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#溺愛
ゆゆ

45
460
#成り上がり
aohana
1,436
「……鷹臣様」
その名を呼ぶ唇が、歓喜に震えた。
迎えに来てくださった。
鷹臣様が私を。
あぁ、こんなことを考えている場合ではないのに、うれしくてたまらない。
物置の暗闇で、いつか誰かが扉を開けてくれるのを夢想していたあの日々。
その夢の先にいたのは、間違いなくこの人だったのだ。
「動くな」
班目は千歳のすぐ傍に立ち、抜いた軍刀の切っ先を細い喉元へ向ける。
ピタリと足を止めた鷹臣は獣のような唸り声を漏らした。
「千歳を離せ」
地底から響くような、低く重い声。
鷹臣の纏う空気が物理的な質量となって、洞窟内の酸素を奪っていく。
先ほどまで余裕の笑みを浮かべていた班目も、本能的な恐怖に顔を引きつらせ、軍刀を握る手がわずかに震えた。
「おまえの望みはなんだ?」
「あんたに俺と同じ苦しみを味わわせること」
「それは、あなたが『班目』の姓を名乗ることと、何か深い関わりがありますか?」
気配もなく鷹臣の後ろからスッと現れた森部に、班目が一瞬怯む。
「森部さん。この方は、班目勲さんのご子息だそうです」
千歳の言葉を聞いた森部は、眼鏡の奥の瞳をわずかに細め、班目の顔をじっと観察するように見つめた。
「班目勲大将にご子息はおりません」
「非嫡出子は認めないなんて、お貴族様らしい血も涙もない発想だな」
「いえ、認めないのではなく、生物学的に『存在しない』のです」
森部は下がってもいない眼鏡のブリッジをグイッと押し上げる。
「班目勲大将は戦傷が元である病を患い、生涯子を為せぬ身体でした」
軍医の正式な診断であり、大将自身も公言していたと森部は淡々と告げた。
「嘘だ! 貴様、神楽坂に買収されてデタラメを言っているんだろう!」
「班目勲大将はあなたを息子だと認めましたか?」
森部の指摘に班目はギリッと奥歯を鳴らす。
「班目勲大将は誰もが憧れる英雄でした。それゆえ、大将の種を宿したと偽り、後妻の座を狙う女は掃いて捨てるほどおりました」
「黙れ、黙れ! 俺は息子だ! あのお方がそう言ったんだ!」
動揺した班目の軍刀の先が大きく揺れ、千歳の首に近づく。
千歳はとっさに顔を刀ではない方向に背けた。
「転がれ!」
鷹臣の指示に、千歳は自由な両足で力一杯地面を蹴り、必死に身体を横へと転がす。
後ろ手に縛られた腕に己の全体重がのしかかり、鈍い衝撃と激痛に息が止まった。
もっと遠くへ。
頭では理解していても、自由を奪われた身体は思うように動かない。
「小癪な真似を!」
獲物を逃した班目が、狂気に血走った目で千歳に刀を向ける。
千歳の首に触れるよりも早く、鷹臣の軍靴が班目の胸元へ叩き込まれた。
肺腑を潰さんばかりの一撃を受けた班目の身体は吹き飛び、数メートル先の壁に激突する。
「ぐっ……」
班目は崩れ落ち、手放された軍刀が甲高い音を立てて転がった。
「千歳! よく動いた」
鷹臣がすぐに千歳の手首を縛り付けていた忌々しい縄を軍刀で断ち切る。
解放された赤紫色の痛々しい両手を、鷹臣は包み込むようにそっと掬い上げた。
「痛むか? ……すまない」
苦しげに顔を歪めながら鷹臣は千歳の手を自分の頬に押し当てる。
千歳は凍えていた身体が芯から解けていくような感覚に瞳を潤ませた。
千歳の傷ついた手首に鷹臣はそっと唇を寄せ、冷え切った指先を自分の吐息で温めるように丹念に口づけていく。
そのあまりに献身的で甘い仕草に、千歳は気恥ずかしさと愛しさで胸がいっぱいになった。
自分を案じてくれる人がいるという奇跡のような幸せは、私が得られて、あの人が得られなかったもの。
あの人にも、この幸せが訪れればいいのに。
千歳は鷹臣の腕の中で、壁際に力なく座り込む班目を悲しげに見つめた。
「あなたはなぜ班目勲の名で斎宮家にお金を振り込み続けたのですか?」
森部は班目を拘束しながら、苦悶の声を上げる班目に問いかける。
「……なんのことだ?」
「彼女の誕生日に毎年……」
「俺があの女の誕生日など知るはずがない」
自分の誕生日さえ知らないのに、そんなものには興味がないと吐き捨てるように言い放った班目の言葉に、森部と鷹臣は顔を見合わせた。
「……鷹臣様、お金を振り込んだとはどういうことですか?」
初めて聞く話に千歳は困惑する。
「千歳が18歳になるまで、毎年かかさず誕生日に班目勲の名で斎宮家に金が振り込まれていた」
「18歳……?」
以前、18歳の誕生日に鷹臣との縁談を持ちかけたと鳳夫人はおっしゃっていたけれど、これは偶然なのかしら……?
「振り込みは大将が亡くなった後も続いていました。大将の名を継いだと豪語する貴方が、何らかの意図を持って動いているのかと推測していたのですが……」
「俺には一銭の金も、一言の愛も残さなかったんだぞ!」
「それはあなたが大将の息子ではないからでしょう」
いい加減、余所者だと認めるべきだと森部は冷酷に告げる。
「そんなはずはない! あのお方は極秘の家系図を見せてくれた。そこにはちゃんと」
自分が存在していたと、班目は血走った目で森部を睨みつけた。
「あのお方とは誰ですか?」
「……名前は、知らない。軍の偉い人としか……」
だが、自分を日陰から救い出し、復讐する力をくれたのはその人だと、必死に語る班目の声が洞窟の壁に虚しく反響する。
森部と班目のやり取りを聞きながら、千歳は鷹臣の軍服の胸元を、縋るように強く掴んだ。
班目勲の名で、私に金を送り続けていた人物。
班目に偽の家系図を渡し、私を誘拐させた人物。
その両者が同一人物だとしたら、自分は愛されて生かされていたのではない。
もっと別の、誰かの大きな目的のために「保存」されていたのではないかという底知れない不安が千歳の中によぎった。
「ひとまず、ここから出ましょう」
班目の尋問は地上に出てからだと言う森部の言葉に、鷹臣は同意する。
「立てるか?」
「はい」
千歳は鷹臣の腕を支えに、ゆっくりと立ち上がろうとした。
だが、冷え切った身体は言うことを聞かず、がくりと身体が崩れそうに。
鷹臣の逞しい腕が千歳の腰を抱き寄せてくれたおかげで、千歳の身体は地面への逆戻りを防ぐことができた。
「鷹臣様」
鷹臣の外套を肩に掛けられた千歳が胸元で小さく名を呼ぶと、鷹臣は「どうした?」と千歳の顔を覗き込む。
「助けに来てくださって、ありがとうございます」
鷹臣は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに千歳の額に自分の額をこつんと預けた。
吐息が触れ合うほどの距離で、鷹臣は切なげに目を細める。
「もう、片時も離したくない。おまえを腕の中に閉じ込めて、一生外には出さぬと言ったら、おまえは俺を嫌いになるか?」
少し意地悪く囁かれた千歳は、ぽすっと鷹臣の胸元に顔を埋めた。
「……嫌、じゃないです。……ずっと、鷹臣様のおそばにいたいです」
消え入りそうな声で答えると、鷹臣は満足げに千歳の髪を何度も愛おしそうに撫でる。
背後から響いた森部の当てつけのような咳払いに、二人はようやく我に返った。
「空気を読め」
「神楽坂邸の寝所で思う存分どうぞ」
冷静すぎる森部に鷹臣は溜息をつく。
「鷹臣様、早く帰りましょう」
「それは期待しているということか?」
「ち、違っ」
林檎のように真っ赤に顔を染めながら慌てて視線を泳がせる千歳の腰を、鷹臣は逃がさないと言わんばかりにぐいっと引き寄せながら笑った。
「帰るのには少しばかり時間がかかる」
「出口が遠いのですか?」
「いや、ここは富士だ」
「富士?」
義妹の百合子が「一度は避暑に訪れてみたいものだわ」と夢を語っていた、帝都から遠く離れた霊峰・富士?
物置の隙間から、遠くに霞む白い山頂を眺めることしかできなかった千歳にとって、ここは御伽噺の中のような遠い場所だ。
「いつの間にこんなに遠くまで……」
「帝都からは、馬車を飛ばしても優に一日はかかる」
「では、私は一日眠っていたということでしょうか……?」
神楽坂邸で気を失ってからの記憶がない千歳は、そんなに時間がたっていたことに驚いた。
「ここは富士の中でも氷穴と呼ばれる禁足地です」
ここは、地上の喧騒が嘘のように静まり返った天然の牢獄。
奥へ行けば、天井からは鋭利な氷柱が牙のように突き出し、壁面は幾重にも重なった氷の層に囲まれるのだと、森部は足元を照らしながら千歳に説明してくれた。
「これでもかなり入り口付近ですが」
この場所でも吐き出す息は真っ白に凍り、吸い込む空気は肺の奥を突き刺すほどに冷たい。
奥はもっと寒いのだろうと想像しただけで、千歳の身体はブルッと震えた。
「寒いだろうが、もう少しの辛抱だ」
抱えてやりたいが、岩場は無理だと鷹臣は謝罪する。
「大丈夫です。真冬の物置くらいの寒さなので」
千歳は平気だとアピールしたつもりだったのに、鷹臣のつなぐ手が強くなり、返事を失敗したのだと気付いた。
足元は寒いが、借りた鷹臣の外套は温かい。
つないだ手も温かい。
「屋敷に着いたら温めてやるからな」
耳元で囁かれた千歳は二人きりの寝所、灯される蝋燭、そして今よりもずっと深く重なるであろう鷹臣の体温がよぎり、あまりの羞恥に頭から湯気が出そうなほど赤くなった。
「まずは休ませるのが先決です」
前を行く森部が、一切振り返ることなく事務的な声で釘を刺す。
その隣で、班目が「反吐が出る」とでも言いたげに、地面を強く蹴りながら足枷の鎖を鳴らした。
「班目殿、あなたはどうやってここまで千歳さんを運んだのですか?」
班目は森部の質問には答えず、足取り重く歩いて行く。
「なぜ、この場所を選んだのですか?」
森部の淡々とした問いは、壁に冷たく反響するだけ。
班目は何も答えなかった。
いや、答えられなかった。
「……が……っ」
異変に気づいた鷹臣が、千歳を庇うように一歩前へ出る。
突然、班目は喉を引き攣らせたように苦しみ出し、千歳の目の前で膝から崩れ落ちた。
コメント
1件
あ〜もう、今回もすごく良かったです……! 千歳が鷹臣に助けられて、縄が解かれて、あの手首にキスして温めるシーン、甘すぎて胸が痛かったです。でも班目の正体が「大将の息子ではない」って森部さんにバッサリ切られてからの、謎の「あのお方」の存在——これは伏線ですよね。お金を振り込んでた人と班目に偽の家系図を渡した人が同一人物だとしたら、千歳は誰かに「保存」されてたってことになる……。設定の裏側が気になって仕方ないです! 続き、待ってます!