「部長、宇宙展から外されちゃったんですってね」
若さ、では済まされない無謀さ。
終業時間が少し過ぎた社内で、広川さんが言った。残っている社員が一斉に彼女を見た。
「一時的に、ね」
私は言った。
「デマに振り回されて、いい迷惑だわ」
「デマ、ですかぁ?」
「ええ。デマ、よ」
「けど、抱き合ってますよねぇ?」と言って、メールをプリントアウトしたものをピラピラとなびかせる。
「おい! 広川!!」
怖いもの知らずの広川さんを、沖くんが止める。
「面白半分に詮索するな!」
「面白がってなんかいませんよ。心配してあげてるんじゃないですか。部長に浮気されて可哀想な主任を」
朝から周囲の視線に耐えて仕事に集中してきた。視界にチラつく広川さんを見ない振りしていた。けれど、いい加減限界だった。
「いい加減にしろ!」
「だって、会社中が知っているのに誰も聞かないなんて、おかしいじゃないですか」
「お前には関係ないだろ!」
「えー。だって、婚約解消とかで主任が辞めちゃったりしたら、みんなが困るじゃないですか」
漫画ではよく、プチッと神経がキレる音が表現されるけれど、それが本当に起こる現象だとは思っていなかった。
「広川!!」
「いいのよ、沖くん」
頭の中で何かが弾け、私の中で広川さんが敵認定された。
「広川さん」
私はヒールの音を響かせて、ゆっくりと広川さんに歩み寄る。彼女の三歩手前で止まった。正面から、真っ直ぐ彼女と見合う。
「心配してくれてありがとう。でも、雄大さんは浮気なんてしていないし、婚約解消もしないから大丈夫よ」
「じゃあ、この写真は何ですか?」
広川さんが目を逸らさずに、言った。
いい度胸だ。
「一緒に食事していた女性が躓いたのを支えただけ」
「部長、言い訳が下手ですね?」と、フンッと鼻で笑う。
「どうして言い訳だと思うの?」
「どうして言い訳じゃないと思うんですか?」
言うじゃない——。
周囲の視線が集まっていることに気がついていたけれど、引くつもりはなかった。
「雄大さんを信じてるから」
言った瞬間、広川さんが右の口角を上げて、ニヤリと笑った。
私の根拠のない、青臭い言葉を待っていたよう。
「——なんて言ってみたいところだけど」
小娘に馬鹿にされてたまるか!
「私もいたのよ、この場に」
「——!?」
広川さんの表情が曇り、目つきが鋭くなる。
「おかしい? 写真の女性は宇宙展の担当者だもの。私と雄大さんで食事にお誘いしたの。要は、接待ね」
周囲がざわつく。
今日一日、事の真相が気になっていた人たちが、納得と安堵の表情を見せる。
「なんだ……。じゃあ、完全にデマじゃん」
誰かが、言った。
「つーか、誰だよ。こんなの流したの」
沖くんは私の嘘に、ハラハラしている。佐々課長は少し楽しそうに見ていた。
「嘘よ!」
「どうして?」
広川さんは何か言いたげに口を開き、ハッとして言葉を呑み込んだ。
私の挑発に気付いたよう。
「だったら、どうして部長は担当を外れたんですか? デマならそんなこと——」
「だから言ったでしょう? 一時的に、って」
「嘘よ!」
「どうして、嘘だと思うの?」
「だって! 写真の女は部長の元カノなんでしょう?」
広川さんの言葉に、また周囲がざわつく。
「だから?」
「恋人の元カノと食事なんて有り得ない!」
「どうして?」
「は?」
広川さんは必死の形相。
「どうして有り得ないの?」
「普通に考えておかしいじゃないですか!」
「そう? プライベートなら有り得ないでしょうけど、仕事だもの。必要なら何度でもご一緒するわよ?」
広川さんの歯ぎしりが聞こえるよう。
「それに、この写真を撮られた直後に彼女はタクシーで帰ったわ。もちろん、私と雄大さんも一緒にタクシーで帰った。だから、枕営業なんて——」
「嘘よ! 部長はタクシーには乗らなかった!」
「——どうしてそんなことを知っているの?」
「え?」
自分の言葉の意味に気がつき、ハッとして手で口を押える。
「雄大さんがタクシーに乗ったかなんて、この写真でわかるはずないわよね」
「それじゃあ……」
勘のいい人は気がついたよう。
「それに」
けれど、まだ決定的ではない。
「どうして写真の女性が雄大さんの元カノだと思うの——?」
広川さんの顔が青ざめていく。
「だって……」
「ねぇ? 広川さん。私、見たのよ。あなたを」
「え……?」
「この日、このお店のある南青山の駅前で」
「え?」
「それじゃあ、やっぱり」
憶測を口にする声は、既に小声ではなくなっていた。
「この写真を撮ったのは広川さん——」
誰かが、言った。その瞬間、広川さんが取り乱したように甲高い声を上げた。
「違うわ! だって、このお店は恵比寿に——」
言った——!
欲しかった言葉を引き出せて、私はホッとした。もちろん、表情には出さずに。
本来、駆け引きは苦手だ。
「どうしてこのお店が恵比寿にあることを知っているの——?」
広川さんが小さく震えていることに気づいたのは、私だけだと思う。
生意気なことを言っても、結局は大学卒業したての女の子。
それでも、情けをかけてあげるつもりはない。そこまで怒らせたのは、他でもない彼女自身だから。
「広川さん。どうしてこんなことをしたの?」
「部長に相手にされなかったからって、サイテー」と、誰かがはっきりと言った。
隣のチームの女性。
「ちがっ——!」
「じゃあ、誰かに頼まれたの?」
「え——」
今の広川さんは立っているのが精いっぱいだろう。
私は二歩、彼女に近づき、耳打ちした。
「例えば、営業部長の部屋の彼……とか?」
一瞬で、彼女の目から涙が溢れた。
「どう……して……」
「鍵が掛かっているか、ちゃんと確認しましょうね」
広川さんはその場に座り込んだ。俯き、泣きじゃくる。
営業部長の部屋でセックスをしていたなんて社内に知れ渡るなんて、二十二歳の女の子に耐えられるはずがない。
「もう、いいだろ」
聞き慣れた声がする方に顔を向ける。
雄大さん——。
隣には、真由。
「人のゴシップで遊んでないで、仕事しろ。終わった奴は帰れ」
鶴の一声で、人々が一斉に散った。
「広川、お前も帰れ」
雄大さんが苛立ちを隠さずに言った。
「男漁るなら、社外でやれ」
広川さんは泣きながら、オフィスを飛び出して行った。念のため、真由が後を追う。
「愛されてますね、槇田部長」
佐々課長が言った。課長は事情を知りながら、最後まで口を出さなかった。
「お陰さまで」
「広川の処遇は明日、報告します」
「お願いします」と、雄大さん。
そうだ。
課長は広川さんの直属の上司。
そして、今回の騒動の一部始終を見ていた。
自主退職……かな。
課長は仕事に不真面目な人には容赦ない。解雇も出来るだろうけれど、入社数か月の広川さんの今後を考えると、自主退職が相当だろう。
「馨、帰るぞ」
「え?」
「これ以上見せモンになるのはご免だ」
私はざっとデスクを片付けて、雄大さんと帰路についた。
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