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#3
薄暗く、ジメジメとした地面を踏んづける。彼は今までに感じたことのない憂懼で震えていた。いつ死んでもおかしくない状況の中で、この扉の前に居る。
「……開けるのか?」
彼が焦らされたように耳打ちで訊いた。暫くは静寂に包まれ、返事すらも無かったものの、急に大声を出した。
「開けろ」
訛ったイギリス英語が階段に響く。瞬発的に、彼は扉を開いた。途端に喫驚して眼を精一杯見開いた。後ろからクツクツと笑い声が聞こえてくる。
「パローマは強いよ。だって、軍学校出身で特別訓練も受けてるんだから」
獅子の刺青を入れた男が、パローマに首を絞められていた。手脚はダランと伸ばして、白目を剥いている。そして、泡を垂れ流している様は惨めそのものだった。
彼は動揺を隠しきれずに立ち竦んだまま、周囲を見回した。割れた混合酒。飛び散る赤葡萄酒。硝子の破片が地面を覆っていることが一目で分かった。だが、吉木は破片を踏みつけて慣れた表情を浮かべている。
「じゃあ、酒。グル君と僕が飲める様な混合酒を奢って欲しいな。ステアで」
パタリ。男を離すと、扉の鍵を閉めて裏側へと回った。綺麗に並べられた酒の中から厳選していき、軽く掻き混ぜると、グラスに注ぎ込み、仕上げにはオリーブを入れていた。この時点で良い香りが漂う。
「マティーニ、久し振りに見た。二年前に一度だけ飲んだことがある」
彼は渡されたグラスを持ち、カラリと傾ける。隣では吉木がクスクス笑いながらオリーブを口に入れていた。
「良いセンスしてるよね。僕、マティーニが一番好きなんだよ。その次にマルガリータ」
急に傾けて、味を楽しむ様子もなく飲み干す。彼は勿体ないと思いながら、舌の上で味を確かめる。爽やかな苦味が口の中に広がり、ハーブの複雑な風味は鼻にまで広がる。飲み込むことが名残惜しかった。
「……よりによって、何故マルガリータ? もう少し王道な混合酒があるだろ」
溜息と共に言葉を吐けば、吉木が眼を見開いて喫驚している。奥深い涅色の瞳には軽蔑を含んだ笑みが見えた。
「混合酒言葉ってあるんだよ。酒好きそうなグル君が……まさか何も知らないなんてね。意外だよ。驚いた」
クスクス。
また声を立てて「赤葡萄酒」とパローマに言い放つ。舌打ちの返事が返ってきた。数分は何も喋ることなく、淡々と飲んでいたが、突然グラスを置いた。
「グル君はさ、名門大学に入って普通に生活してきたんでしょ。勉強して、医学部入って。……本当にそれだけだったのかなって」
「……何が言いたい? 俺は友達も彼女も居ない生活で勉強だけしてきたんだ。お前が犯罪を犯してタイに行ったから、たった一人で地獄のような四年間を……」
思い出してガタッと肩を落とす。彼にとって大学時代は地獄そのものであった。孤立したまま勉強に明け暮れ、論文を書き終えたとしても褒められることなんて殆どない。
「だろうね。君は女と話すときも堅苦しいから好かれることはないだろうし、唯一近寄ってくる女は金目的だろう。でも、僕とタイに来て訓練をしていれば共に高め合えた。惜しいことをしたなぁ」
「お前が俺の何を知ってんの」
彼が癪に障ったように睨む。それでも、吉木は軽く流してヘラヘラとしていた。
「逆に、お前は? タイで過ごした数年間は楽しかったのか?」
グラスを軽く傾けて、ジッと吉木の眼を見た。すると、それに応えるかのように顔の向きが此方を向く。冷淡とした光は一瞬にして消え落ちたものの、その残像は薄っすらと残っている。一瞬だけ、彼は動揺した。
「僕が殺した人は、海外の犯罪組織と関与していた男だよ。しかも、優秀な功績を残した学生らの個人情報を丸々売るクズの集い。そこには危険な薬とか、銃器なんかも売られていて無法地帯になってた。僕は偶然、そういう危険なサイトに興味半分で入り込んでいたんだけど、学校の情報とか色々載っててさ。面白いなーって全部見てたんだよ。そしたらね、グル君と僕の情報が人気らしいのか高値で売られてたんだ。僕の情報だけならいいけど、グル君とか学校の情報販売されてるのは気味が悪いじゃん? だから、その主を特定してみたんだ。パソコンと一日中向き合って、凄く頑張った。その結果、住んでる所が地元だったんだ! 僕はすぐに向かって話をつけようとしたけど矢張り無理。拳銃構えられてさぁ〜……でも僕、挌闘技やってたし玄関で拳銃奪ってたのもあって勝った。でも死んじゃって……証拠隠滅で風呂場に持っていって部屋を掃除して……指紋なんかを消したあと燃やしたんだ。ド田舎にある一軒家だし周囲に家もないから、すぐに出て行って服屋で服買って出てきて、そしてロンドンに帰った。
んでね、ふとパソコン開いたら、パローマからメッセージが入ってて、見てみたらこの業界への誘いだった。面白そうだしオーケーって答えてたら、突然タイに来いとか何とか言われてグル君に別れを告げるために走って行ったんだよ。でも寂しいから片目が欲しくて、カッターを忍ばせたまま来た。どう?」
はぁと一つ溜息を吐いて、ニッコリする。彼は呆気にとられて口を開けていた。情報を守るために殺害したのだろうか、と考えては複雑な気持ちになる。好奇心での殺人だと推測していたものの、大外れだったらしい。
「しかし、何故その業界に誘われたんだ?」
「それはね〜」
パローマが椅子を回転させて彼に近づく。待ってましたと言わんばかりの笑みが輝いていた。
「あのサイトに侵入するためには、暗号をクリアして、その他のウイルスに耐えなきゃいけないのよ。その為に違うウイルスで攻撃して、隙間を狙って入り込む猛者も居ればハッキングでどうにかする力技もある。まぁ、浦は後者かな〜。それに、投稿主の情報を調べ尽くしたのも凄いし、その技術力を必要としたかった。あとは人数不足だからスカウトしたかったってわけ。そしたら大成功! 大当たりだったわ〜」
ウイスキーを豪快に飲むと、満足気に瓶を机に叩きつける。彼は酒豪だなと苦笑しながらも、その風景を眺めていた。
周囲が暗闇に包まれ、暗殺者の活動も活発になる頃、彼は思い切り酔っ払っていた。だが、暴れるわけでもなく、ただ顔を赤らめて全身の力が抜けている。
「パローマって沢山の男と寝てそうだよな」
突然、そんな言葉が口から飛び出した。パローマは茫然とした様子を見せた後に、ゆっくりと口角を上げる。
「沢山の男と寝るのは仕事上で、だな。個人的な関係だと吉木と寝たわ。遊びだけど、お互いに溜まってるから発散してたって感じ。アンタが来たから発散相手が増えてよかったわ」
目尻を下げて笑う。この女は、常に表情に愛嬌があり色気があった。不気味なほどに完璧で芸術作品のようにも見えてしまう。そのモナ・リザのような美貌が世の男らから注目を集めているのかもしれない。彼はそう思うと同時に『演技だと分かる笑み』が不快で仕方なかった。
「来る場所を間違えてしまったかもしれない。お前みたいな女タイプじゃないのに」
「ガキだった頃の吉木と全く同じ言葉。そーんなこと言ってる奴がヤクにハマって女と関係持つのよ」
「アホ浦と俺は違うし、お前なんかと関係を持つほど女に飢えていない。勘違いするな」
眉間に皺を寄せると、棘のある言葉を放つ。吉木がワッと立ち上がった。
「誰がアホだって?」
「お前だよ。薬なんかに入り浸って女抱いて……。恥ずかしくないのか」
「襲ってきたのはパローマだよ。それに、薬なしで暗殺業するなんて狂ってるからね。逆にグル君は薬なしで人殺せるの?」
静かに煌めく怒気の焔が見えた気がした。彼はその圧で酔いが覚めたように、身体を震わせた。
「……薬ありでも出来ないかもしれない」
ごめん、と謝る。やがて威圧感が溶け出して、高鳴っていた心臓の音も落ち着き始める。彼は安堵の表情を浮かべた。
「そろそろ寝ようか。グル君は僕の部屋でいいよね」
彼からグラスを奪い取り、パローマに渡した。彼は考えるかのように酒瓶を眺めている。
「ここではなくて、お前の部屋……」
「ああ。寝室があるよ。武器とか特殊な薬物も置かれてるから、あんまり触られると君が怪我する」
笑わずに言われ、本気なのだろうと察する。高めの椅子から降りると、パローマに挨拶してその場を後にした。長い廊下を歩いてゆき、奥から三番目の部屋に入る。扉は黒く、高級に見えた。中へ入ると赤い絨毯が敷いてあり、ベッドは白い。机は木で出来ていて、資料がドッサリと載せてある。パソコンの機械と、盗聴器の欠片のようなものが散乱していた。
「きったな……。掃除しろよ、机の上くらい」
「僕しか使ってなかったし。良いじゃんこれくらい」
彼がベッドに座り込んで舌打ちする。それを聞き逃すわけもなく、吉木は静かに溜息をついた。
「いつまで反抗期なんだよ。僕も君も立派な大人だろ」
「誰のせいでこうなったんだろうな」
自分の高校生活を思い返し、ぐっ……と毛布を握り締める。何度、コイツに殴られただろうか。資料の白紙を視界に入れるだけでも、吐き気がした。