結葉が山波家で生活をするようになって一週間ちょっと。
皆が皆、各々に五人での暮らしにも大分慣れてきた。
結葉は公宣と純子の気遣いで、お風呂やトイレ、それから洗面所は基本的に二階にあるゲスト用のものを使わせてもらっている。
幸い想と一緒に暮らすことを決めた時、シャンプーやトリートメント、ボディソープなども結葉用に一式揃えてもらっていたから、それをお風呂場の一角にちんまりと置いてみた結葉だ。
まだ仕事をしているわけではない結葉は、日がな一日家にいて純子と過ごす割合が一番多い。
結葉が住まわせてもらっている山波邸は、結葉から見ると豪邸の部類に入る。
そこをお手伝いさんも雇わず一人で切り盛りしている純子さんはすごい!と思ってしまった。
のほほんとしているように見えて、純子は家事全般を結構手際よくテキパキと無駄なくこなす。
結葉はそんな純子の足手纏いにならないよう気を付けながら、彼女のサポート役に徹していたのだけれど。
「あの、純子さん、二階の水回り関係は私が丸っと掃除させて頂いても構わないでしょうか?」
そもそもそこを主に使わせてもらっているのは他ならぬ結葉自身なのだ。
大分純子のやり方も分かって来たし、そこぐらいは責任を持って綺麗にしたいな、と思って。
恐る恐る提案してみたらめちゃくちゃ喜ばれた。
「わ〜。助かるぅ〜。実は私、基本的には一階で過ごしたい派なのぉ〜」
嘘か真実かは分からないけれど、純子は「階段の昇り降りは朝晩の一回ずつだけでいぃーっ!」と力説して。
「本当はね、この家建てる時も平家がいいって言ったんだけど……公宣さんがそれだと土地を食い過ぎるからダメだって」
ムゥッと唇をとんがらせる純子を見て、奥さんに甘々に見える公宣にも譲れない部分があったんだなとちょっぴり感心してしまった結葉だ。
「お互いに言いたいことを言い合えるご夫婦って素敵です」
自分だって結婚生活を始めたばかりの頃はそうだったはずなのに。
いつの間にか偉央の顔色をうかがってばかりいるようになってしまった。
食事の時のお茶の好み一つ言い出せないままに唯々諾々と偉央に付き従っていた自分は、果たして夫婦と呼べる関係だったのだろうか。
そんなことを思ってしまって。
ついポロリとこぼすように漏らして無意識にうつむいたら、「ゆいちゃんはソレが出来なくて辛かったのかな?」と頭をヨシヨシされてしまう。
髪を撫でる優しい感触にソワソワと視線を上げると、まるで聖母さまみたいに優しい表情をした純子と目が合って。
その柔らかな眼差しに引き込まれるように、結葉は「はい」と素直に答えていた。
「そっか。それは辛かったね。一緒に住んでるのに自分の意見が言えないと、ドンドン心の中にモヤモヤが溜まっちゃうもんね」
ほぅっと吐息を落とすように言って、純子が結葉の顔をじっと見詰めてくる。
「あ、あの……」
「ね、ゆいちゃん。なかなか難しいかも知れないけど……うちでは思ったこと、何でも遠慮なく言ってね?」
「え……っ」
「私たち全員、ゆいちゃんのこと、本当の家族みたいに思ってるから。だから嫌なことは嫌って言って大丈夫だし、これがしたい、あれがしたいってワガママだってバンバン言ってくれて構わないのよ?」
ヨシヨシ、と小さい子にするみたいに結葉の頭を撫でながら純子が言って。
結葉はそんな純子の言動に、美鳥や茂雄を思い出してウルッとしてしまう。
涙目になってしまったのをバレたくなくて顔を上げられなくて。
でもお礼はちゃんと言いたかったから。
「有難う……ござい、ます」
小さくつぶやいたら声が震えて(泣いちゃったの、バレバレ)と、心の中で自分の不甲斐なさに苦笑した結葉だ。
「どういたしまして。もちろん私たちもゆいちゃんには遠慮なく思ったことを言うから。それにムカッ!ときたら変に気を遣わないで怒ってくれて大丈夫だからね?」
純子は結葉の頭をポンポンと契機づけるようにやわらかく叩くと、
「そんなわけでっ。二階のこと、ゆいちゃんがやってくれるの、すっごくすっごく助かりまぁ〜す!」
言ってニコッと笑って見せる。
結葉はそんな純子に涙目のまま笑い返すと、「じゃあ、二階は責任持って私が管理させて頂きますねっ」とガッツポーズをして見せた。
動いた瞬間に目に溜まっていた涙がポロリと溢れて頬を伝ったけれど、純子には泣き顔を見られても構わないやって思えた結葉だ。
「じゃあ、早速お願いしまぁ〜すっ!」
純子にポンッと両肩に手を載せられて、結葉は「はいっ!」と笑顔で応じる。
偉央との生活でずっとずっと抑圧して来たけれど、結葉は山波の人たちのお陰で少しずつ〝自分〟が出せるようになってきた。
元々それほど多くを要望する性格ではなかったけれど、自分が思うことを言っても相手から頭ごなしに押さえつけられないと言うのは、こんなに幸せなことだったんだと。
恐らく殆どの人にとっては当たり前のことを、しみじみと嬉しく思う結葉だった。
***
十九時前。
「ただいまぁ〜」
という声がして想が帰ってきて。
家の外でエンジン音が聞こえていたから(想ちゃん帰って来たかな?)と思っていた結葉は、よくなついたワンコみたいに扉が開くより早く玄関先に辿り着いていた。
少し前に帰ってきた公宣は、例によって今、純子とともに夫婦水入らずの入浴タイムで。
芹は今夜は彼氏とデートだとかで遅くなるとのことだった。
「想ちゃん、お帰りなさいっ! お仕事お疲れ様」
マンションにいる時も、偉央が戻ってきたらこんな風に毎日玄関先まで出迎えていたけれど、いまみたいにワクワクした気持ちで出ていたか?と聞かれたら「はい」と即答出来ない結葉だ。
と言うのも――。
ソワソワした気持ちで想を見上げたら、彼はニコッと笑って手にした弁当包みを持ち上げて見せる。
「結葉、今日の弁当もめっちゃ美味かった。サンキューな」
想は今、結葉がいる上がり框付近より一段低い敷台の上に立っているのだけれど、それでも結葉より数十センチは高い位置に顔があって。
間近で想を見上げたら、想がちょっぴり照れたみたいに視線をそらせながらもそう言ってくれた。
「ご飯の量、少なくなかった? ちゃんと足りた?」
そこでふと、この弁当箱が手元に届くまでの経緯に思いを馳せてしまった結葉だ。
***
ここで暮らし始めて二日目の夕方。
夕飯後、キッチンに残った結葉は、純子にせっつかれるようにしてお弁当作りのことを想に切り出したのだけれど。
想は一瞬驚いたような顔をしてから「えっ。マジで? ……いいのか?」と恐る恐る聞いてきて。
「うん。想ちゃんさえ迷惑じゃなければ」
結葉が不安気にそう言ったら
「迷惑なわけねぇよ! って言うか逆にすっげぇ助かる!……し、えっと、その……」
そこですぐそばに立つ純子を気にしてチラチラと睨むように見詰めてから、結葉の耳元に屈み込んで唇を寄せる。
そうして結葉にだけ聞こえるぐらいの小声で、「作ってもらえたらめちゃくちゃ嬉しい」とささやいた。
想の吐息が耳に当たって、結葉はゾクリと肩を震わせて。
思わず見上げた想が耳まで真っ赤にしているのを見て、当てられたように自分もぶわりと顔が熱くなってしまう。
「や〜ん。何なの、二人ともっ! 想像以上に可愛いーんだけどっ♡ お母さん妬けちゃ〜う♡」
純子が満足そうにそんな二人に声をかけて、「想が使えそうなお弁当箱、あったかなぁ〜」と言いながら「あ、邪魔者は消えるからあとは二人でゆっくりお話、煮詰めてね♪」とにっこり笑ってキッチンを出て行った。
結局、――台所以外のどこを探したのかは不明だけれど――使えそうな弁当箱は見つからなかったと純子から報告を受けた二人は、「新しいのを買おう」と話して。
早速翌日に想がどこかで買って来て「これでお願いします」と結葉に差し出した、仕切り付きの大きな弁当箱を使っているといった塩梅だ。
純子が「うちの息子、結構行動力あるわね」とクスクス笑って。
想と結葉に照れを多分に含んだ困った顔をさせたのだった。
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