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翌日。
すぐに異変に気がついた。
落ち着きのない社内、私を見る社員の視線。
何?
訳が分からないままデスクに辿り着いた途端、息を切らしてイベント企画部に飛び込んできたのは、真由。
「馨! ちょっと——」
常に冷静沈着な真由が取り乱すのは、かなり珍しい。
腕を引っ張られて連れて行かれたのは、無人のミーティングルーム。内側から鍵を掛けると、ドアに〈使用中〉の赤いランプが点く。
「どうしたの?」
「部長は? 一緒に出社したの?」
「ううん? 一本早い電車に乗ったはずだけど」
真由に促され、椅子に座る。
「じゃあ、きっともう呼び出されてるわね」
「誰に?」
「これ、見て」
真由が四つ折りにされたA4サイズの紙を差し出す。
私は恐る恐る紙を広げた。
「な——!」
上半分には写真、下半分には大きな文字で『槇田部長は枕営業をしている!』。
写真の写りはあまり良くないけれど、誰が何をしているのかはわかる。
雄大さんと春日野さんの抱き合う姿。
「昨日の……よね?」
「多分……」
「全社員にメールされてる」
「え?」
顔を上げると、真由が眉間に皺をよせて言った。
「……きっと、社長や副社長にも」
「うそ!」
「部長は部屋にはいなかったわ」
「どうして……」
どうしてこんなデマが——。
「馨、落ち着いて。昨夜、部長が春日野玲と会うことを知っていたのは誰?」
「え……?」
「部長に悪意を持った人間に偶然こんなところを見られた、なんて出来すぎでしょう」
「意図的に誰かが写真を撮ったってこと?」
「あくまでも可能性があるってことよ」
そんな……。
私はポケットのスマホを取り出し、雄大さんの番号に発信した。
呼び出し音が三回鳴り、今は電話に出られないとアナウンスが流れた。
雄大さん……。
「どうしよう……。真由の言った通りだ……」
私の偽善のせいで、雄大さんが——。
「馨……」
真由が心配そうに私を見る。
私は大きく深呼吸をした。
私がここで狼狽えても、意味はない。
「昨夜、雄大さんが食事に行くことを話したのは真由だけよ。ただ、真由を誘った時の会話を聞いてた人がいなかったとは言い切れない」
「あの時、そばに誰かいた……?」
昨日、私が真由を誘ったのは、雄大さんと社に戻ってから。給湯室で真由と会った時。
あの時、給湯室には私と真由の二人だったけれど、外に誰かいなかったかまでは気にしていなかった。
『雄大さんはデートなの』
私は言った。
『何よ? それ。浮気?』
『私がいいって言ったの』
『浮気していいって?』
『まさか。食事だけよ。仕事で付き合いのある人だし』
ふざけ半分にそんな会話をしたことを、悔やむ。
「確かに、あの時の私たちの話を聞いていれば、部長が仕事で関りのある女性と食事する、ことはわかったわね」
「けど、誰が聞いてたかなんて……」
私と真由、同時に思い出した。
「沖くん!」
真由と食事に行く店を決めている時、沖くんが給湯室に来た。
けれど、沖くんが雄大さんを貶めるようなことをするとは、思えない。
「馨はここにいて。沖くんを連れて来るから」と言って、真由が背を向ける。
「待って! 電話した方が早いし誰にも気づかれないと思う」
私は沖くんに電話をかけ、ミーティングルームに来て欲しいと頼んだ。
ドアがノックされるまで、五分もかからなかった。
「どうなってんだよ?」
佐々課長が真由を押し退けて入ってくる。
「すいません。電話があった時、課長と打ち合わせしていて……」と、沖くんが申し訳なさそうに言った。
「なにがすいませんだよ。俺だって心配してんだぞ?」
「私もどうしてこんなメールが流れたのかわからなくて……」
課長は数秒前まで真由が座っていた椅子に座る。私の正面。
「つーか、この写真の女は宇宙技術研究所《うぎけん》の春日野さんじゃねえ?」
「課長、知ってるんですか?」
「槇田がまだ俺の部下だった頃に、一緒に仕事したんだよ。詳しくは知らねーけど、付き合ってたのは知ってる」
「え? じゃあ、元カノ?」と、沖くん。
真由が私と課長の隣に椅子を並べて、沖くんが課長の隣に座る。
「那須川は知ってたのか?」
「はい」
「二人が付き合っていたことも、今も会っていることも?」
「はい。けど、ゆ——部長が春日野さんと再会したのは静岡出張の時で、ずっと会っていたわけじゃないんです。昨夜は、春日野さんに誘われて……」
「よく、行かせたな?」
課長と沖くんが、信じられないという顔で私を見る。
「え……っと、仕事でご一緒する方ですし、積もる話もあるかと……」
「いや、それにしたって——」
「それはさておき!」
真由が言った。
「沖くん。昨日の午後、給湯室で私と馨に会ったわよね?」
「はい」
「その時、そばに誰かいなかった?」
「え……?」
真由が佐々課長と沖くんに事情を説明した。沖くんはギュッと唇を結び、考え込む。
「広川がいました」
「広川さん?」
「はい。俺が給湯室に行った時、広川が出てきたんです」
「出てきた? 広川さんは給湯室にはいなかったわよ?」
「え……? じゃあ——」
立ち聞きしていた——。
「広川さんか……」と、私は呟いた。
「広川さんがこんなことをする心当たりがあるの?」
「うん……。広川さん、雄大さんを狙ってたみたいだから……」
「マジか?」と、課長。
一回りも年が離れているから、信じられないのだろう。
「あーーー。確かに。あからさまに態度に出してましたよね」と、沖くん。
「そうなのか?」
「はい」
「度胸があると言うか、無謀と言うか、身の程知らずと言うか……。若いって怖いな」
「で?」と、真由が私に話を振る。
「笑顔で喧嘩売られたから、人の男にちょっかい出す前にお茶汲みを覚えろ、って——」
「……マジ……?」
課長と沖くんの表情が引きつる。
恥ずかしすぎる……。
「それで、これ、か……」と、真由だけが納得。
「どんだけバカなのよ」
「けど、広川がやった証拠はないですよね? それに、いくらなんでもこんな大それたことを考えるとは思えないんですけど」
真由が、ジロリと沖くんを睨む。
「男が思っているより、女は腹黒いし残酷なのよ。自分を踏みにじった相手を蹴落とすことくらいなんとも思わない女もいるわ。特に、広川さんみたいに自分大好きで自分に酔ってるような女は、笑顔でどんなことでもやるわよ?」
「そういう……もんですか……」と、沖くんは頭をもたげた。
「あーーー。ヤルと言えばなぁ」
佐々課長が思い出したように、頭をガシガシと掻く。
「ヤッてたわ」
「はい?」
「広川」
「何をです?」
「ナニ、を」
この言葉遊びのような会話の意味が分かるまで、三秒もかからなかった。
「え? 課長?」
「は? あ! 違う! 相手は俺じゃない!」
私の想像を察し、課長が慌てて、全力で否定する。
「見ちまったんだよ!」
「え? もしかして社内で?」と、真由が食いつく。
課長が頷いた。
沖くんは恥ずかしそうに黙っている。
「一週間くらい……前だったかな。営業部長の部屋で」
営業……。
「営業部長!?」
「——の部屋! 相手は違う」
「じゃ、誰ですか?」
「黛——」
思わず、考えが口に出てしまった。
「そう。営業の黛! 八時……くらいだったかな。書類を置きに言ったら見ちまった」
黛と広川さんが——。
「二人が繋がってるとなると、コレは黛の差し金かもね?」
真由も同じ考えに行きついたよう。
「黛が? 理由は?」
「黛は以前、馨にこっ酷く振られてるんですよ」
「マジ?」
「マジ」
「あちゃー……。槇田に振られた広川と、那須川に振られた黛、か……」
「それなら……納得です」と、沖くんが呟いた。
「黛さんの良くない噂は……聞いてますから」
「ああ。一部の女子社員には人気があるらしいけど、男の間ではかなり評判悪いからな」
佐々課長も同調する。
「黛なら、これくらいやりかねないな」
「けど、目星がついても証拠がないわ。それに、この写真がねつ造でないのなら、上層部は犯人が誰かなんてどうでもいいことでしょうね」
真由の言う通りだ……。
「ねつ造……じゃないのか?」
「春日野さんは今でも……雄大さんに気があるようだったので……」
ねつ造じゃない。
昨夜、帰って来た雄大さんのワイシャツには口紅の痕があった。襟の少し下。雄大さん自身では気づけない場所。
写真では、丁度春日野さんの顔が雄大さんの首のあたりにある。
私だと、もう少し下なんだよな……。
ふと、どうでもいいことを考えてしまった。
「副社長に呼ばれてる槇田が、何て釈明したか次第だな」と、佐々課長が言った。
「俺たちが広川を吐かせても、槇田の話と食い違ってちゃ意味がない」
「雄大さんはきっと……本当のことを言うと思います」
「本当のこと?」
「春日野さんとは元恋人で、昨夜は食事しただけで、よろけた彼女を支えただけだって」
雄大さんはきっと、おかしな嘘をついたりしない。そんなことをしたら、私が疑うから。だから、きっと本当のことを話し、堂々と私の前に立つはず。
ヴーヴー
テーブルに置いてあったスマホが震えだす。
雄大さんからのメッセージ。
『どこにいる?』
私はミーティングルームにいることを知らせた。
「わ! 珍しい面子だな」
雄大さんは私たち四人を見て、言った。
「お前を心配してたんだろうが」と、佐々課長。
沖くんが頷く。
「副社長の話は終わったんですか?」
「ああ。注意で済んだ」
私たちはホッと胸を撫で下ろした。
「馨、大丈夫か?」
「はい」
雄大さんが私の反応を窺う。私は、特に笑いも泣きもせず、頷いた。
「槇田、副社長には何て釈明したんだ?」
「事実のまま、です。彼女とは元恋人で、昨夜は食事して、躓いた彼女を支えただけだって」
「は……。那須川の言った通りだな」
課長も沖くんも、驚きながら笑う。
「何? 馨の言った通りって……」
「それは、後で聞け。とりあえず注意だけで済んで良かったな。じゃ、俺たちは仕事に戻るわ」
課長は沖くんを連れて、部屋を出て行った。
「私も行くわ。馨、後でまた話そ」と、真由。
「暴走しないでよ?」
「うん」
「暴走?」
真由が出て行き、ドアに鍵を掛けた雄大さんが聞いた。
真由は私のことを良く知っている。
私が感情的になると、どうなるかを。
「それより、本当に注意で済んだんですか?」
「ああ。信じてもらえたかは微妙だけど、宇宙展に関してはお前への依頼《オファー》だったし、俺が営業してないことは上層部も承知しているからな。俺が玲と寝て仕事を取ったわけじゃないってことは、信じてもらえてる」
「そっか……」
「ただ、お前のアシストからは外れるように言われた」
「え……?」
雄大さんが私を抱き寄せる。
「婚約者《お前》がいるのに、他の女と二人きりで食事なんて誤解されても仕方がない、とさ」
『部長が春日野玲と二人きりで食事してるところを会社の誰かに見られたら、どうすんのよ?』
真由の言った通りだ。
私が雄大さんに、春日野さんと食事に行くように言わなければ、こんなことにはならなかった。
「ごめん……なさい」
「お前のせいじゃない」と言いながら、私の頭を撫でる。
「お前の言葉に納得したから、行ったんだ」
「でも……」
「それより! あの写真は、本当に躓いたのを支えただけだからな?」
「え? ああ……。うん」
「抱き合ってたとかじゃないからな?」
「はい」
「ちゃんと、信じろよ?」
自分の立場よりも、私が誤解しないように必死。
この人は、どうしてこんなに……。
私は背伸びをして雄大さんの首に腕を回すと、口づけた。
どうしてこんなに私なんかを大事にしてくれるの——?
雄大さんの腕が私の腰を抱き、唇がより深く重なる。
「ちゃんと、信じてるよ——」
ちゃんと、愛してるよ——。
私は言葉に出来ない想いを、キスに込めた。