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その後も優斗母はあれこれと意味不明なことをまくし立てて、自分が満足したのか『謝ってうちに尽くすなら許すわよ』と言って一方的に電話を切った。
しんと静寂が訪れ、川喜多さんがかちりと録音ボタンを押して終了させる音だけが響く。
川喜多さんは静かに告げる。
「さて、舞台は整いましたね。あとは山内親子との完全なる縁切り計画を実行するのみです」
なんだか別れ話がとんでもないことになっている気がして私は少々怯えてしまい、おずおずと不安を吐露した。
「こんなことをして大丈夫でしょうか。私はただでさえ、会社で変な噂が出回っているのに、さらに優斗がこのことを暴露したらと思うと……」
すると千秋さんがとなりで私の肩を抱いたまま、にっこり笑って言った。
「不安になる気持ちはわかる。しかし、いつかは悪い縁を絶ち切るべきだ。君の人生はまだまだ長い」
「そう、ですけど……実家に帰ることもできなくて、会社でも居場所を失ったら、私はこれからどうしたら……」
「君にはもう新しい居場所があるじゃないか」
私が驚いて千秋さんを見上げると、彼は穏やかな表情で微笑んだ。
嬉しさと、不安が同時に込み上げてくる。
なぜなら私はまだ完全に彼のことが信用できていないからだ。
こんなに親切にしてくれるのに、もしかしたら彼も付き合ったりしたあとに豹変するんじゃないかって、そんな疑念を抱いてしまうのだ。
私、病んでるのかしら?
しばらく千秋さんをじっと見つめていると、テーブルの向こう側に座る川喜多さんがこほんっと咳払いをした。
「ええー……では、僕はこれで失礼します」
川喜多さんが席を立つと、私も急いで立ち上がった。
千秋さんと玄関先まで彼を見送る。
川喜多さんが帰り際に私へ声をかけてきた。
「紗那さん、おかしいと思うことはおかしいと主張してよいのです。自分さえ我慢すれば丸く収まる。そう考える人は意外と多くいます。けれど、それでは自分も周りも幸せにはなれません。他人をいい気分にさせても自分が疲弊していては意味がありません。自分の心を守るために戦うべきときもあります」
彼はすらすらと話したあと、少し恥ずかしそうに俯いた。
「今のは僕の個人的なことなので聞き流していただいて結構です。それでは失礼します」
彼はぺこりとお辞儀をして静かに帰っていった。
そのあと、千秋さんは私に川喜多さんの話を少ししてくれた。
「彼は俺の従姉の今の夫なんだよ」
「え? あの……私にこのマンションの部屋を貸してくれて私と似た境遇で離婚して今は誠実な人と再婚された従姉の方ですか?」
「よく覚えているな」
千秋さんはちらりと私を横目で見て言った。
「じゃあ、そのとき従姉さんを助けてくれたのが川喜多さんだったんですね」
「そう。彼のことは信頼している。だから君のことをお願いしたんだ」
それを聞いて、ずいぶん私の不安が解消された。
私は思い切って千秋さんに訊いてみることにした。
なぜ、私をこんなに助けてくれるのか。私に新しい居場所を与えてくれるのか。
ただ、従姉と似た境遇だから助けたというには、あまりにも特別扱いしてくれるから。あれこれと思い悩むよりも、すべてを聞いてすっきりしたかった。
その夜、私たちはソファにとなり合って座り、少しワインを飲みながら話した。そうしたら、意外なことを彼は口にしたのだ。
「え? 5年も前に私たちは会っているんですか?」
「正確にはもっと前。君を初めて見たのはパーティのときだった」
毎年1月にグループ会社全体の新年祝賀パーティが盛大に開かれる。
どうやら私はそこで飲み物を配っていて、手に何も持っていなかった千秋さんにシャンパンのグラスを渡したようなのだけど、正直覚えていない。
だって、手ぶらな人にグラスを渡したのは千秋さんにだけじゃなかったから。
「すみません、記憶になくて……」
「そうだろうね。君は俺にまったく興味を持たなかったから」
「え……ごめんなさい。だって、知らない人だったらそんなもんでしょ?」
だいたい挨拶も交わしていないのだ。普通はお互いにすぐ忘れちゃうものじゃない?
「千秋さんはよく私のことを覚えていましたね」
「ああ。だって、俺と目が合った女性はみんな注目するのに君はスルーしたから」
「はっ!?」
え、何それ、つまり……イケメンでモテると自負している自分を見てくれなかった稀有な女ってことで記憶されていたんですかね?
うわあ、いろいろツッコミたい……。
「あのう、前から思ってるんですけど、自分で自分をかっこいいって公言するなんて恥ずかしくないですか?」
「下手に謙遜するよりいいと思うけど?」
「ま、まあ……たしかに」
目もくらむほど美人の女性に「私はぜんぜん綺麗じゃなくてー」なんて言われたらたしかにイラッとするのは否めないが。
「そのときショックを受けて、大和撫子が好むイケメン男子を研究した」
「そんなに? ていうか、言葉のチョイスがいちいち面白いんですけど」
私がくすくす笑っていると、彼はワイングラスをテーブルに置いて、少し私に近づいた。お互いの肩が触れてどきりとする。
すでに触れ合った関係で今さらなんだけど、今日は妙にドキドキする。
「君と知人のバーでとなり合わせたとき、奇跡かと思ったんだ。言い方は悪いけどチャンスだと思った」
「……正直ですね」
「気になっていた女性が困っている。助けたいと思うのが男心というものだ」
「そうですか。ありがとうございます」
そのことについては本当にありがたいと思っている。
ただ、ここ最近いろんなことが起こり過ぎて私の頭が追いついていない。
ゆっくり千秋さんのことを考える余裕がない。
「その……付き合うっていう話なんですけど……」
その場のノリで言っていたように聞こえるけど、そこまで想ってくれていたなら私もちゃんと考えなきゃいけない。
「まだ……心の整理ができていなくて」
「大丈夫。まずはすべてクリアにしよう。それから考えてくれればいいよ。ゆっくり待つから」
そんなふうに言われても、かえって申し訳ない気持ちばかりが膨らむ。
そこまで想われるほど魅力のある女だと自分では思えないからだ。
「その、もし他に気になる女性ができたら、そちらへ行っても……」
おずおずと小声でそう告げると、彼は思わぬ返答をした。
「実は俺、この5年間誰とも付き合っていないんだ」
「ええっ!? 嘘でしょ! そんなまさか」
「自分でも諦めの悪い奴だと思っている。結果的に諦めなくてよかった。君ともう一度チャンスがあるなら」
千秋さんはちょっと酔っていて、やけに嬉しそうに語った。