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Side康二
ネオンの光が、ゆるやかに天井を這っていく。
俺の勤めるラウンジバーは、駅から少し離れた雑居ビルの三階にひっそりとある、ちょっと変わったバーや。
なにが変わってるって、スタッフも常連も、みーんな“あだ名”で呼び合うルールがあること。
本名は禁止──ってほどじゃないけど、誰も口には出さん。
ここでは“ほんまの自分”は一旦、ドアの外に置いていくのがマナーなんやって。
「コジくん、3番テーブルお願いね〜」
カウンターの奥、グラス拭きながら店長の“パンダさん”が軽く手を振ってくる。
ちなみに店長の名前も本名ちゃう。目がクリッとしてて黒ぶちメガネがトレードマークやから、パンダさん。めっちゃ緩いけど、それがこの店らしさでもある。
「はーい、行ってきまーす」
──コジ。
それが、この店での俺の名前。
本名は、向〇〇二。けどここでは、ただの“コジ”や。
スタッフ用の黒シャツに袖を通して、ネクタイを緩めずに整える。
片手にトレイ、心にはちょっとだけ余裕。
いつのまにかこの空気にも、ちょっとずつ馴染めてきた気がしてた。
このラウンジには、いろんな人が来る。
スーツ姿の疲れた人、カジュアルな格好のカップル、黙ってウイスキーを飲む一人客。
誰もが“ちょっとだけ違う自分”を演じにくる場所。
(……ほんまは、俺かてそうや)
夢があって東京に来たけど、現実は生活のために働く毎日。
でも不思議と、この“あだ名だけの世界”におると、肩の荷が軽くなる。
「いらっしゃいませ。お飲み物、お決まりでしたらどうぞ」
そう声をかける自分は、“康二”じゃない。“コジ”。
誰かに必要とされるって、悪くない。
──今夜も、けっこう混んでる。
「カシスオレンジひとつと、ジントニックね。あと……ピスタチオ、お願いしますって」
「はいよ、すぐお持ちしますー!」
手慣れた笑顔で注文を受け取りながら、内心は軽く息切れしてた。
グラスに氷を落とす音、リキュールの香り、パチパチと弾ける炭酸の気泡。
この店に流れる夜のリズムは、慣れれば心地いい。でも気を抜いたら、すぐ置いていかれる。
「コジくん、動きすごいね〜。慣れてきた?」
隣で同じくオーダーを組んでいた“ヒバリちゃん”が感心したように笑う。
まだ大学生っぽい彼女は、この店では貴重な癒し系ポジションで、ちょくちょく俺のフォローもしてくれる。
「いやいや、ヒバリちゃんがちゃんと受けてくれてるからやで。うちの連携、完璧やわ〜」
「え〜?なにそれ、めっちゃ関西弁でごまかした〜!」
軽く笑い合いながら、俺は出来上がったドリンクをトレイに載せてホールへと戻る。
立て続けに鳴るチャイムと、新しいオーダー票。今夜も、まだまだ終わりそうにない。
──でも、嫌いやない。
このバタバタした中で、自分がちゃんと機能してるって感じられるのは、悪くない。
「いらっしゃいませー!ご案内しますね」
次のチャイムが鳴ったのと同時に、俺は自然と笑顔をつくってエントランスへ向かう。
深く一礼して、視線を少しだけ上げる。
(……ん?)
入ってきた人影が複数人分。
そこには、スッと背筋の伸びた男の人が数人立っていた。
ビシッと決まった黒いスーツ。
ラウンジを“楽しみに来た”って雰囲気やない。どっちかいうと──なんやろ、打ち合わせとか、ちょっとした商談の延長線みたいな、空気をまとってる。
(あんまりここの客層っぽくないな……)
でも不思議と、その立ち姿にどこか“懐かしさ”がよぎる気がして。
すぐにそんな感覚を振り払いながら、俺はいつもどおりのテンポで案内を続けた。
「お席、こちらになります〜。ごゆっくりどうぞ」
テーブルへの案内を終えて、俺はトレイを脇に置きながら、すぐにドリンクカウンターへ戻った。
いつものように手を動かす。ライムを搾り、ミントを軽く叩く。リキュールの瓶を持つ指先は震えてなかった──ように見せてたけど、心は、ザワザワしてた。
(……なんやろ、今の人)
妙に引っかかる。
だからもう一度、こっそり顔を上げてさっき入ってきた集団を見た。
黒いスーツに、無駄のない所作。
商談を始めたようで、誰かが資料をテーブルに並べ、軽く会釈を交わしている。
その中のひとり。
……その、右端に座ってる人。ゆっくりと頷いてる、その横顔。
(──え)
心臓が、ドクンと跳ねた。
長い睫毛に、涼しげな目元。
スーツの上からでも分かる、あの、姿勢の良さと肩幅。
……見間違えるはずがない。
「え……なんで」
思わず、手に持ってたマドラーがカランと音を立ててグラスの中に落ちた。
ヒバリちゃんが「だいじょうぶ?」と声をかけてくれたけど、返す余裕もない。
(あかん……マジで、あれ……目黒や)
学生時代、一緒にいて、でも結局気持ちを伝えられへんかった人。
卒業と同時に、連絡も自ら絶った。あれから何年も経ってる。
まさか、東京で。よりにもよって、自分が“コジ”として働いてるこのラウンジで再会するなんて──
「うそやろ……!」
グラスを棚に戻すフリして、俺はさりげなく体を背けた。
視線を伏せて、頭を下げて、なるべく顔を見られへんようにする。
店の中は照明が落ちてて、顔までちゃんとは見えへんはず。でも、声を聞かれたらアウトかも?。
(こっち来るなよ……頼むから、気づかんといて)
必死で気配を消す。
あいつに、気づかれるわけには──いかへん。
俯いて、顔を隠すようにして立ち尽くしていたら、すぐ隣から小さな声が飛んできた。
「……コジくん、何してるんですか?」
「え……いや、その、あの……」
しどろもどろ。
咄嗟の言い訳なんて浮かばへん。俺、こんなにテンパるタイプちゃうかったやん……!
でも、頭の中が目黒で埋め尽くされてて、考える余裕なんてまるでなかった。
そんな俺の背中に、ひょいっと軽く手のひらが当てられる。
「遊んでないで、さっきのお客さんのオーダー取ってきてください〜」
ヒバリちゃんの明るい声。
まさか目の前に地雷が埋まってるとは知らず、純粋に押してくるその手が、今は地獄のスイッチにしか思えん。
「……え、うそやん、いや、待って、あの人は……!」
でも、言い訳なんてできるはずもなくて。
俺はそのまま、逃げ道をふさがれたままの状態で、トレイを取り直す。
(あー……どうすんねんこれ……マジで気づかれてへんよな?いや、まだ名前も顔も、はっきりとは……)
そんな願いを飲み込みながら、俺は重い足を引きずるように、その席へと向かっていった。
覚悟を決めて、俺はトレイを持ったまま、静かにあの席へと歩いていった。
緊張のあまり足元がふらつくような気がして、でも笑顔だけは貼りつけて。
「いらっしゃいませ。お飲み物、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
グループは全部で四人。
全員黒いスーツで、明らかにビジネスモード。名刺を交わしながらも、ラウンジの雰囲気に適応しているあたり、慣れてるのかもしれん。
「生ビールを。あと僕はハイボールで」
「私はジントニックで」
「……ウーロン茶でお願いします」
その声に、思わずペンを持つ手がピクリと動いた。
……やっぱり、あの声、間違いない。
顔をあげたいのを必死でこらえながら、頭を軽く下げてメモを続ける。
「……飲まないのかい?」
先に頼んだ、いかにも上司っぽい雰囲気の人が、少し驚いたように彼に尋ねた。
すると──
「はい。商談中は飲まないって決めてるんです。集中できなくなるので」
「へぇ、えらいね。最近の若い子には珍しいよ」
「ありがとうございます」
(……あぁ。真面目なとこ、変わってへんなぁ)
そのやり取りを聞きながら、胸がじんわりと熱くなる。
学生時代から、あいつはそうやった。まっすぐで、律儀で、ちょっと融通がきかへんくらい真面目で。
(変わらへん人って、おるんやな……)
胸の奥がチクリとしたけど、今はそれより、バレへんように任務を終えることが最優先や。
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
そう言って、そっと一礼して席を離れる。
足早にカウンターへ戻って、ようやく息を吐いた。
(……ふぅ。なんとか……気づかれてへん、よな?)
まだ、目は合ってない。声を聞かれたとしても、今の俺の喋り方はあの頃よりちょっと抑え気味や。
この照明の暗さも、今だけはありがたかった。
(このまま、気づかんといて……)
そう願いながら、俺はウーロン茶を慎重にグラスに注いだ。
表面張力ギリギリで止めて、ゆっくりとトレイに乗せる。
他のオーダーも手際よく準備し、深呼吸ひとつしてから再びあのテーブルへと向かった。
「お待たせしました。ハイボール、ジントニック、そしてウーロン茶になります」
順番に丁寧にグラスを置いていく。
声は震えてない。手元も大丈夫。
あともう少し、名前も顔も出さずにやりすごせば──
最後のグラスを置いて、トレイを胸に抱えて立ち去ろうとしたそのとき。
「……あの、すみません」
背後から、静かな声がした。
反射的に足が止まる。
──その声は、目黒やった。
「……はい」
おそるおそる振り返る。
心臓が跳ねる音が、耳の奥で響いた。
目が合った。
けど、その瞳に浮かんでいたのは──
「ビール、一本足りないみたいです」
「あ、すみません……すぐお持ちします」
それだけ。
名前も、何も言われへんかった。
俺を見ても、何の反応もなかった。
足早にその場を離れながら、胸の奥がじわっと痛くなる。
(……目も合ったのに、なんの反応もなかった)
期待なんか、してへんかったはずやのに。
気づかれたら困ると思ってたはずやのに。
実際にスルーされたら、こんなにも、虚しくなるんや。
(……気づかんといてって思ったくせに、気づいてほしかったんかな)
自分でもどうしたいのか分からへんまま、
俺はビールを一本、無言でトレイに乗せた。
──それっきり。
あの人はもう、俺を見なかった。
結局、何事もないまま時間が過ぎて、
気づけば、そのグループはいつの間にか会計を済ませ、帰っていった。
「ありがとうございました〜」
他のスタッフの声に混じって、俺も形式的に頭を下げる。
姿が見えなくなった瞬間、自然と肩から力が抜けた。
「……はぁ」
ほっとして、胸をなでおろす。
バレへんかった。
やり過ごせた。
──それでええ。
……ええはず、やのに。
(なんやろな……このモヤモヤ)
気づかれへんでよかった。
でも、なんであいつ、俺のこと分からんかったんやろ。
……あんなに、一緒におったのに。
(そら、何年も経ってるし、髪型も変わってるし、声も落ち着いた言われるし……しゃあないって分かってんねんけど)
けど、どっかで期待してた自分も、確かにおった。
──目が合ったとき、一瞬でも「……康二?」って言われるんちゃうかって。
自分で名乗りもせんかったくせに、都合よすぎるわ。
でもそれくらい、あいつのこと、ずっと心のどっかに置いてたんや。
(……アホやな、俺)
悶々と考えてたって、しゃあない。
あれはただの偶然の再会。
もう会うことなんか、たぶん──ない。
「はい、ラストオーダー入りまーす!コジくん、片付けお願い〜!」
「りょーかいっす〜」
声を張って返事して、気持ちを切り替えた。
―――――――――――――
──二度目なんて、ないと思ってた。
でも現実は、意外とあっさり裏切ってくる。
「いらっしゃいませー!」
笑顔で店内に目を向けた俺は、目の前に立つその姿に一瞬、時が止まった気がした。
(……うそやろ)
あのスーツ。あの顔。あの目。
(……また来た……!?)
信じられへん。
先週、一度だけ来た商談の客。
もう二度と会うことはないって、勝手に割り切ったはずの人が──今、たったひとりで店に立ってた。
そのまま、まっすぐカウンター席へ。
誰に案内されるでもなく、まるで慣れた動きで腰を下ろした。
そして、カウンターの内側にいる俺を見て、ふっと穏やかに笑った。
「こんばんは。この間来た時、ここの雰囲気とか……スタッフさんの感じも良くて。なんか、また来ちゃいました」
「……あ、そうなんですか。ありがとうございます」
ぎこちない笑顔が自分の顔に貼りついてるのが分かる。
内心はドッキドキ。でもそれを気取られたら終わりや。
「えっと……覚えてないですか?」
目黒が少し首を傾げて、俺を見つめてくる。
「この間、ここで会議してて。僕、ウーロン茶頼んだんですけど……あのとき、対応してくれたの、たしか……あなた、ですよね?」
「……あ、あ〜。そうですね。はい。たぶん、俺です」
なんとか笑って返す。
やっぱり、覚えてたんや。
でも──名前も言われへんし、あの頃の“康二”やとも気づいてへん。
「名前、なんて言うんですか?…」
「…“コジ”です」
「コジさん、か。なんか……似合ってますね」
「え、ほんまっすか?……いや、ありがとうございます」
とにかく、バレへんように。
余計なことは言わず、あくまで“コジ”として対応する。
それでも、あいつの視線がまっすぐで、やけにあったかくて。
(……なんやねん、こんなんズルいやろ)
カウンターの向こう、目黒はグラスの水をゆっくり傾けながら、落ち着いた声でぽつりぽつりと話す。
最初こそぎこちなかったけど、会話は不思議とスムーズに続いた。
「仕事帰りに、こういうとこ寄るのって……実はあんまりないんですけどね」
「へえ、意外っすね。なんか、こういうとこ似合う人っぽいのに」
「似合うって……いい意味で受け取っておきますね」
「もちろんええ意味ですよ!てか、こんな男前な人、うちの店で初めて見ましたって」
ぽろっと言ってしまってから、「あっ」となる。
カウンターの下で自分の指先がぴくっと動く。
「……いや、その、そういう意味ちゃいますよ!?いや、そういう意味もなくはないけど、ほら、なんていうか営業トーク的なやつでして!」
慌てて言い訳する俺を、目黒はちょっと驚いたように目を見開いたあと──ふっと笑った。
「……コジさん、面白いですね」
「うわぁぁぁ、ほんま、勘弁してくださいやぁ……」
顔が熱い。耳まで熱い。
こんな軽口、普段なら余裕でかわすのに。
なんでや、目黒が相手やとこんなグダグダなるんやろ。
「でも、ちょっと嬉しかったですよ」
「……え?」
「そんなふうに言われるの、あんまり慣れてないんで」
そんなこと、さらっと言うとかズルいって。
真面目で不器用やと思ってたのに、いつの間にそんな大人っぽくなったんやろ。
――――――――ふたりの会話がゆるやかに途切れて、グラスの中身も残り少なくなった頃。
目黒は時計を見て、静かに立ち上がった。
「そろそろ、帰りますね。……あの、また来てもいいですか?」
その声は穏やかで、でもどこか本気で俺の返事を待ってるような、そんな響きがあった。
「……はい。ぜひ、また」
それしか言えんかった。
それしか言いたくなかった。
「よかった。……じゃあ、また」
軽く手をあげて、目黒はカウンターから離れていく。
すっとした後ろ姿が、店のドアに吸い込まれていった。
──その瞬間。
俺の中で何かが、静かに、でも確かにざわつき始めた。
(……また、来る?)
さっきまでの会話が、ふと頭の中をリピートする。
『また来てもいいですか?』
『……はい』
『じゃあ、また』
(うわ、ちょ、マジで……また来るって言ったよな?)
さっきまで平静装ってたくせに、今になって心臓がドクドク言い出す。
顔には出さへんようにしてたけど、ほんまはずっとドキドキしてた。
そして今、帰ったあとになってその言葉がじわじわ効いてきてる。
(また、あの人が、ここに……?)
“お客さん”として。
そして、“コジ”としての俺に、また会いに来る──。
なんやろ。うれしいのか、怖いのか、分からへん。
でもたしかに今、心のどこかが、期待してる自分がおる。
(……あかんて、そんなん)
名前を偽って、素性も隠して、気づかれてないことに甘えてる。
そんな状況で、また会いたいなんて思ったら、絶対あとでしんどくなる。
──でも。
(また来てくれるなら……)
今度は、もうちょっとだけ、ちゃんと話したいと思ってしまった。
――――――あれから、本当によく来るようになった。
週に一度、時にはそれより頻繁に。
仕事帰りのスーツ姿でふらりと現れては、カウンターに座り、他愛のない話をして帰っていく。
いつの間にか、あの席は“あいつの席”みたいになってた。
俺も“コジ”として話すことに、だんだん慣れてきてもうて。
「……今日もウーロン茶ですか?」
「そうですね。商談じゃないけど、なんかクセになってきました」
そんな、なんでもないやりとりが、だんだん楽しくなってくる自分がいるのがわかる。
あの頃と同じ空気。変わらない話し方、素直な笑顔。
けど、どこか“大人”になった目黒の姿に、心がざわつく。
ある日、何気ない流れで、話題が学生時代の話になった。
「高校時代、すごく仲のいい子がいたんです」
「……へぇ。どんな人ですか?」
「すごく優しい人でした。……なんていうか、大事に想ってた人で」
目黒はグラスの中の氷を見つめながら、ふっと笑った。
でもその笑みには、どこか後悔のようなものが滲んでいた。
「一緒にいると落ち着くし、楽しいし……。ずっと一緒にいられるって、なんとなく思ってたんですよね。──でも、気づいたら、連絡が途絶えてて」
言葉を選ぶように、静かに目黒は続けた。
「……たぶん、俺が何も言わなかったから。大事に思ってるって、ちゃんと伝えなかったから」
困ったように笑う、その顔が苦しくて。
でも、俺は笑って返すことしかできへんかった。
(知らんかった。そんな人が、目黒におったなんて)
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
自分が知らんあいだに、目黒の中にそんな誰かがいた。
それが、誰かはわからん。でも、そんなふうに想える相手がいたってことが、ただ、少しだけ……苦しかった。
でも俺は“コジ”として、目の前のあいつに返事をするしかない。
「……でも、世界なんて狭いんで。もしかしたら、どこかでばったり会えるかもしれないですよ」
冗談めかして笑ってみせた。
本気やない。希望を抱かせるつもりもない。ただ、少しでも気が紛れたらええと思った。
──けど。
目黒は、それを聞いてふっと息を止めるようにして、ゆっくり俺の目を見た。
まっすぐに、真面目な瞳。
さっきまでの困ったような笑顔じゃない。
何かを探るような、でも優しい光を含んだ目で、俺を見つめてくる。
「……コジさんって、優しいんですね」
心臓が、跳ねた。
一瞬、息が詰まりそうになって、グラスを拭く手が止まる。
「あ……いや、そんな、大したこと……」
目を逸らすわけにもいかず、けど直視もできず。
まるで図られたように刺さった“優しい”の一言が、胸の奥で何度も響く。
(あかんて……そんな顔で、そんな言葉、言うたらあかんって)
このままじゃ、また期待してまう。
バレてへんことに甘えて、ずるい気持ちが大きくなってしまう。
“コジ”としてここにおる限り、俺は──本当のこと、言われへん。
「ところで」
「……はい?」
「ここって、休日とかありますか?」
予想外の質問に、手元のグラスをうっかり強く拭きすぎて、キュッと音が鳴る。
「え、まぁ……一応、曜日でシフト組まれてるんで、ありますけど」
「いつですか?」
「え……?」
質問がぐいぐい来る。
反射的に答えかけたけど、その先の話の流れがまったく読めず、警戒のスイッチが入る。
すると、目黒は少し照れくさそうに笑いながら、続けた。
「今度、うちで高校時代の同級生と宅飲みしようって話になってて。ちょっとした集まりなんですけど……」
「はぁ……」
「もてなしたくて。よければ、ラウンジで作るような、お酒を作ってくれる人、探してるんです」
──え。
「……えっと、それって……」
「よければ、コジさん、作ってくれませんか?もちろんお代はちゃんとお支払いします」
完全に、息が止まった。
(……ちょ、なに言うてんの!?)
家!?プライベート!?
その場の空気がふっと変わる。さっきまでとは違う距離感。
急に地に足がつかへん感覚に襲われた。
「あ、いや、それは……えぇぇ〜〜〜!?」
思わず、声が裏返った。
しかも“高校の同級生”って──もしその中に、共通の知り合いがおったら?バレる可能性、ぐっと上がるやん!
「……もちろん無理なら断ってもらって大丈夫です。あんまり無茶なこと言うつもりはなくて。ただ、なんかこう……ああいう雰囲気の人が作ってくれたら、場が締まるなって」
悪気がないどころか、本当に好意で誘ってくれてるんやろうなってのが、逆にしんどい。
でも、断ったら、変に思われるかもしれへん。
俺の正体に少しでも近づくのを防ぎたいのに──なんでこんな形で迷わされなあかんのや。
(どうすんねん俺……いや、行ったら絶対、ややこしいことになる……けど……)
目の前では、あいかわらず柔らかく笑う目黒の顔。
困ったように眉尻を下げて、「気軽に考えてくださいね」と言うその声が、またズルいほど優しい。
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