「こ、こんなっ。一気に色々もらえませんっ」
デパートの、名前だけは知っているけれど自身では一度も店内に足を踏み入れたことのないような高級アパレルブランドの一角。
天莉は泣きそうになりながら、尽からのてんこ盛りのもてなしを断った。
もらえないならば自分で買えばいいのだけれど……こんなものを天莉の薄給で買ったら一ヶ月分の支給額はおろか、貯金もみんな食いつぶしてしまう。
「いや、そういうわけにはいかないよ、天莉。店員たちも持ってきてくれたものは全部、キミに着せる気満々だ。それに――」
そこでスッと天莉の耳元へ唇を寄せると、尽が天莉にだけ聞える声音で『何より俺が、俺好みに着飾ったキミを脱がせる楽しみが得られるからね』と吹き込んでくる。
男性が女性へ服を贈る時には、『それを脱がせたい』という意味も含まれていると、昔観た恋愛ドラマで言っているのを聴いたことがある天莉だ。
でも、知っているのと実際に言われるのとでは大違い。
「なっ!」
――何をバカなこと!
続くはずだった言葉は、発する前にククッと笑う尽の嬉し気な表情にもみ消されてしまった。
入籍までは手出しをしないと言ったのと同じ口で、尽がそんな艶めいたことをサラリと発してくるから、天莉は翻弄されまくり。
そのことが悔しくてたまらなかった。
「――まぁ冗談はさておき、キミは俺の婚約者だ。それなりのモノを身に着けてもらわないと、俺が叱られてしまうって思わない?」
恐らく尽の頭の中には幼なじみで悪友で……その上超絶優秀な秘書様――伊藤直樹――の顔でも浮かんでいるんだろう。
実際にはそれだけではなかったのだけれど、勝手にそう思ってしまった天莉だ。
確かに、自分たちの関係を誰一人として公表していない状態ならば、『誰も知らないんだから問題ないです』と言い切ることが出来ただろう。
でも――。
(課長が知ってる……)
天莉へ不当なパワハラを仕掛けてきていた総務課長の風見斗利彦を牽制するため、彼には二人の関係を公言してしまっている。
尽が、『口外するなと釘は刺しておいたけれど、江根見部長の耳には確実に入っているだろうね』と言っていたことも覚えている天莉だ。
尽の執務室を出た直後の、風見の動きを鑑みてもそれは真実だろう。
(うーーーーっ)
心の中で唸ってみたところで、そうなると尽が言う通り。
自分が余りにもお粗末な格好をしていたら、〝高嶺尽の価値〟を下げることになりかねない。
それは絶対に嫌だと思った天莉だ。
天莉は尽を恐る恐る見上げると、「だったら、ひとつだけ……」と渋々ながらつぶやいていた。
なのに。
「は? 一着だけ? こんなに見繕ってもらったのに?」
最低でも三〇着は……とかバカなことを言い募る尽を、天莉はじろりと睨み上げた。
尽は、この店舗に今現在展示されているフォーマルな装いの大半を買い占めるつもりなのだろうか。
「着る予定があるのは、今のところ親睦会の日だけです。一着あれば十分なのに、そんな風に無駄遣いしても平気な人、私、嫌いです」
わざと「です」と語尾を丁寧にして、距離感を醸し出すような口調できっぱり突っぱねたら、「嫌い」と言う文言が効力を発揮したのか、尽がグッと押し黙った。
「……ねぇ、天莉。せめて十着――」
「聞こえませんでしたか? 一着だけです!」
くぅーん、と幻の垂れ耳と垂れしっぽを装着した尽に、だけど今回ばかりは天莉だって負けていられない。
何せここのブランドの服は、一着が最低でも五万円はくだらない品ばかりなのだ。
そんなものを何着も買われたらたまったものではない。
そもそもそんなに大量の服を持ち帰って、一体どこへ仕舞うの!?と口にしそうになった天莉は、尽のマンションがだだっ広かったことを思い出した。
そう。それこそ、収納スペースなんて作ろうと思えばいくらでも出来てしまえそうなほどに。
それに――。
そんな要らないことを口走ろうものなら、『じゃあ収納が沢山ある家に引っ越そうか』とか言い出しかねないとも思って。
(きっ、金銭感覚がめちゃめちゃおかしいのよ、尽くん)
天莉と両想いになってからの尽は、天莉のためと銘打って使おうとする金額の桁が世間様とは何桁もズレているのをひしひしと実感させられまくりの天莉だ。
(これだってそうだもん)
オーダーメイド品で返品が利かないと言われたから受け取りはしたけれど……。
左手薬指にキラリと光る、ダイヤと緑水晶(Prasiolite)があしらわれた指輪を見て、天莉は小さく吐息を落とした。
この指輪、実はプラチナの台座部分を横から見ると、猫の横顔としっぽが隠されている。
上から見る分には普通の婚約指輪にしか見えない細工なのだけれど、尽から造形の種明かしをされた天莉は、その愛らしさに思わず「可愛い」と心奪われて。ついうっかり受け取ってしまったのだ。
だが、後に鑑定書をぼんやり眺めていて、はまっている石が4C(重量・色・輝き・透明度)評価のかなり高い高額なダイヤモンドと、ある一定の鉱山でのみ産出される紫水晶を加熱処理することで得られる希少石の緑水晶だと知って、背筋にゾワリと鳥肌が立った。
当然一度受け取ってしまったものを、尽が返品させてくれるはずもなく――。
そればかりか、『天莉が受け取ってくれないなら意味がないし、別のものを用意し直そう』とか恐ろしいことを言い出したので、天莉は慌てて指にはめたのだ。
そんなこんなで、天莉は小金持ちだと尽が言った、彼のご両親の正体を知らされたら卒倒してしまうかも知れないと思っている。
***
会社主催の親睦会当日――。
「今日は俺、ずっと予定が入ってて天莉のそばに殆どいられそうにないんだ。だから……まぁ、出来ればで構わないんだが……その……なるべく俺の目が届く範囲へいるようにしてくれないか? ――ほら、時間が空いた時、俺がすぐにキミを捕まえられるように」
尽にしてはやけに煮え切らない吶々とした口調に、彼の不安な気持ちが伝染してくるようで、天莉もソワソワしてしまう。
今日は土曜日で、本来なら会社は休みだ。
だが、月曜が振替休日になる代わりに、午前十時からホテルの会場を貸し切って行われる親睦会には、仕事の一環として社員は全員強制参加のお達しが出ている。
親睦会とは銘打たれているけれど、要は取引のある業者の人間なども多数入り乱れての、いわゆる人脈造りも兼ねたパーティのようなものだ。
常務取締役という役付の尽は、当然平社員の天莉と違ってこなさねばならないことが多いらしく、檀上に上がって挨拶をしたり、取引先のお偉いさんたちの相手をしたりとやるべきことが山積みらしい。
当然秘書の直樹も、そんな尽のそばに付き従うとかで、天莉のそばに自分の息が掛かった者が付いていられないことを、尽は物凄く不満げにしているのだ。
「そんなに心配しなくても……私も、今までだって何度も親睦会には参加してきてる……よ?」
入社して五年。
新人の頃ならともかく、さすがにもう誰かに付いていてもらわないと不安……だなんてことはない。――と思う。
この、モヤモヤとスッキリしない、謂れなき胸騒ぎさえなければ、もっとスパッと言い切って、尽のくもった顔を晴らしてあげられるのに。
そんなことを思って、内心落ち着かない天莉だ。
(博視と別れて初めての親睦会だから、かなぁ)
この五年間、天莉は博視が嫌がるからと、博視以外の社員たちと仕事以外の関わりを持つことを極力避けるようにしてきた。
向こうから話し掛けられても、後に二人きりになった時、博視があからさまに不機嫌になるのが面倒でたまらなかったのだ。
気が付けば、天莉は仕事以外では取っ付きにくい女性として、社の中で浮いた存在になってしまっていた。
それでも通常業務においては何ら支障はない。けれど、今日のようなイレギュラーな案件ともなれば、話は別だ。
博視と別れたからと言って、突然皆の輪に入っていって話し相手を見つけることが、果たして天莉に出来るだろうか?
(きっと今更なに?って思われちゃうよね……)
この心のざわつきは、そう言う漠然とした不安もあるのかも知れない。
(……あ、そうだっ)
例年ならば天莉は博視対策も兼ねて、自らの志願で〝裏方側〟に徹していたのだけれど、今年もそうしたらどうだろう?
尽の動向が分からなかったので、いつものように前もって挙手していたわけではないけれど、手伝いたいと申し出れば、経験者の天莉はきっと歓迎してもらえるはずだ。
「尽くんが忙しいなら、今年も運営側のお手伝いをしようかな……?」
そんなことを思って何気なくつぶやいたら、尽から「それは承服しかねるね」と即座に駄目出しされてしまう。
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