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空色を見て思わず夢想を描いてしまった。そんなことは現実に起こったりしないのに。
邪な思考を遮るように低音のバスドラムから響くSE(sound effect)が流れた。
途端に一際大きな歓声が上がった。ファンが一斉に興奮する。
音響は最高なので、モリテンがPAをやっていると確信した。相変わらずいい腕してる。
最高のサファイアの音をファンに届けるつもりだろう。
派手な曲調に切り替わり、ドラムの氷室紫月が鎖をジャラジャラ付けたレザーベストの衣装姿で現れステージ上で吠えた。合い十分だ。ファンもそれに応えるように雄叫びを上げた。
続いてベースの西谷太一が現れた。彼は客席に向かってガッツポーズを見せる。女性ファンが多いバンドならここで黄色い声援が飛ぶが、サファイアはどちらかと言えば男性ファンの方が多い。メタルバンドあるあるだろう。タイチー、と野太い声が客席から上がった。
最後に旦那と山根明夫が同時にステージへ現れた。
「みんな、今日は来てくれてありがとう! 悪い、今日のために練習しすぎて、右手腱鞘炎になってしまったぜ! その代わり、俺の右腕に今日は弾いてもらう。みんな、覚えてくれ。光貴!」
山根明夫が叫んだ。
サファイアのメンバーに合わせて、真面目そうな旦那が着そうな白の袖が幾重にも付いたデザインカッターシャツに、黒のブーツカットのレザーパンツに合わせた厚底のパンクブーツ。物怖じせず旦那はステージ中央に進み、山根明夫の得意リフを弾いて挨拶した。
光貴ー、と野太い声が飛ぶ。更に女性の歓声も上がった。
へえ。野太いサファイアに旦那みたいな線の細いのが入ったら、女性の人気は獲得できそうだな。このライブの成功次第で、正式メンバー加入の打診が入るだろう。顔に似合わずギターの出音は太くてしっかりしてる。想像を裏切り、とてもいいギターの音色に心が高揚する。今からどんなギターを聴かせてくれるのか楽しみになる。
会場がむせ返るような熱気で包まれた。ああ、これこれ。久々の空気。十代の頃はこの空気の中で生きていた。ずっと触れていなかった空間・匂い・爆音。やっぱり俺はこの雰囲気が好きや。
しかもこのライブハウスはモリテンがメンテナンスしていて、コンディション最高のいい機材。それを日本屈指のPAである彼が音響を担っている。贅沢極まりない空間――
金と引き換えに捨て去ってしまった思い出を噛み締めた。
隣には空色がいて、こんなに素晴らしい音に包まれるなんて。
生きていれば人生の中で最高だと思える瞬間に立ち会えることを、初めて知った。
旦那がヘルプ加入したサファイアの音は野太いだけでなく、メロディアスで美しい旋律を奏でていた。この音は心に刺さる。メタルは売れるには難しいジャンルだけれども、それを超越できそうな予感がした。粗削りなところも多々あるけれど、素晴らしい演奏に胸が震えた。
立て続けに体の芯から痺れるような重低音を聴かされた。暫くすると空色が俺の方に凭れかかってきた。
「律さん、大丈夫ですか?」
「ちょっと気分が優れなくて……」
バーカウンターの端の薄暗い照明が彼女の顔に当たって見えた。相当気分の悪そうな顔だった。
酸欠か?
空色が倒れたりする前に早く連れ出さないと!
「いけません。すぐに外へ出ましょう!」
「大丈夫です。少ししたら治ると思いますので……」
「無理はせず、とにかく一旦外へ行きましょう」
俺はしっかり空色の手を握り、謝罪を連呼しながら入口へ向かった。爆音の溢れるホールを出てすぐ外に設置されているベンチへ空色を座らせた。
「ごめんなさい、新藤さん。もう、戻ってください。気分が良くなったら、ホールにまた入りますから」
「何をおっしゃっているのですか。律さん、顔色悪いですよ。今日はもう帰りましょう。送りますから」
ライブは惜しいけれど、それよりも具合の悪い空色が心配だった。
「そんなのダメです! せっかくきてくださったのに、私のせいでライブが見れなくなるのは……」
「ライブよりも、律さんの体調の方が大事です」
ライブを見ることは、自分の気持ち次第でいつでもできる。昔を思い出したくなくて俺がわざと避けていただけだから。
けど、これからは俺も前を向いて過去を振り返らずに生きて行こうと思った。また、彼らのように自由な音を奏でたい。俺も歌いたいと心が音に共鳴している。輝く彼らに俺が向けたのは羨望の眼差しだった。
「丁度近くの駐車場に私の車を停めていますから、ご自宅まで送らせてください。いいですね?」
俺はつい思わず鋭い目線を送り付けてしまった。
これは、惚れた女の記憶に留まりというただの我儘ゆえの行為。
マイクを置いた俺が、再び舞台で歌いたいと思う日がくるとは思わなかった。
だから今はできなくても、いつかまたこの空間で生きていけるように努力しよう。モリテンにも会って話したい。今なら過去の昔話に花を咲かせるのも悪くないかな。
「歩けますか?」
「は、はい」
「私の肩に掴まって下さい。凭れて下さって構いませんから」
空色を抱えるようにしてアウトラインを後にした。