かな“待機期間”を与えられていた。
本来なら、ただの休息時間。
しかし、栞の胸の内は、決して穏やかではなかった。
(……言わなきゃ)
助けに来てくれたあの日。
自分のために、命をかけてくれた彼に。
ありがとうを、ちゃんと。
そして──
もしそれが“想い”として伝わってしまうのなら、それでも構わないと思っていた。
***
午後の陽射しが差し込む室内。
カーテンがゆらりと揺れるたび、心臓がざわついた。
ソファの隣、いつもと変わらず腕を組んでモニターを眺めている翠。
その横顔は相変わらず無表情で、冷静で、どこか遠い。
(だめだ、今日言わないと……)
決意を固めて、栞は立ち上がる。
「ね、ねぇ、翠さん……」
「ん」
「この前の……助けてくれた、あれ……本当に、ありがとう」
「……ああ」
「……怖かったけど、あのとき、翠さんが来てくれて、ほんとに、救われた……から……」
自分でも分かるほど、声が震えていた。
「……それと、その……あの、もし、えっと──」
言葉が詰まる。
この先を言えば、絶対に何かが変わってしまう気がした。
(でも、それでも──)
「……私、翠さんのこと、たぶん──」
その瞬間だった。
「……言わなくていい」
翠の低い声が、遮った。
「え……?」
「そういうのは、いらない」
「……ど、どうして?」
「俺はお前に何も期待してない」
静かな声だった。
怒ってもいない。冗談でもない。
ただ事実のように、感情を排した声音だった。
「お前が死にかけてたから助けただけだ。俺にとってお前は──ただのバディだ」
「……っ」
頭が真っ白になった。
(……なんで……?)
身体の芯が、急に冷えていく。
ペンダントを握る手に力が入る。
「……でも、あのとき、“それ以上だ”って──」
「あれは錯覚だ。お前が“死にかけてたから”そう言っただけだ」
「……ひどい……」
栞は呟いた。
視界が滲む。涙が頬を伝うのを止められない。
「わたし、感謝したかっただけ。ちゃんと伝えたかっただけ。……それなのに、そんなふうに言われたら……」
翠は、視線を逸らしたまま、何も返さなかった。
栞は立ち上がる。
ゆっくりと、けれど確かに。
「……わかりました」
たったそれだけを言って、寝室の扉を閉めた。
***
その夜。
栞はずっと、ベッドの上で眠れずにいた。
思い出すのは、あの密室の中。
抱きしめてくれた腕。額を当ててくれたぬくもり。
誰よりも信じてくれた“共犯者”の声。
(……なんで、あんなふうに突き放すの)
(嘘なら、もっと優しく嘘をついてほしかった)
枕元のペンダントを握りしめ、
栞はようやく、ひとつの答えにたどり着く。
──たぶん、あの人は。
自分に誰かを“想わせる資格”なんてないって、そう思ってる。
冷たく突き放すことで、誰も傷つかないようにしている。
でも──それが、いちばん傷つけてる。
***
一方、リビング。
ソファの上で眠らずに座る翠は、机の上の“ガーベラの花”をじっと見つめていた。
その色は、少しずつ萎れていた。
「……わかってる。あれは俺の方が、ずっと卑怯だ」
つぶやいた声は、誰にも届かない。
想いを受け取る勇気がない。
受け取ってしまえば、もう“壊せなくなる”。
そんな自分が、何よりも怖かった。
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